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 27,歪んだ真実


 ――泣いてばかりだな……。

 ディートハルトは呟いた。その呟きは、嘆息と苦々しさが入り混じった声になった。
 彼女の顔色を気にしている自分が我ながら、自分らしくないと思う。しかし、どうしても気になってしまう。
「えっ……?」
 翡翠色の瞳が瞬き、不思議そうにディートハルトを捕える。
 瞳に導かれるように、ディートハルトは椅子から腰を浮かして、フィオレンティーナの前に立つ。
 着替えのために部屋に置いてきたフィオレンティーナの頬に一筋の軌跡。素顔でも十分に美しいのだが、やはり女か。彼女は薄化粧で装っていた。侍女のジュリアが気を利かせて施したのかもしれないが、それ故に涙のあとは目立った。
 彼女が部屋に現われた瞬間、見つけたくないのに見つけてしまった。
 ディートハルトはフィオレンティーナの頬に指先を伸ばした。武骨な親指の腹で、フィオレンティーナの目尻を強くこする。
 押し当てられた熱に、困惑気味の瞳がディートハルトを見つめると、
「跡が残っている」
 彼は目を微かに伏せて、言い訳するようにこぼした。
 蒼い瞳に宿る苦渋を彼女はどこまで感じ取ったのか、ディートハルトの視線から、フィオレンティーナは目を逸らす。
 俺がお前を泣かせているのだな――。
 言葉に出来なかった問の答えを返されたようで、唇を噛む。
 傷つけることも厭わないと、そう思っていられた日々が嘘のように、胸に後悔がわく。記憶を失くして虚ろになった自分の中に少しずつ、幼い――フィオレンティーナを一途に思っていた頃の自分がユリウスへの憎悪すら押し退けて、占領していくようだった。
「――今日は……」
 政務に出なくて良いのか、と視線を床に落とした姿勢でフィオレンティーナが小声で問いかけてくる。
 いつもは食事の後、政務に就くので堅苦しい恰好をしているが、この日のディートハルトの装いは普段着の楽な格好だった。それを疑問に感じたのだろう。
 今日はいい、と愛想のない声で返した。
 普通の何気ない会話だろうに、どのように返してよいのかわからない自分がいた。
 ただ、心の内側では、フィオレンティーナの方から話を振ってきたことに喜ぶ無邪気な自分もいて、危うく失笑しかけた。
「――ヴァローナの使者がきている……」
 淡々と口の端に上らせた事実に、フィオレンティーナの瞳が揺れる。こちらを見上げてくる彼女の腕をディートハルトは無意識に捕まえていた。
「……俺はお前以外の女なんか、要らない」
「私は……」
 私はあなたを愛さない――そう告げようとしたのか。
 それとも――許さない、と……?
 こちらの怒りを買うことを恐れたのか、彼女は開きかけた唇を震わせ、結んだ。それから、意図的に声を押し殺して新たに言葉を紡ぐ。
「王族の結婚に、個人的感情は通用しません……。国を背負うのなら……」
 ヴァローナからの縁談を無下に断ることはできないと、フェリクスと似たようなことを言い出した彼女の肩をディートハルトは掴んだ。
 思わず指に力がこもれば、手のひらの内側で華奢な肩が震える。
「――ならば、お前とて同じだろう。お前がカナーリオの皇女である以上、お前は俺の妻としてその務めを果たせ」
「何故? 私の国はもうどこにもないわ」
 ……あなたが私から奪った――。
 声にならない声で、フィオレンティーナは訴えると、支えを失ったように床に崩れる。ドレスの裾が花弁のように広がった。
「……私には皇女として務めを果たすべき、国なんてないわ。国が滅びたときに、私もお父様やお兄様と一緒に、殉じなければならなかったのに」
 瞳に涙を浮かべながら、こちらを見上げてくる彼女は握った拳を、腰をかがめたディートハルトの胸に叩きつけてきた。
 胸板に鈍くぶつかる衝撃は、所詮は女の力で、痛くも痒くもない。だが、叩きつけられた拳とは別に、こぼれる涙がディートハルトの脳を(さいな)み始める。
「どうして、私だけを生かしたのっ? ユリウス様が憎いからと言って、私を奪っても復讐になんてならないのに」
 疼きだす頭痛に唇を噛んで堪えながら、ディートハルトは感情を爆発させるフィオレンティーナを見つめた。
 翡翠の瞳を濡らす涙は、ディートハルトへの憎しみと、一人取り残された絶望と、ままならない現実に対する悲しみと、先が見えない不安か。
 幾つもの感情が混沌と入り混じり、本人が意識するより先に、声が喉から溢れだしているようだった。
 抑圧していた感情が溢れる様は、ディートハルトを戸惑わせたが、虚ろな目をしていた彼女よりずっと生きていると実感できる。
 無理に口を塞がせるのを止め、フィオレンティーナが語るのに任せた。
「私はユリウス様を愛した。愛したわっ! でも、ユリウス様が私を愛してくださったかなんて、ユリウス様以外に誰も知らないのよっ!」
「……そんなこと」
 ディートハルトは眉をひそめた。
 エスターテ城の暗闇の中で、ユリウスはフィオレンティーナだけは譲れないと言っていた。
 退路などなかったユリウスは本来、命乞いをすべきだった場面で、ディートハルトの怒りを買うことを承知でその言葉を吐いた。
『彼女だけは譲れない。他のすべてを奪ってもいい、ティナはあなたに渡さない』
 記憶に残っているユリウスの声。そこに宿っていた真摯な想いは、どうやらフィオレンティーナには語られていなかったらしい。
 それとも、彼女が勝手に誤解しているだけなのか。
「国同士の結びつきのために、私たちは婚約させられた。そこに私たちの意見や感情なんて誰も聞いてはくれなかった。王族の結婚がそういうものだということは、小さい頃から教えられていたから、何とも思わなかったわ。それが皇族であった私の務めだったから!」
「――だが、お前は奴を愛したのだろう?」
 吐き出した言葉に、ディートハルトは胸が痛むのを実感した。
 彼女の心がユリウスにあることを己の口が語ること、それがこんなに痛い事だとは思ってもいなかった。心臓を大きな手で掴まれ、絞られているかのようだ。慢性的な頭痛の波より、今は辛い。
「ユリウス様に出会った私は、ユリウス様を愛そうと決めたわ。政略で(とつ)がされて、そこには何もなくても、心は育てていける。だから、夫となる人を愛そうと、決めていた。私だって、幸せになりたかったからっ!」
「……幸せだったのか?」
「幸せだった。幸せになれた。ユリウス様を想うだけで、心が弾んで、次に会える日が待ち遠しくてたまらなかった。優しいお声も、穏やかな眼差しも、全部が私を幸福にしてくれた――だけど、ユリウス様のお心は、私にあったのっ?」
 ディートハルトの問いかけにフィオレンティーナは一気にまくし立てた。
 むせび泣く間を置いたら、何かが切れてしまうかのように。
 今告げなければ、二度と告げられないとでも言うように。
 言葉は息つく間もなく、紡がれる。
「……なかったというのか?」
「わからないわ。愛されていたと思っていた。……だけど、この国の人々のカナーリオに対する憎悪は、何? 確かに、帝国はこの国を支配しようとしたけれど、争って国を蹂躙(じゅうりん)したわけじゃない。救おうとしたのよ? お父様はこの国を救おうとなさっていた」
「土地を開墾(かいこん)させたな……だが……」
 カナーリオ帝国の皇帝は、シュヴァーンの一部の人間を北の、夏でも肌寒い寒冷地に送り、凍土を開拓させた。雪に埋もれてしまうのなら、実りが採れる大地を少しでも広げて、収穫を増やそうとしたのだろう。
 しかし、その政策がカナーリオ帝国の指示の下で行われれば、徴集されたシュヴァーンの労働力は奴隷(どれい)と勘違いされて、いたしかたなかった。
 その地は、どうあっても芽吹かない土地と見捨てた地でもあったから、帝国の意図は誤解される要因であった。
 例え苦労して実がなったとしても、支配されている側としては、収穫はすべて奪われるのだと決め込んでいた。
 還元される物も、一度帝国に渡れば、本来は自分たちの物だったという意識から、施された気がして憎悪は募る。
 カナーリオ帝国のシュヴァーン王国支配の失策は、支配された者たちの卑屈な感情を計算に入れなかったことだろうと、ディートハルトは考える。
 肥沃な土地を持つカナーリオ帝国の豊かさと平穏は、シュヴァーン王国の民には羨望を通り越して、妬みの感情を芽生えさせていた。そこへ食料不足からの飢餓(きが)、貧困が蔓延(まんえん)した。同盟国のヴァーロナヘの救援要請が途中で握り潰された過程で、カナーリオが何かしら介入したと憶測されていた。そうして、兵を上げたが、ねじ伏せられ支配されるに至って、隣国に対する憎悪はさらに色濃くなった。
 そんな負の感情を全く理解しなかったカナーリオの姿は、シュヴァーン側からは富裕支配者特有の傲慢(ごうまん)に見えて仕方がなかった。
 平和主義を謳ったフィオレンティーナの父アーネリオ皇帝の善意は妬みに歪めんだ者たちの目には、偽善者にしか映らなかったのだろう。
 故に、カナーリオに屈した先代国王を支持する者はなく、ディートハルトの謀反はやすやすと実を結び――カナーリオに与したと目されたユリウスは見捨てられた。
「妬みが、憎悪を生んだ。豊かな国に暮らしていたお前には、家族を養うために戦場に出なければならない者たちがいることなど、想像もつかないだろう?」
 ディートハルトは、フィオレンティーナにシュヴァーンに根付いた帝国憎悪の経緯を語った。
「施しがすべて、善意に受け取られるとは限らない。ときに誇りを踏みにじる」
 彼女としては、そこまで思考が及ばなかったのか、翡翠の瞳を大きく見開く。
 ディートハルト自身は記憶を失ったからか自国民に対して、第三者的な中立の立場に身を置いていた。
 シュヴァーン王国もカナーリオ帝国もヴァローナ王国も、滅びようが栄えようが、知ったことではない。
 ディートハルトの中には、ユリウスへの憎悪とフィオレンティーナへの執着だけが残っているだけなのだ。
 しかし、ユリウスへの妬みから憎悪を生んでいるだけに、シュヴァーンの民の感情が理解できる。
 本来、自分が手に入れるはずだったものを――ユリウスが不義の子なら、王位を継ぐことなどできるはずがなかった。フィオレンティーナの婚約者に選ばれることもなかった――横から奪われたのなら、掠奪(りゃくだつ)者を恨まずにはいられない。
 己が誇りを傷つけられたら牙を剥く。極寒に支配されるシュヴァーンの民は精神を獣のように、強く育てた。
 強くなければ、息さえ白く凍りつく寒さにくじけてしまうのだ。
 そうしたところへ、カナーリオの皇帝が謳った平和主義は、シュヴァーンの民の生活を靴底で野蛮(やばん)だと踏みにじり侮辱するようなものだった。
 そんな屈辱に長く侵されたシュヴァーンの国民たち。
 フィオレンティーナがシュヴァーンの民に憎まれるのは、帝国がこの国の民に与えた屈辱を理解しようとしない無知にあったのだろう。
 きっと彼らは、ディートハルトがフィオレンティーナを蹂躙し、彼女を(けが)し、(おとし)めることを望んでいるのだろう。それによって、過去の留飲を下げようとしているのだろう。
 彼の胸にあるたった一つの真実も知らずに……。
 そして、憎悪を知ったフィオレンティーナがユリウスの中に存在した真実を見失ってしまったように。
「……ユリウス様も同じように、帝国を憎んでいたの?」
 震える声の問いかけに、ディートハルトは何も返さなかった。
 彼女を手に入れるために、ユリウスの心を黙殺すれば、溢れる涙で――真実は歪んでいく。


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