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 32,進展


 ――こんなところで、何しているんだよっ!

 渦を巻いた寒風がときおり笛のように鳴る。針葉樹の葉が揺れ歌い、凍った雪がさらさらと風に舞っている坂道を宮殿へと下っている途中で、怒声がフィオレンティーナの耳を割った。
 顔を上げると、アルベルトが馬を駆けさせながら近づいてくるのが見えた。
「ディートハルト、お前っ! ――こんなところで、何しているんだよっ!」
 興奮した声を間近に感じた瞬間、アルベルトは馬首を巡らせ、ディートハルトが操る馬と並んでいた。そうして、こちらへ身を乗り出しながら叫ぶ。
「勝手に外に出るなよなっ! 一応、俺はお前の護衛も務めているんだぞっ!」
 戦時中は前線で軍の最高指揮をとっていたらしい赤毛の将校アルベルトは、王宮に帰還してからこちら、国王軍所属親衛隊長という新たな肩書を名乗っていた――いわゆる、王族の護衛を任とした部隊のようだ。
 ディートハルトの部屋の前に立つ衛兵はアルベルトの管理下にある部下なのだろう。
 衛兵から報告を受けて、慌てて飛び出してきたのか、彼はこの寒空の下、軍服だけを身につけ手袋も外套も(まと)っていない。
 無反応な国王に苦虫を噛み潰したかのような顔を見せたアルベルトは、ディートハルトの腕の中にいるフィオレンティーナに目を向け、物言いたげな色を見せた後、視線を逸らした。
 非難しようとして、何を言うべきかわからなくなったのだろう。
 フィオレンティーナ自身は(かご)の鳥だ。自由に動き回ることはできない。例え、今回の外出が他ならぬ、彼女の言葉に始まっていたとしても、行動したのはディートハルトだ。
 そんな彼を責めようとしても、アルベルトには責めきれない。言動の粗さの割に、アルベルトがディートハルトに対して強気に出られないのは、主の蒼い瞳がどこまでも冷淡だからか。
 幼馴染みという関係から――ディートハルトの傍若無人を知って、勝てないと悟っているからか。
「それにヴァローナ大使との謁見を断っておいて、こんな騒動。お前な、俺たちの顔に泥を塗るなよ」
「泥を塗られて、多少見目が良くなればいいな。そうすれば、少しはいい女を引っ掛けられるようになるのではないか」
 小さく鼻を鳴らして、ディートハルトは無感動に応える。
 容姿端麗なディートハルトに、美醜(びしゅう)をネタにされたら、どんな厚顔でも二の句を継げない。アルベルトは顔を真っ赤に染めて、唇をねじ曲げた。
「一々、ムカつくことを言うな。たく、俺は心配してやっているんだろうが」
 シュヴァーンへの移動中や今日の態度を見れば、あながちアルベルトの心配は任務上のものとは見えない。一方通行ながら、幼馴染みを本気で心配しているのかも知れないと、フィオレンティーナには思えた。
 しかして、にべもなくディートハルトは切り捨てる。
「お前の心配など、要らん」
「それが幼馴染みに対する言い草かっ! 後で、助けてくれって泣きついても助けてやらねぇぞ」
 と、アルベルトは言うが……ディートハルトが泣きつく様子など、どう考えても想像できない。フィオレンティーナが知らないところで、記憶を失った過去の彼は、幼馴染みに泣きつくような人間だったのだろうか。
 アルベルトに対するディートハルトの態度を見る限り、あり得ないと気がするのだけれど……。
 小首を傾げるフィオレンティーナに、ディートハルトが嘲笑を漏らした。
 そうして、冷酷な蒼い瞳は温度を下げ、幼馴染みに対する舌鋒(ぜっぽう)は容赦なくアルベルトを追い詰める。
「お前に助けを求めるようになったら、俺も(しま)いだな。そういえば、どこかの誰だったか? 雪に埋もれて助けてくれと泣いていた奴は。あのような無様な醜態(しゅうたい)を晒すくらいなら、舌を噛んで死にたいな」
「雪崩は不可抗力だろっ!」
「命の恩人に対して、よく吠える。ああ、それより、もう一人の顔に泥を塗っている奴に伝えろ」
「ちょっ、待てっ! 俺は護衛だって言っているだろうが。伝書鳩じゃねぇぞ」
「何だ、鳩の代わりにもなれんのか。役立たずだな」
「違うだろっ?」
「ひと月後に、婚礼の儀を行う」
「だーからって……はぁっ? 婚礼っ? 誰のっ」
「俺とフィオレンティーナの結婚式に決まっているだろう」
 さらりとディートハルトの口から、自分の名が出てきたことに、フィオレンティーナは戸惑った。
 最初から、ディートハルトは自分を妻にするのだと言っていた。
 だから優しくするのか? と、問いかけた彼女に返ってきたのは、「優しくされるのは、嫌か?」とどこか皮肉めいた鼻で笑うような、返答だった。どこまで本気なのか、戸惑った。
 ただ、ユリウスへの憎悪とは別のところで、彼はフィオレンティーナを生かそうとしている。それだけはわかった。
 希望だと、ディートハルトは言う。
 ……復讐とは違う、希望。
 ディートハルトが自分に何を求めているのか、フィオレンティーナにはさっぱりわからなくて、ただただ、翡翠の瞳を見開くばかりだった。
「この報を持って、ヴァローナの使者への返答にしろ。ああ、レオニード伯父上には是非とも、婚礼の儀にお出でくださいと伝言も付け加えるか。心配してくれずとも、俺には花嫁がいると知って貰うには、実物を見て貰うのが一番だろうな。それと、ドレスの仕立屋や宝石屋を呼べ。靴屋もいるな。花嫁衣装を用意させろ」
「って、本気かよ?」
 アルベルトもギョッと目を剥く。フィオレンティーナを妃に迎えるつもりがあったことは、彼自身が皇女をシュヴァーンへ送り届ける役目に就いていたので知っているはずだ。
 しかし、ヴァローナ王国からの縁談話に、当初の計画が進展する気配はなかった。
 こちらに連れてこられてから、ディートハルトの部屋で生活するということしか、してこなかったフィオレンティーナ自身、正妃としてではなく、愛人という立場に置かれるのだろうと思っていたが……。
「お前の耳は、詰まっているのか。同じことを二度も繰り返させるなど、自ら無能と証明しているようなものだ」
 蒼い瞳を微かに眇めて、ディートハルトはアルベルトを睨む。
「無能って……」
「伝書鳩並みに、役に立ってみたらどうだ? それとも真実、お前は無能なのか。役立たずなのか? 役に立たない奴を護衛に置いておいたところで、楯にもなりそうにないな」
 冷酷な視線を前に、アルベルトは舌打ちした。
「真っ直ぐ、城に帰ってこいよっ!」
 そう言い捨て、馬を城へ向かって走らせる。その姿を呆然と追うフィオレンティーナの耳に、ディートハルトの声が降ってきた。
「お前を正妃として迎える」
「……良いのですか? だって……」
「前にも言ったが、お前の意向など関係ない。お前は俺の妃だ」
「……だけど」
 王侯貴族の結婚に感情など挟まれないということは、既に身に沁みている。それを口にしたのもフィオレンティーナ自身だ。
「お前を正式な妃として迎えれば、俺の手前、カナーリオに対する無茶な政策は持ち出せなくなるだろう」
「……そのために」
「そういう方便で、自分を(だま)せ」
 思ってもみなかった言葉をフィオレンティーナは繰り返す。
「騙す?」
「……俺の妻になるのは嫌なんだろ」
 こちらを見下ろしてくる蒼い瞳は悲しく陰っているような気がした。
 先程まで、冷徹に感情など見せていなかった瞳が、悲しんでいるのだと感じるほどに深く闇を湛えている。
「……どうしてあなたは」
 ――殺したければ、殺せと言っていたじゃない。
 フィオレンティーナは出会った当初、ディートハルトが放った言葉を思い出していた。
 あれからどれだけの時が過ぎたのか、諾々と時を過ごしたフィオレンティーナにはわからない。
 だが、心が腐るのにも、心が落ち着くにも、そして心が変わるにも十分な時間が過ぎたと思う。
 目の前の男にユリウスを重ねては、戸惑い、傷つき、冷静に見つめられるだけの時間は、フィオレンティーナの中でディートハルトの存在を少しだけ変えた。
 ユリウスと同じ容姿をしていて、だけどユリウスとは違う子供染みた性格は――それは記憶がないことに関係あるのだろうが――愛した人とは、別人と言っていい。
 体温や声に、ユリウスを重ねてしまうけれど、やはり違うのだと認識させるほどに、彼はフィオレンティーナの中でユリウスとは別個の存在と刻まれていた。
 同じようにディートハルトの中のフィオレンティーナの存在を変えたのだろうか。
 復讐の道具としてではなく……一人の人間として。
 手を差し伸べるだけの優しさを与えても良いと、彼は……。
 この国がどうなってもいいと言い切ったディートハルトの言動は、言い換えればカナーリオの今後にも関知しないということだ。わざわざ、亡国の皇女を妻に迎え、臣下たちの口出しを牽制させる必要はない。
 カナーリオの地に平和を。残された帝国民を守って――と。
 それを求めるのは、他でもなくフィオレンティーナに他ならない。
 ディートハルトは慰めものにするための女に乱暴するわけでもなかった。己の欲望を押し付けるではなく、むしろこちらの機嫌を伺う。
 彼の行動はすべて、自分のために……。
 何故? どうして?
 フィオレンティーナはディートハルトの真意を問い質したい衝動に駆られた。しかし、それを口にしたところで答えを貰えないだろう。
 ――お前は俺の妻になる。
 その一言で終わらせてしまうのだろう。答えを持ち合わせていないのか、それこそがただ一つの答えなのか。何一つとして、わからないけれど。
 蒼い瞳の悲しみを解く方法だけは、知っていた。
 騙せ――と、ディートハルトは言った。
 それはフィオレンティーナ自身に向けられたものでもあり、ディートハルトに向けられたものでもあったのだろう。
 だから、フィオレンティーナは告げた。蒼い瞳から陰りを取り除くために。
「……私をあなたの妻にしてください」
 そうして彼女は、ユリウスもまた「好きだよ」と囁くことで、嫌われることを恐れていた幼き婚約者を騙していたのだと、思わずにはいられなかった。


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