トップへ  本棚へ  目次へ


 33,危惧


 ――どういう(かぜ)の吹きまわしだ?

 こちらを胡散臭そうに眺める宰相フェリクスの眼差しに、視線を返して、ディートハルトは薄く(わら)う。
「何を言う? お前が言ったのだろう? ――王でいろと」
 机の上に山積みになった書類をディートハルトは片付けて、ペンを置く。
 普段なら、適当に目を通し、後はフェリクスや他の者に押し付けてきた仕事を一人で片付けたのだから、文句を言われる筋合いはない。
 もっとも、それら書類の大半はディートハルトのところに上がって来る前に処理されていて、当然の代物だった。こちらの職務怠慢を口にするより、もう少し有能さを見せろと言ってやりたい。
「性根を入れ替えて、仕事に励んでいると言いたいのか。ヴァローナとの関係を危うくさせておいて」
 同盟国ヴァローナから持ち込まれた縁談話を蹴ったディートハルトに、フェリクスはいまだにネチネチと言ってくる。
「フィオレンティーナとの結婚は最初から決めていた。お前も承諾していたはずだろう」
 ディートハルトはフェリクスとの舌戦に備えて、机の上に置いた水差しから水をグラスに移し、口に含む。
 もっとも、記憶がなかった当初、その結婚はユリウスへの復讐以外のなにものでもなかったのだが。
「だが今は、ヴァローナの機嫌を損ねるのは得策ではない。もう少し、時期を置くとか、それこそヴァローナから花嫁を受け入れてからなど」
 あちらとて、愛妾を持つなとは言わんだろう――と、続けられたそれをディートハルトは手にした書類の束を机に叩きつけ、一刀両断で切り捨てた。
「フィオレンティーナ以外の女なんて、要らない」
「……昔から、そればっかりだな」
 嘆息を吐くフェリクスに、ディートハルトは脳の奥に痛みを感じた。
 いまだに空白の記憶を探れば、頭痛がする。それが嫌だから、自分の過去を知るフェリクスやアルベルトとはなるだけ、顔を合わせたくないのだが……。
 しかし、フィオレンティーナに「皇女としての務めを果たせ」と言った手前、自分が政務から逃げ出すわけにもいかないだろう。
 彼女が国を背負うことで、こちらの妻になることを決意したのなら、ディートハルトも王として、手の内にあるカナーリオをなるだけフィオレンティーナの意に沿うような形で守ってやりたい。
 痛みだすこめかみに指を当て、ディートハルトはフィオレンティーナの温もりを思い出す。彼女の温もりに触れれば、この痛みは(いや)される。
 手の届かない距離にもどかしさを覚えつつ、指先は毎夜撫でる蜂蜜色の髪の感触を思い出していた。それだけで、頭痛が薄れた気がするのは――正式に決まった婚礼に、浮かれているのだろうか。
「ユリウス王子から皇女を奪うという話を聞かされた時は、馬鹿げたことを言うと思ったが。実際に、それを成してしまうとは」
 現実に引き戻すフェリクスの声に、ディートハルトは舌打ちする。
「その計画に加担したのは、どこのどいつだ」
「……記憶を失くしたと聞いた時、お前は皇女のことも忘れていたな。こんなことになるなら、お前が皇女を欲しがっていたことを言わずにいれば良かった」
 そうして、復讐を成し終えた気でいるディートハルトにヴァローナからの花嫁を押し付けて、同盟国の関係は良好と言ったところか。
 宰相の腹の底を見透かすように、ディートハルトは片目を眇める。
 いずれ袖を分かつつもりでいても、フェリクスはまだ暫くはヴァローナを敵にしたくないらしい。
 フェリクスの言動を前に、ディートハルトは冷淡に告げた。
「お前に教えて貰うまでもなかったさ」
 ユリウスに関する記憶の一つにフィオレンティーナへの恋心は残っていた。
 エスターテ城で、フィオレンティーナのことを語っていたもう一人の自分。子供みたいにフィオレンティーナを自分のものだと主張していた。
 他人事にしか思えなかった恋情だったが、今は確実に自分の中に根付いていることを実感する。
「しかし、よく皇女に結婚を承諾させたな。お前は信心が足りないから、祭壇で幾らでも嘘偽りを吐けるだろうが、お前を拒絶している限り、結婚を承諾する言葉に頷くとは思えなかったが」
 信仰心が薄いのはお互い様だろう、と。
 ディートハルトは厭味を飽きずに並べ立てるフェリクスを睨む。
 大陸に浸透している信仰は、世界を創造したとされる始まりの神。その神から生まれた他の神々を国の守護神として祭る国もあるが、シュヴァーンもカナーリオも、始まりの神を最高神と崇めていた。
 そうして、神の前では嘘偽りを口にするのは大罪である――と。
 故に、結婚式などでは愛に偽りがないことを神の前で誓う――もっともそれはあくまで、庶民たちの結婚式の話だ。
 王侯貴族の結婚に愛などは二の次。大事なのは、結婚という名の元に交わされた契約を遂行する意思があるか、否かを問われ、誓わされる。
 儀式の祭壇で「否」と唱えれば、すべては白紙になる。
 そんなことは、ディートハルトもフィオレンティーナも承知している。
 だからこそ、騙せと言った。
 嫌悪を理性で騙し、ねじ伏せて――国のために。
 祭壇の前で誓うのは、永久の愛ではない。国のために夫婦になること。
 そこに感情は差し挟まれない――十分承知していたことであるが、自分とフィオレンティーナが抱いている感情の温度差に、ディートハルトはため息を吐きたくなった。
 だが、フェリクスの前でそれを許さない矜持が彼を支え、会話を終わらせるべく告げた。
「もう決まったことだ。蒸し返すな」
「ヴァローナがこのまま引き下がると思うか?」
「もしまだ何か言ってくるのなら、お前が妻に迎えたらどうだ?」
 ディートハルトの片腕と見なされる宰相という立場。彼自身、有力貴族の次期当主だ。花婿として、フェリクスはなかなか良い物件であるだろう。
 薄く嗤うディートハルトに、フェリクスは片目を眇めながら返す。
「それであちらが納得するのならば、そろそろ身を固めても構わんが。どうでもいいが、あまりヴァローナを軽んじるなよ? お前の粘着質な性格はヴァローナ譲りかもしれん」
 ディートハルトの中に半分流れているヴァローナ王家の血を揶揄(やゆ)して、フェリクスが言う。つくづく口の減らない男だ。
「ならば、お前にもヴァローナの血が入っているのか。初めて聞いたな」
「面白い切り返しだ。生憎、私は生粋のシュヴァーン人だ」
 真偽を確かめようと記憶を探っても、幼馴染みに対する記憶はこの二年に培われたものしかない。
 空白に突き当たれば、じわりと侵食してくる鈍痛に、ディートハルトは奥歯を噛んで席を立った。
「仕事は果たした。俺は部屋に戻る」
 ディートハルトは終わらせた書類をフェリクスへと突き出した。確認するために視線を落とす宰相の横をすり抜けて、部屋を出る。
「――まあ、いつまで続くか。三日で終わるなどと、ガキみたいな真似はするなよ?」
 閉じたドアの向こう側に、ディートハルトはフェリクスの皮肉を聞く。
 じくじくと疼きだす頭痛に唇を噛みながら、ディートハルトは自室へと急いだ。
 この腕の中にフィオレンティーナを抱けば、痛みが治まる。
 早く彼女に会いたい、と早足になる。
 そうして、部屋に戻ればいつもの寝椅子に彼女の姿がないことに愕然とした。
 瞳を四方に走らせ、フィオレンティーナの名を叫びかけて、今日は花嫁衣装を作るための仕立屋が来ていることを思い出した。
 さすがに、この部屋でドレスの調整などできやしない。別室で衣装合わせをするために、ジュリアを伴って出ているのだろう。
 王妃になると決まったからには、いつまでもこの鳥籠(とりかご)の中にフィオレンティーナを閉じ込めてはいられない。
 ディートハルトはフィオレンティーナがいつも所在なさげに腰掛けている寝椅子に腰を下ろし、投げ出すように身体を横たえた。
 この鳥籠は彼女を閉じ込めておくと同時に、外敵から守るためにも存在する。しかし、鳥籠の中に肝心の鳥がいなければ、何の意味もない空虚さ。
 ぽっかりと胸に穴が開いたような錯覚に、心もとなくなる。せめて面影を――と、ディートハルトは瞼を伏せた。
 目を瞑って作りだした闇の中では、蜂蜜色の髪を軽やかに揺らしながら愛らしく笑う幼き皇女がいる。悲しいかな、成長した今のフィオレンティーナの姿ではまだ、笑顔を目にしたことがない。
 ……これで良かったのか?
 小さな笑顔にディートハルトは問うが、フィオレンティーナは微笑みを返すだけ。
 形ばかりでも夫婦になれば、他の者に口出しさせる機会を与えずに済む。正妃としての立場を確立すれば、彼女としてもこの場で息がしやすくなるだろう。
 そう思う反面、彼女を表舞台に立たせることで、フィオレンティーナに悪意が集中しないかと心配になる。
 正妃と愛妾という立場の違いに応じて、彼女を害そうとする輩が背負う罪の比重も大きくなることで、王妃殺しの大罪に恐れ戦いて、刃を振りかざす輩が減ればいいのだが……。
 王殺しの罪を背負っても、ユリウスに復讐しフィオレンティーナを手に入れようとした我が身を省みれば、悪意が失せると期待するのは空しい。
 ……結局、俺は……。
 彼女が自分のものだと、他の誰の目にもわかるように主張したかっただけなのかもしれない、と。
 ディートハルトは、記憶を失う前と何一つ変わっていない自分に小さく苦笑した。


前へ  目次へ  次へ