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 23,ふたり


 ――傷つけるな。

 そう訴えるように、頭蓋を絞めつけられた。激痛に圧されるように、ディートハルトは床に片膝をついた。
 怒りのままにフィオレンティーナを傷つけようとした自分。それを抑制しようとするのは、僅かに残った幼い頃の恋心か、フィオレンティーナを奪われたユリウスの呪いなのか。
 彼女を守るように、脳を(さいな)んで、暴走するディートハルトを支配しようとする。
 押し迫る苦痛に耐えていると、
「……どう……したの?」
 頭上から震える声が降ってきた。こちらの手の内から逃れることも可能だっただろうに、フィオレンティーナはディートハルトの瞳を覗きこんできた。
 翡翠の瞳を目にした瞬間、彼を屈服させていた痛みが薄らぐ。安楽を欲して、彼は両腕にフィオレンティーナを抱いた。
 腕の中で逃れようとする肢体を締め付け、彼女の肩に疼く額を押し付ける。沁み込んで来る体温が徐々に苦痛を緩和し、ディートハルトの荒んだ心が癒されていく。
「……その……ままで」
 少しずつ理性が戻ってくる。この効果を知ってしまった以上、フェリクスやアルベルトが何と言おうと、彼女を手放せるはずがない。
「お前だけだ……」
 腕の中で嫌だという風に首を振るフィオレンティーナを説き伏せるように、ディートハルトは繰り返した。
「お前だけしか、要らない」
 国のためであろうが、他の女なんて要らない。
 今すぐに手に入れられない女であろうと、これから先、彼女の心を手に入れるのにどれだけの時間が費やされようと、彼女しか駄目だ。彼女しか欲しくない。
 失われた記憶によって分裂した過去の自分と今の自分が、一つに重なるのをディートハルトは実感した。
 ――ただ一人、フィオレンティーナが欲しい。彼女が手に入るのなら、他の物をすべて諦めてもよい。
 幼いディートハルトはそう望んだ。だから、彼女を奪ったユリウスを憎んだ。
 その衝動に突き動かされた今のディートハルトも、ユリウスに染められている彼女の心を自分のものにと、欲する。
 なのに、
「……私がユリウス様の婚約者だったから…………あなたは私に」
 憎らしい名前が彼女の口に上れば、殊勝(しゅしょう)な精神はどこへ失せたのか、怒りに駆られ腕の中のフィオレンティーナを突き飛ばす自分がいた。
 途端に、激痛が舞い戻ってくる。
「その名前は……くそっ!」
 先のよりずっと酷い激痛に叩き伏せられるように、ディートハルトは床に額をこすりつけた。
 責め苛むのは、内側に住み着くもう一人の自分か、記憶の亡霊か。肉体を持つ相手であったのなら、幾らでも戦えただろう。あのユリウスのように、この手で殺せた。
 記憶は失くしたが、奴の肉を貫いた剣の、手のひらに伝わってきた衝撃の感触はディートハルトの中に生々しく残っている。
 皮膚を突き、肉を引き裂き、内臓を潰して、ユリウスの命を食らった剣が教える殺戮(さつりく)の残滓。滴り落ちる血の音を、肉から命が失せていく音を、暗闇の中で聞いた。
 同時に、刺し貫かれた脇腹の痛みを、ディートハルトは唐突に思い出す。
 暗闇の中で振るった剣が獲物を貫いたとき、一拍置いてユリウスが抵抗する刃もディートハルトを貫いていた。
 引き裂かれた肉の痛みにのけ反り、距離を置けば、城が大きく揺れた。
 城の壁が崩れ、火でも放たれたのだろうか、赤い光が暗闇に弾ける。その中で崩壊する石壁の下に赤く染まった腕を見つけた。
 炎の赤か、血の朱か。
 自分と同じ形の指は、動くことなく横たわり、瓦礫(がれき)の下から滲む朱色が自分の身体からこぼれる真紅と入り混じり、暗い沼を足元に作るのを眺めたディートハルトの意識はそこで途絶えた。
 恐らく、そのときに落石を頭に受けたのだろう。
 次の記憶は、天幕にぶら下げられたランプの下で、こちらを覗き込む軍医の顔だった。
 焦ったような軍医の顔を見ながら、ディートハルトは脇腹に熱を感じた。もう一つ、心臓を持ったように疼く傷に、ディートハルトは怒りを覚えた。
 ユリウスを殺した時の記憶は残っていた。彼に対して抱いていた憎悪も。
 ただし、残っていたのはユリウスに係わることだけで、他のすべては忘れ去られていた。憎悪を抱くに至ったフィオレンティーナへの恋心や、ディートハルトの負傷を聞きつけ、駆けつけてきた幼馴染みのフェリクスやアルベルトの顔にも覚えがなかった。
 自分がシュヴァーンの玉座に就いたことも聞かされて、「ああ、そうか」とディートハルトは他人事のように受け止めた。
 記憶を失ってからのこの二年間。記憶と言うものが基本的な知識さえ残っていれば存外に役立たずで、必要のないものであることを知った今、フィオレンティーナに対する幼い恋心を除いては、さして惜しいものでもなかったと実感する。
「……怪我を……したの?」
 普段は髪に隠れ目立たない、こめかみに残る傷跡に触れたフィオレンティーナの声が、ディートハルトを現実に連れ戻す。
 絡めた指先から伝わる体温が、いつの間にか頭痛を鎮静化していた。
 憎んで余りある相手であるだろうに、苦しんでいるこちらを前に手を差し出してくるのは、彼女の寛大さか、それともユリウスに瓜二つのこの容姿のせいか?
 ディートハルトの中に、ユリウスの面影を求め続ける限り、フィオレンティーナが彼の手の内から逃れることはないのかも知れない。
 実際に逃げ場などなく、唯一あるとするならば、死か。
 それほどに、ユリウスが恋しいか?
 傷つければ傷つけた分だけ、自分に痛みが返ってくるとわかっていても、胸の内で火を点けた嫉妬は導火線を伝って、彼の唇を動かす。
「……エスターテ城の崩落に……巻き込まれた」
「崩落……」
 フィオレンティーナの声が呆然と繰り返す。
 ――崩壊した城で、ユリウスは死んだ。俺の剣に刺し貫かれて。瓦礫(がれき)の下敷きになって、死んだんだ、と。
 駄目押しに告げようとした言葉は、翡翠の瞳から流れる雫を前に、飲み込んだ。
 見開かれた瞳からこぼれる滂沱(ぼうだ)の涙。魂が抜けたような虚ろな瞳はディートハルトを映さず、嗚咽が壊れたオルゴールのようにおかしなリズムを刻む。
 じわりと脳内を侵食してくる痛みに突き動かされるより先に、泣くなと心が叫ぶ。
 ――泣かないでくれ。
 そう訴えるのは、過去の自分か。今の自分か。
 わからぬままに、ディートハルトはフィオレンティーナの涙を拭おうと手を伸ばした。
 彼の手が頬に触れたのに気づいて、瞳の焦点が結ばれる。
 こちらの姿を映す翡翠に、ディートハルトは彼女の魂を呼び戻すように囁いた。
「……フィオレンティーナ」
 声が届いた瞬間、胸の中に崩れてくる彼女をディートハルトは強く抱きしめた。
 例え、この瞬間に求められたのがユリウスへの面影だったとしても構わないと、彼は思った。
 その涙を止めてくれたのならば……。
 生きていてくれるのならば。


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