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 36,花嫁衣装


 ――皮肉ね……。

 全身を映す大鏡。銀の鏡板に映るのは、純白の花嫁衣装に身を纏ったフィオレンティーナだ。
 白い肌の胸元を飾るは南海で採れた真珠。白い鎖のところどころに、淡い色彩の宝石がアクセントになっている。
 左肩にドレスの布地を絞り上げるように作られた花飾り。開いた胸元を大胆に覗かせながら、生地を絞り上げる際の(しわ)を効果的に生かし、腰から膝までは細く、膝下から裾へは扇状に流れるように生地をたっぷりと使用している。
 南海に伝わる人魚をモチーフにしたという、ドレス。
 長い引き裾と、直線を基調としたドレスのシルエットは大人っぽく、フィオレンティーナの身体の線を演出していた。
 こめかみに大輪の白薔薇を一輪飾り、蜂蜜色の髪は流れるままに背中へ。
 結い上げましょうかと、ジュリアが言うのをディートハルトがそのままでと注文を出してきた。
 花嫁の控室に花婿が入り浸っているのは、どうなのだろうと、フィオレンティーナは鏡越しにディートハルトを睨むが、この程度の視線で彼が動じるのを期待するのは無意味で、やはり傲然(ごうぜん)とした笑みで見かえしてくる。
 鏡の端では長い引き裾を邪魔にならないようにまとめるジュリアが、顔を半分伏せた姿勢から、栗色の瞳がちらりとこちらを見上げる。
 ジュリアはやはり女であるからだろう。
 ディートハルトの花嫁になるフィオレンティーナをときとして、憐れむような目で見る。そうして、この日まで何度も意思を確認するように問いかけていた。
 ――よろしいのですか、と。
 守ろうとしているはずの彼女からそのような視線を向けられた日には、フィオレンティーナとしても己の行いが間違っているような気がして、不安になってしまう。
 女として「生」を全うするのなら、やはりユリウスに純潔を捧げるべきだろうと思う。だが、皇女として「生」の意味を問うなら、例えこの身を捧げることになっても、ディートハルトの慈悲を乞うべきなのだ。
 国を再興させる手立ても覇気(はき)もないのなら、せめて――残された帝国民のために生きよう。国民が穏やかな日々を暮らせるように……。
 そうして、花嫁衣装を着ることを決意した。
 純白は(けが)れを知らない無垢を意味するのだと、誰かが言っていたような気がする。庶民の間での俗言だっただろうか。
 想い人に純潔を捧げられない花嫁が純白の花嫁衣装を着る――皮肉。
 それでも、これが自分の選んだ生き方だ。
 自らの思考と対峙すべく、フィオレンティーナは鏡の中の己を見つめた。
 十一歳の時にユリウスとの婚約が決まってから、ずっと、花嫁衣装に憧れていた。
 純白のドレスの俗言を耳にしてから、フィオレンティーナは必ず純白の衣装を着ようと心に決めていた。
 ドレスのデザインは、ふんわりした感じのものがいいと、最初に思っていたが、それでは子供っぽいような気がして、身体が女らしくなるにつれて細身のデザインを頭の中に描くようになっていた。
 夢想していたドレスが、そのまま鏡に映っている。
 フィオレンティーナがあれこれ注文することなく、仕立て上げられた理想のドレス。だが、花婿は夢に描いていた人とは違う。
 ――否、容姿だけはそのままだ。
 髪の色が違うだけ……。
 ディートハルトの平素の表情は、ユリウスとさして変わらない。ただ、ユリウスが穏やかに微笑むのに対し、ディートハルトの面を飾るのは皮肉な笑み。
 その彼が座っていた椅子から腰を上げて、フィオレンティーナの斜め後ろに立つ。ジュリアは控えるように後ろへと下がり、鏡の視界から消えた。
 ディートハルトは腕に抱えていた、毛皮を縁に縫いとり、裏地に刺繍(ししゅう)が鮮やかに縫い込まれた毛織物の温かそうなガウンを広げ、フィオレンティーナの剥き出しの肩を優しく覆ってきた。
 ドレスは美しいが、この極寒の地にはあまりに肌が露出しすぎている。
 暦の上では既に春という季節なのに、シュヴァーンの国は雪が降っていた。それでも、最初にこの国を訪れた頃より寒さが和らいでいるように感じられるのは、フィオレンティーナの身体がこの国に慣れてきたからなのか。
 それとも、彼の温もりか……。
 ディートハルトの腕が優しく囲って、蜂蜜色の髪に口づけが落とされる。微かな熱がフィオレンティーナの胸の奥に宿った。
「……綺麗だな」
 伏せた瞼が開かれ、睫毛越しの蒼い瞳が鏡の中のフィオレンティーナに囁く。
「世辞は要りません」
 小さな一言に心をざわめかせる自分を叱咤するように、フィオレンティーナは強く声を吐いた。
 この程度の言葉で反応していたら、日がな一日、とてもではないが気が休まらない。
 婚礼の儀が正式に決まってからこちら、ディートハルトとの会話は増えた。
 かなり明け透けな世辞を口にすることもある。その半分は明らかな皮肉のようにとれるが、時折、確信を突くような、それでいて本音のような言葉が覗く。
 その度に、ディートハルトの真意がどこにあるのかわからずに、戸惑う。
 憎い相手であるのだが、ディートハルトほど、自分の「弱さ」を見透かしている人間はいないと、フィオレンティーナは思う。
 彼はそれを「強さ」だと言うが、やはり「弱さ」だろう。
 仇である彼の侵入を心の中に許してしまったのだから。特別な名前を呼ぶことを許してしまったのだから。
 だけど、彼だけがフィオレンティーナの今の在り方を許してくれている。認めてくれている。国のために生きようとする自分を支えてくれる。
 悔しいが、ディートハルトが自分の一番の理解者になっている事実を、フィオレンティーナは認めないわけにはいかなかった。
 それを自覚すれば、ドレス越しに沁みてくるディートハルトの体温が少しだけ辛かった。きっと、彼の手が汚れていなければ、この温かな抱擁(ほうよう)を心の底から受け入れられたのに。
 それはきっと、ユリウスに向けた愛情とは違うものだろう。
 しいてあげるなら、ジュリアに対するような仄かな信頼。
 恋や愛とは違う――違うと思う……。
 それでも、少しだけ胸が苦しくなる切なさをフィオレンティーナは数か月前には想像もしていなかった。
「ドレスではなく、お前を()めろということか?」
 蒼い瞳が悪戯(いたずら)っぽく煌めいて、笑う。
「――なっ!」
 返された言葉に、フィオレンティーナは絶句した。一連の流れを傍から聞いていれば、彼が綺麗だと賛美したのはドレスだったというになる。
 勝手にうぬぼれて、世辞を拒んだこちらを道化に仕立てて笑うなんて――何て、酷い。
 自分の置かれた立場に、フィオレンティーナは怒りと恥ずかしさに、顔を赤く染めた。
 ディートハルトの底意地の悪さは、承知していたことだけれど……。
 よりにもよって、これから婚礼を上げようという場で、相手の不興を買うような真似をするとは。他人の意を省みない、どこまでも自己中心的というか、傲慢(ごうまん)というか。
 羞恥(しゅうち)に項垂れるフィオレンティーナの顎を背中から回された手が掴み、顔を正面の鏡に向けさせられる。
「よく見ろ」
「……何なのですか、ドレスが美しいのは私も認めています」
 だから、あなたは綺麗なのだと褒めたのでしょう――ドレスを!
 抗議するように頬を膨らませ、鏡越しに睨めば、フィオレンティーナの肩に顎を乗せて、ディートハルトは口を開く。
「ドレスが美しく映えるのは、素材がいいからだ」
「それは……そうですね。……綺麗なシルクですね」
 ディートハルトの言葉に怒りを忘れ、肌触りのいいドレスの生地に、フィオレンティーナは目を細め、感嘆の吐息をこぼした。
 光沢のあるシルクは純白なのに、光の加減で色々と表情を変える。それは見ていて、なかなか楽しい。
 思わず口元を綻ばせてしまうフィオレンティーナに、ディートハルトは片眉を吊り上げ、呆れたような顔を見せた。
「……そう切り返されるとは、思わなかった」
「えっ?」
「言葉はそのまま受け取れ」
「何を。あなたが最初に……」
「本音をぶつけても、要らないと言われた日には、男の立場がなくなる」
「……また、そうやって……私をからかうのでしょう……」
 胸の内側で心臓が跳ねるのをフィオレンティーナは感じた。乱れる感情に、声が掠れる。この心音が、ディートハルトに気づかれないようにと願う。
「否定してくれるから、意地悪をしたくなるんだ」
「あなたの日頃の行いが……」
「それを言われたら、終わりだな」
 降参だと言うように、ディートハルトは肩を竦めて腕を解いた。
 拘束が解かれ、身体にまとわりついていた熱が冷めるのを少し寂しく感じていると、
「……レナ、お前が一番綺麗だ」
 静かな、だけど熱っぽい声がフィオレンティーナの耳朶を撫でた。


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