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 29,誓いの言葉


 ――何を……。

 戸惑いの声はやがて悲鳴に変わった。
 腰を抱え上げられ、まるで荷物のように担がれたフィオレンティーナがディートハルトの背に手をついて、精一杯背筋を引きつらせながら、こちらを振り返る姿が飾り棚のガラスに映った。
「何の真似っ?」
 担がれた姿勢で、フィオレンティーナがこちらの真意を問う。
 彼女の望みどおりに、これから街へと出かけて行く、その支度を整えた――単に防寒具を身につけただけだが――矢先に、フィオレンティーナをディートハルトは肩に担いだ。
 言葉通り、担いだ。
 いつものように、両腕に抱くという優しい抱き方ではない。
 彼女の膝の裏を抱えている姿は、とても優雅とは言えない。
「降ろしてくださいっ!」
 噛みつくように声を荒げて、フィオレンティーナの手がディートハルトの背中を叩いた。鍛え上げた身体に、女の拳など大した衝撃にもならない。まして、分厚い外套越しでは撫でられているようなもの。
 ただ、フィオレンティーナの慌てぶりが可笑(おか)しくて、ディートハルトは口元に笑みを刻んでいた。
 虚勢(きょせい)を張っている風でも(もろ)く崩れそうなか弱さもなく、年相応の素顔が声には現れていた。
 ディートハルトの笑みがガラスに映り、フィオレンティーナの視界にも入ったのだろう。こちらからは直接見えない彼女の表情が、恥じらいに歪む。
「――そのままでいろ」
「何を……」
「うるさい奴らがいる。いちいち相手などしていられないから、このまま真っ直ぐ厩舎(きゅうしゃ)へ向かう。お前の足では時間が掛かり過ぎるからな」
 足がと言うより、彼女の格好が歩みを遅くさせるのだが、フィオレンティーナ用の外套やドレスは後宮に用意した彼女の部屋にある。そこへの寄り道は、時間の浪費だ。この外出がうるさい奴の耳に入れば、邪魔されるだろう。
 一応、ディートハルトはこの国の王である――例え、血に塗れた玉座に座っていようとも。
 その身の安全を周りは重々留意し、気を配らなければならない。それ故に、彼の行動に制限が付きまとうのは、同じ皇族として護衛されていたフィオレンティーナにもわかったのだろう。
「……あっ」
 そうしてディートハルトには、外に出たいと言って、一人での行動を許して貰える信用を持ち合わせていなかった。
 剣を握れば、誰にも負けない自信はあるものの、二年前にディートハルトは記憶を失っている。信用してくれと言ったところで、聞き入れてもらえないことは既に経験済みだ。
 フィオレンティーナを迎えに行くのにも、宰相は頷かなかった。数名の供をつけることで渋々承諾した次第だった。
 きっと、今回の外出も簡単に頷きはしないだろう。そんな彼らに反発して遠ざけるような真似をしているから、尚更だ。
 ならば、一人で飛び出すまでだ。
「よいのですか?」
 声を慎重に低めたフィオレンティーナに、ディートハルトは唇の端に皮肉を刻む。
「構わない。奴らは、俺に干渉しすぎだ」
 部屋から廊下に出れば、ディートハルトの護衛任務について、部屋の前で警備のために立っていた衛兵がギョッと目を剥き、驚いた表情を見せた。
 最近、政務以外の時間は部屋に(こも)ってばかりであったから、よもや彼が部屋から出てくるなどと思っていなかったのだろう。それと同時に、肩に担ぎあげたフィオレンティーナの存在も驚かせたか。傍から見れば、人さらいのように見えなくもない。
 ぱくぱくと口を開閉し驚いている衛兵を視界の端に捕え、ディートハルトは冷たい視線を送った。まだ年若い衛兵を凍らせながら、ディートハルトは人が少ない道筋を選んで厩舎へと向かう。
 すれ違う者たちを一睨みすれば、誰もが凍りつく。
 王として迎えられたとはいえ、ディートハルトは先王を殺して玉座を簒奪(さんだつ)した罪人だ。歯向かう者に容赦しない冷酷さを、誰もが承知している。
 彼の行いを諌めようとするのは、フェリクスとアルベルトぐらいか。
 厩舎の馬丁もディートハルトの威圧的な眼光を前に、慌てて馬に(くら)を乗せ、手綱を大人しく渡してきた。
 担いでいたフィオレンティーナ一度下してから、彼女を鞍の上に押し上げて自分もまた馬に跨る。彼女の細い腰回りに片腕を回して、しっかりと抱きとめながら、片手で手綱を操る。
 おろおろとしている馬丁を置き去りにして、ディートハルトは王城敷地内の裏山への雪掻きされた道を走らせた。
 シュヴァーン王国の王の城、アヴィーネ宮殿は険峻な岩山を背後に、自然の要塞的な一面を兼ね備えていた。表から見れば華麗な城は、裏に絶壁の楯を(よう)していた。
 上り坂の途中まで針葉樹林の壁が両側を囲っている。
 雪の白と、針葉樹の葉の緑と、樹皮の濃い茶の単調な色彩の中、風を切って駆け上がる。そうして、唐突に開けた視界にギュッと手綱を絞れば、ディートハルトの腕の中でフィオレンティーナが悲鳴を上げた。
 白い雪の山道が突然切れた先、断崖絶壁の崖になっていた。
 雪に沈んだ街並みが見渡す限り広がっている眼下の景色に、距離を見誤れば、馬は崖から転落している。
 その事実に、背筋を冷やしたのか、ディートハルトの腕の中で彼女は小さく肩を震わせた。華奢(きゃしゃ)な肩を安心させるように、手のひらで包みこめば、翡翠の瞳が振り返る。
「ここから、街を一望できる。もっとも、こちらは城下町とは真逆の方向にあるから、お前がこちらに来る途中に見た貴族街のような景観は期待できないが」
 フィオレンティーナが見たいという街は、体裁を整えた貴族街ではないだろうと、ディートハルトは迷わずにこちらに進路を取った。
「……降ろして」
 彼女は瞳を崖の下に向けながら、己が肩に置かれたディートハルトの手を解こうとした。
「駄目だ」
 ディートハルトは肩を掴んで、フィオレンティーナを胸元に引き寄せる。
「――逝くつもりだろう」
「どこへ?」
 言葉の意味を取り間違えたのか、不思議そうな顔をしてフィオレンティーナが視線を返してきた。
 こちらの瞳を覗きこんだ瞬間、ディートハルトの意を呑みこんだらしい。微かに目を伏せながら、首を横に振った。金の髪が風に舞い上げられ、白銀の中に眩い光を散らす。
「……いいえ。国を失くしたけれど、私には守らなければならない人がいるから、逝きません」
 最初は声が頼りなく揺れていたが、最後は凛と響かせた。
 背筋を伸ばし言い切る姿勢は、帝国からこちらへ来る途中に垣間見せた折れそうな中にも芯を覗かせていた彼女を思い出させた。
 あのとき、フィオレンティーナはディートハルトに宣言して見せた。
 ――私はあなたを生涯憎み、ユリウス様を一生愛します――と。
 その言葉を皮肉に笑って受け流せた自分は、もうどこにもディートハルトの中には存在しない。
「守りたい奴とは、誰だ?」
 勢い込んで問い質し、己の余裕のなさにディートハルトは歯噛みした。
 これでは嫉妬丸出しではないか……。
 ばつの悪さから、フィオレンティーナの瞳から顔をそらしながら、ディートハルトは告げた。
「国を失くしたと言うが、お前の国の半分は俺の手の中にある」
 言いながら、これは脅しだな、と自覚した。彼女の中に皇女としての意識があるのなら、こちらの手の中に掌握されている帝国民を黙って見過ごせないだろう。
「……その人たちをどうするつもりですか」
 案の定、こちらの腹を探るように慎重な声音でフィオレンティーナが問い返してくる。
 完全に、脅しと受け取られた。
 舌打ちしたい衝動を殺しながら、ディートハルトは返す。
「お前次第だ。言っただろう、皇女としての務めを果たせと」
「あなたの妻になることで、叶うのですか」
 フィオレンティーナの感情を押し殺した声が胸に突き刺さる。苦しさに耐えかねて、ディートハルトは翡翠の瞳に視線を返した。
「この身体を差し出せば……そうすれば、帝国の民を守ってくださると言うのですか」
 怒りを宿す瞳を前に、
「――違う」
 強い声の調子で、ディートハルトは否定した。
 欲しいのは、身体よりも心だ。
 無理矢理身体を手に入れても、ディートハルトの内に宿るもう一人の自分が、ディートハルトを苦しめる。脳を締め付け、頭蓋を揺らして、息ができないほどの苦痛を与えるだろう。そんなものは要らない。
「何が、違うのです? あなたの言っていることは……よくわからない」
 だって、あなたはユリウス様に復讐したいだけでしょう? と、フィオレンティーナは(まなじり)を吊り上げ、果敢(かかん)にも挑んでくる。
 ここで、彼女への執着を語れば良いのだろうか。幼い頃のディートハルトが彼女に恋をし、それ故にユリウスを憎んだのだと。
 だがしかし、それを語れば帝国が滅びることになったのは、フィオレンティーナの存在があったからということになる。
 すべては、記憶を失う前の自分がやらかしたことだ。
 勝手に想われ、求められたフィオレンティーナに滅びの(とが)はない。
「……ただ、死ぬなと言いたいだけだ」
 脳裏に幾つもの言葉を並べ、最終的に選んだ言い訳を小さく息を吐くように、ディートハルトは囁いた。
「私をユリウス様の元へ逝かせないため?」
「枷がなければ……お前は死を望むだろう」
「……そうね」
 本当に、そうだわ、と彼女は悲しげに呟いた。力なく崩れそうになる背中をディートハルトは己の胸に抱き寄せて、心の中で誓った。

 それでも――俺が、お前を死なせない。


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