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 28,決意


 ――私を外に出して……。

 フィオレンティーナはディートハルトに訴えた。
 その願いが聞き届けられるなどと、期待はしていなかった。だが今はこの閉ざされた(おり)の外に出たかった。
 絶望の中で垣間見た白銀世界。
 美しい雪の下に隠された真実を、フィオレンティーナは自分の目で――今度は曇りのない目で確かめたいと思った。
 そのために部屋の外に出れば、シュヴァーン国民の(さげす)みに満ちた視線に晒されるだろう。
 彼らが差し向けてくる憎悪が、帝国がもたらした政策の結果ならば、カナーリオ帝国の皇女として受け止めなければならない気がした。
 争いがないということは、国民にとって何よりも幸せなことだと思う。その信念は、父に教えられ、兄から(さと)され、フィオレンティーナ自身、絶対と信じてきた。
 それはどこに行っても変わらない……はずだった。
 いや、きっと変わらない。
 シュヴァーンの国民も戦争がしたいわけではないだろう。一度敗戦の()き目にあい、他国の支配を受けたからには、二度と同じような状況下に、戻りたいとは思わないだろう。
 支配された屈辱が、そのままカナーリオ帝国への憎悪に繋がっている――ディートハルトから聞かされたそれは語っていた。
 帝国の支配はさして、強引なものではなかった。
 先代国王の自治をそのまま認めていた。父であるアーネリオ皇帝は、フィオレンティーナとユリウスの婚約を経て、シュヴァーン王国の政治に傍から口を差し出す算段はつけていたものの、直接支配するつもりはなかったのだろうと思う。
 あくまで、ユリウスに継がせ――ユリウスは結局、帝国の傀儡(かいらい)的な立場に置かれるのだろうが――シュヴァーン国民に二度と、カナーリオ帝国に歯向かわないよう、指示するだけだ。
 敵対しなければ、争いは生まれない。
 平和主義であった父は、シュヴァーンの牙を抜こうとしただけ。
 だが、牙を抜かれ懐柔されることで、誇りを踏みにじられたと、シュヴァーンの者たちが考えたのなら、彼らの誇りというものをフィオレンティーナは知らなければならない。
 ――家族のために、戦場に出る。命を賭けて、戦い勝ち得たもので、家族を養う。
 穢れなど感じさせない、どこまでも清廉な純白の雪によって、それほどまでに過酷な生活を強いられているのか、穏やかな土地で育ったフィオレンティーナには想像がつかない。
 ただ、ユリウスやディートハルトで感じたように、シュヴァーンの国民が争いを好む人種だとは、思えない。
 ならば、フィオレンティーナが知らない真実があるのだろう、と思い至って、
「私を外に出して」
 と、ディートハルトに懇願(こんがん)していた。
「……いいのか?」
 言葉少なに問い返してくる。
 何を? と、問うまでもない。誰の目にも晒さないでと、数日前に彼女自身がディートハルトに泣いて縋ったばかりだ。
 侮蔑と好奇の目に晒されることを想像すれば、フィオレンティーナは震えそうになる唇を結んで頷いた。
 いつまでも泣いていたくはない。
 自分の不幸に酔っていられる立場でもないことを、フィオレンティーナは己がカナーリオ帝国の皇女であることを思い出し、胸元で拳を握った。
 家族や大事な人を失った者たちは、何も自分一人ではない。
 帝国のために戦った数十万という兵士たちが皆、五体満足で家に帰れたわけではあるまい。そんな彼らを、涙を呑んで送り出した者たちの悲嘆は、フィオレンティーナがユリウスを失った悲劇と大差があるだろうか?
 そうして、シュヴァーンとヴァローナに支配されている今、帝国民の生活は平和だった頃と比べ物にならないほど、過酷で耐えがたいものだろう。
 閉じ込められた世界に、己一人が不幸な気がしていたけれど……。
 籠の外にも世界が広がっていることを、自分が知らなかった世界に生きている者たちがいることを忘れていた。
 いつまでも涙で曇った目では、気付けない。
 泣くのは、真実を見極めて、どうしても我慢できなくなったときだけ泣こう。
 覚悟を決めて強く握った拳に、ディートハルトの指が触れる。
「――どこに行きたい」
 重なる体温が、そっとフィオレンティーナの指を()く。氷が溶けるように、固めた拳が(ほど)ける。手のひらに赤く刻まれた爪の痕を労わるように、乾いた指の腹が撫でた。
「行きたいところを言ってみろ」
 彼女の手のひらを見つめていた蒼い瞳が、フィオレンティーナの顔を覗く。真っ直ぐな視線を受け止めて、彼女は声を絞り出した。
「……外へ。雪の街を見せて。この国を……ちゃんと、見たいの」
 腕を掴まれ、フィオレンティーナは引きずられるように、衣装室に連れて行かれた。
 毛皮を裏打ちした重たい外套(がいとう)を押し付けられる。
「風邪をひかれては困る。それを着ろ」
 しかし、ディートハルト用に仕立てられた男物の外套はフィオレンティーナの身体には余った。床に外套の裾が引きずられていた。袖丈も長すぎて、腕を持ち上げれば袖口がだらりと垂れさがった。
「小さいな」
 ふっと唇の端を緩めて、ディートハルトが笑った。
 その笑顔にフィオレンティーナは目を瞬かせた。
 今までディートハルトがこちらに見せたのは皮肉な笑みばかり。だが、今の柔らかな笑顔は、ユリウスの穏やかな笑みとは違うけれど、そんな表情もできるのかと、彼女を驚かせるには十分だった。
 唖然(あぜん)と口開くフィオレンティーナに、自らも外套を身につけながら、ディートハルトは小首を傾げる。
「どうした?」
「……いえ、何でもありません」
 ゆるゆるとフィオレンティーナは首を振った。
 あなたの笑顔に驚いたのだとは、言いたくない。言えない。口が裂けても。
 仇であるディートハルトに気を許したわけではないが、明らかにディートハルトはこちらへの警戒心を解いている。
 その事実にフィオレンティーナは戸惑う。彼が一歩こちらへ踏み込むことを、自分は無意識のうちに許しているのだろうか?
 彼の寝首を掻くような覇気(はき)など、フィオレンティーナは最初から持ち合わせていない。初対面で力の差を見せつけられたせいもあるだろうが、殺せやしないのだ。
 ユリウスの面差しを宿す彼を。どんなに憎らしいと思っても、彼の体温に縋ってしまう。
 その弱さをディートハルトは見透かしているのか。だから、無防備に近づいてくるのか。
「何でもないという顔をしていない」
 顎を掴まれて、視線を戻された。眉間に寄った皺。しかし、怒っているというような感じではない。執着だ。自分の知らないところで、何かを思われるのが嫌なのだろう。
 子供みたいな人……と、フィオレンティーナは思う。
 そういうところは、ユリウスには全然似ていない。ユリウスとディートハルトの相違点に安堵するより先に、ディートハルトの子供染みた所作は、彼が記憶を失ったことに関係するのだろうかと疑問視する。
 とはいえ、思ったことを口にできず、
「あなたに比べれば、小さくて当然です。そう言おうとしただけです」
 誤魔化したフィオレンティーナの言葉に、ディートハルトは疑うように目を眇めた。
「その堅苦しい物言いは、癖か?」
「えっ?」
「あなたと――俺のことを呼ぶ。それとも何か、俺の名を口にしたくはないか」
 苦々しく歪めた口元で、ディートハルトが問う。
 蒼い瞳が漆黒の睫毛の影を映して、暗く陰る。
 今までの彼であったのなら、冷ややかな目でフィオレンティーナを見据えて、こちらに拒否権などないことを知らしめる傲慢(ごうまん)さを見せつけたことだろう。
 なのに、蒼い瞳は静かに、フィオレンティーナの姿を映す。
「陛下とお呼びすればよいのですか」
 呑み込まれそうな蒼に、引きずられないように彼女は無表情で返した。
「厭味か。皮肉屋はフェリクス一人で充分だ」
「……私は……」
「ディートハルトと呼べ。お前にはそれを許す」
「だけど……」
 シュヴァーン王国内でカナーリオ帝国への憎悪が根深いのなら、フィオレンティーナがディートハルトの名を呼び捨てるなど、許されない所業だろう。
 シュヴァーンの人間は自分を蔑む、敵国の人間であるが、戦とは関係のないところで、それらの人々の感情を逆撫でしたくはない。
 逡巡するフィオレンティーナの前で、ディートハルトは繰り返す。
「ディートハルトだ。それ以外は、受け付けない」
 強い声の調子で彼は言うと、手にした襟巻をフィオレンティーナの首に優しく巻きつけてきた。
「…………ディートハルト……」
 口にした名が胸の内でこだまする。フィオレンティーナは首を優しく締め付ける温もりに、息苦しさを覚えた。


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