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 30,心の虚


 ――枷がなければ……お前は死を望むだろう。

 ディートハルトの言葉に、フィオレンティーナは愕然とした。
 帝都の陥落からこちら、彼女を生かし続けていたのは他でもない、他人だった。
 軟禁されている間は、兄であるリカルドの説得に。そして、こちらに来てからはジュリアの存在に……。
 ディートハルトが言う「枷」を失くせば、確かに自分は死を願うだろう。
 その死は、ユリウスへの恋に殉じるためだと思っていたけれど、単純に自分は逃げたかったからではないのかと、フィオレンティーナは時間の経過に思う。
 ユリウスがいない現実や皇女でありながら国を再興させようとする覇気(はき)も持たない自分、己の意志とは関係なく流れていく、ままならない現実に……。
 それらすべてから、逃避しようとしているだけではないのか?
 フィオレンティーナは無視できない自分の弱さを知ってしまった。
 何かを支えにしなければ、生きることができない自分。そして、死にすら他人を――ユリウスを言い訳にする。
 私は……空っぽだわ。
 ユリウスに愛されていると思っていたときは、心が満たされて幸せだった。だけど、彼の心の在り処に一度、疑いを持ってしまうと、煌めいていた思い出もどこか(むな)しさを感じさせる。握り締めた手のひらから砂粒がこぼれていくように、気がつけば何も残されていない。
 そうして、泣き崩れ自分ばかりが不幸だと酔う、己の脆弱さ。それをディートハルトに見透かされているのが、またフィオレンティーナを動揺させた。
 どうして、この人は……。
 肩越しに絡まるディートハルトの腕が、フィオレンティーナの身体を抱く。背中に感じる彼の熱に身を預け、氷を薄く張ったような曇空を仰いだ。
 冷たい灰色の空はどこまでも尽きることなく広がっている。
 翼があれば、空を自由に飛べるのに、彼女の翼はもがれてしまった。足には枷を()められ、鎖によって繋がれた。
 閉じ込められた鳥籠から脱してみても、自分には自由がない。
 それを辛いと思うより、どこかホッとしているのは、背中の温もりが優しかったユリウスを思い出させるからなのか。
 私は愛されていなかったという真実より、身代わりを選ぼうとしているの? ユリウス様を失ってから約二年、私の心はそれほどに乾いていたの……?
 フィオレンティーナは自らの心に問いかけた。
 ディートハルトにとって、フィオレンティーナはユリウスへの復讐への道具だ。愛情の欠片を垣間見ることができなくても、初めから承知のこと。痛くはない。ただ、ときおり優しかったユリウスの温もりをフィオレンティーナに与えてくれる。
 それを糧にすれば、生きていける。生きていれば……ジュリアを守れる。
 ディートハルトの言葉を借りるなら、まだフィオレンティーナには守るべき帝国の民がいる。
 空っぽの自分にも成せることがあるかも知れない、と――生きることを考えるのは、やはりユリウスに愛されていなかったことから目を背けたいのか。
 思考の波に揺られながら、フィオレンティーナは自分自身ですら把握できない己を探す。
 騙されていても構わないと思っていたのに……。
 ユリウスの心がどこにあったのか、知りたいと彼女は思った。
 シュヴァーン王国の民が抱くカナーリオ帝国への憎悪。その実態を知れば、ユリウスの本心に近づける気がして、外へ出ることを望んだけれど。
 目の前に広がる白銀の都市は、冷たい現実を物語っていた。
 雪に沈んだ世界はただ真白で、冷ややかで、緑豊かだったカナーリオと明らかに違う世界を描いていた。
 ディートハルトの語ることが目の前の現実を映して重たくのしかかれば、芯を失ったフィオレンティーナの心は簡単にひしゃげてしまいそうだった。
 カナーリオ帝国では今頃は春の兆しを見せている頃だろうに、この国はいまだ雪に深く閉ざされている。
 フィオレンティーナは自分に絡まるディートハルトの腕を解いた。
「……降ろして」
 また、駄目だと拒まれるかと思ったが、ディートハルトは無言で馬から降りると、フィオレンティーナの腰を抱いて、雪の上に下ろした。
 馬は手綱を放されても、そこに静かに佇んでいた。小首を傾げるようにして、こちらの様子をうかがっている。動物の従順なその姿勢に、フィオレンティーナはディートハルトが見せる傲慢(ごうまん)さの裏で見えずにいた何かを見つけたような気がした。
 華奢(きゃしゃ)な靴の下で――外出の支度が急だったため、ディートハルトも足元にまで気が回らなかったらしい――柔らかな雪が音を立てる。じわりと冷たさが足元から這い上って来た。
 そのまま地面に凍りつきそうな足を持ち上げ、フィオレンティーナは崖の淵へと向かう。そんな彼女の手首をディートハルトの手のひらが強く握っていた。
 それこそ、鎖のように。命綱のように。
 あと一歩、先に踏み出せば転落するという位置で、彼女は立ち止った。
 吐き出す息は白く、崖下から巻き上げてくる冷たい風に乗って、空へ昇って行く。だけど、ユリウスが旅立った天へは届かない。
「……ユリウス様は、シュヴァーンの白銀世界はとても綺麗だとおっしゃっていたわ」
 繋がれた手首が強い力で締め付けられる。
 ユリウスを否定する憎悪か、それとも国へ向けられた賛美を肯定するものか、わからない。そっと肩越しに振り返れば、蒼い瞳が静かにこちらの姿を映していた。
 風になびく漆黒の艶やかな髪。瞳に(かげ)をおとす睫毛が微かに震え、フィオレンティーナの姿を揺らがせる。
「私も綺麗だと思った。でも……」
「でも?」
 先を促すように傾けられたディートハルトの白い頬に、頼りない青白き陽光が弾かれた。
「……寂しいわ。辛いわ……」
 銀の影を落とす真白な世界には何も存在しないように見える。
 恵みも喜びも幸せも。
 糧を得るために家を空ける主、その空白を想像すれば、寂しいと思う。
 父や兄を失った空白を思い出せば、辛いと感じる。
 シュヴァーンの国民は、それらの感情を抱え、暮らしてきたのか。家主が無事に帰ってくることを祈りながら過ごす日々は、さぞかし苦しかっただろう。
 その傍らでは、何事にも悩まされることのない平和な国。羨望(せんぼう)すれど、別の国のことだと割り切っていたところへ、カナーリオ帝国は自国の主義をシュヴァーン王国に押し付けた。
 今まで耐え忍んできたことを間違いだと否定されたら、反発心が生まれるのは当然かもしれない。
 もしかしたら、フィオレンティーナに辛く当たってきた侍女たちの中には、帰ってこなかった家族がいたのかも知れない。帝国との戦争で、大切な人を失ったのかも知れない。
 そして、生じた憎しみをぶつける相手が帝国の生き残りであったフィオレンティーナだったのか……。
 様々な憶測に、フィオレンティーナは思い馳せる。
 同じような憎悪がユリウスの中に宿っていなかったとは、フィオレンティーナには断言できなかった。
「……あなたも、カナーリオが憎かったの?」
「憎い? 何故? 俺はこの国もカナーリオもどうだっていい」
 淡々と返ってきた答えに、フィオレンティーナは息を呑む。
「あなたはシュヴァーンの王ではないの?」
 玉座を自分のものへとするため、ユリウスから奪ったであろうに、ユリウスへの憎悪や執着に比べると、拍子抜けするくらいに感情が薄い。
 その差は、やはり記憶を失ったことに関係するのだろうか。こちらに対する彼の態度がときに一貫しないのも、同じ理由か。
 冷たくされ、そうして優しくされることで、翻弄されてしまう。どう対応していいのかわからずに、結局手首に繋がれた彼の手をフィオレンティーナはふり解けない。
 ディートハルトに生かされている自分を歯痒く思う気も、いつしか失せていた。
 壊れたままの心が、治りきっていないんだわ――と、フィオレンティーナは自分自身に言い訳するように胸中で呟く。
「……記憶を失くしてから、何もかもが他人事のように思える」
 グイッと腕を引っ張られ、気がつけばディートハルトの胸の中におさまっていた。腕に抱かれた姿勢で、顔を上げれば蒼い瞳がただフィオレンティーナを映す。
「お前のこと以外は、どうでもよく感じるんだ」
 まるで愛の言葉を囁くような熱が、フィオレンティーナの寒さに凍った耳朶に触れた。
「私ではなく……ユリウス様でしょう?」
「……ああ、そうだな。その名前を聞くと、吐き気がする」
 眉間に皺が寄り、ユリウスと同じ顔が苦しそうに歪んだ。
「どうして、そんなにユリウス様を憎むの」
 少し前まで、ディートハルトの前でユリウスの名を口にするのは、ユリウスが(けが)されるような気がしていた。
 先日までの傲慢さを見せつけられれば、反意によって、頑なにユリウスをこの男から守ろうとしていただろう。
 だけど今は、抵抗を感じない。
 ユリウスに対する憎悪が子供染みた執着であると知ったからなのか。もう死んでしまったユリウスに、いまだに喧嘩を売ろうとしているディートハルトが何だか、悲しかった。
 その姿は、存在したのかどうかわからないユリウスの愛情を――彼の真実を――見つけ出そうと躍起(やっき)になっているフィオレンティーナ自身と重なるのだ。
「お前は俺を苦しめたいのか? 相変わらず、俺の名は口にしない癖に、ユリウスの名は繰り返す」
 形のいい唇が自嘲(じちょう)染みた笑い声を響かせた。自分が憎まれる立場であることを、ディートハルトは重々承知しているらしい。
「……私は」
 ユリウス様の名を武器にするつもりはない――と抗弁するより先に、こちらの肩にディートハルトが顔を埋めてきた。漆黒の髪が彼女の頬をさらりと撫でる。
「ユリウスをどうして憎むのかと聞いたな? あいつは俺が欲しかった、ただ一つのものを攫って行った。俺はきっと、それさえ手に入れば、他の何も要らなかったんだ……なのに」
「それは玉座ではないの?」
 問いかけてみたものの、ディートハルトが答えを返してくることはなかった。記憶を失ったというディートハルト自身、答えを知らないのかもしれないと、フィオレンティーナは思った。
 ただ、わかったことは、自分もディートハルトも心に虚を抱えているということだけ……。
 そうして、(うろ)の隙間を埋めるように、彼女の背中に回ったディートハルトの腕に力がこもる。
 フィオレンティーナもまた、ユリウスと同じ体温を求め、広い背中に腕を回していた。


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