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 35,強さと弱さ


 ――強くなどないわ……。

 強くなりたいのよ、私は――と。
 翡翠の瞳を濡らすフィオレンティーナをディートハルトは自分の胸に抱き寄せた。
 なすがままにディートハルトの胸にしなだれかかり、泣き崩れる華奢(きゃしゃ)な肩は、確かに弱々しく見える。
 だけど、フィオレンティーナの中に確りとした芯があることをディートハルトは知っていた。
 彼女は憎悪をぶつけられれば、それを受け止めようとする。守る者があるなら、己の身を犠牲にすることも(いと)わない。
 ――それは強さだろう?
 一途に、ユリウスを想うこと。国に殉じようとすること。
 その想いの揺るがなさを(はかな)いと言うのか?
 簡単に揺らぐものなら、さっさとユリウスを忘れて、俺の物になれ――ディートハルトは喉の奥から溢れそうな感情の波を、唇を噛んで()き止めた。
 フィオレンティーナが自らを弱いというのは、不安があるからだろう。ユリウスに愛されていなかったかも知れないという不安から、目を背けようとする自分を弱いと彼女は思っている。
 ユリウスの愛情が確信できるものであったのなら、フィオレンティーナはどんな目に会うとしても毅然(きぜん)としていられただろう。
 ――私を壊したければ、壊せばいい。
 彼女がそう言い放った言葉が他でもなくフィオレンティーナの強さを現わしていた。
 憎い相手と対面しても感情に走ることなく、冷静に向き合い、壊されることを厭わない強さで、ディートハルトの中にあるユリウスへの憎悪と対峙してみせた。
 けれど、フィオレンティーナの中に、ディートハルト自身が杭を打ち込んだ。穿たれた穴に、彼女の姿勢は崩れた。
 ぎりぎりのところで支えていた心に強い憎悪をぶつけることで、彼女は一瞬我を失った。
 そうして、家族を奪われ、国を失い、孤独に堕ちた彼女はユリウスと同じ姿をしたディートハルトに愛しい者の影を重ねてしまった。
 その瞬間に、彼女は自分自身の愛情にも自信が持ってなくなったのだろう。
 愛しているからこそ求めた影。でも、別人にその影を映してしまった自分が許せないでいるのだ。
「……馬鹿な女だな、お前は」
 ディートハルトは蜂蜜色の髪を撫でながら、笑った。(いぶか)しげにこちらを見上げてくる翡翠の、目尻に溜まった涙を強引に拭う。
「……馬鹿な女だ」
「何を……」
「弱いと言うなら、弱さに溺れればいい。そうして、俺に甘えてくればいい。そうすれば、苦しさも半減するだろ」
「そんなことは」
 できない――と、フィオレンティーナは唇を震わせ、苦しげに呟く。
「そう、お前は甘えない。甘えることを否定するんだ。それを弱さだと言って」
「私は」
「弱さを知っている。それだけで、お前は強い。本当に弱い者は、自らの弱さに気付けないものさ。いや、自分の弱さを認めようとしない。そうして、他人のせいにする」
 口にしながら、果たして自分はどうなのだろう? と、ディートハルトは思う。
 昔は、自分の弱さに気付けなかった。周りがユリウスだけを見て、己が消えていく現実をすべてユリウスのせいにした。そうして、抱いた憎悪は多くの人間を巻き込み、不幸にした。
 フィオレンティーナが彼の手の中に今在るのも、彼女にとってはディートハルトがもたらした不幸によるものだ。
 自分の欲望だけに突き動かされて、彼女の幸福など、二の次だったのだろう。
 ……だが、今は?
 フィオレンティーナという弱点を抱えた自分は、これから強くなれるだろうか。
 他の何を犠牲にしても構わない。彼女だけは守りたい。生かしたい。幸せにしたい。
 それを望むだけの資格が自分にあるとは思えない。
 だが、それでも願う。
 腕の中に抱いた温もりだけは手放したくない。
「あなたは……」
「――何だ? 相変わらず、人の名前を言わないんだな」
 甘えることを知らない――否、男心がわからない女だな、と続けそうになった言葉は呑み込む。
 代わりに嘆息を吐きつつ、
「そんなに俺の名は呼びたくないか」
 と、ディートハルトは皮肉を唇に乗せた。
 名前を呼んでくれたなら、幾らでも甘やかしてやるのに。もっとも、彼女が自分に甘えてくる日など、訪れるのだろうか。
 彼女はこれからも変わらずにユリウスを愛するのだろう。悔しいが、その一途さ真っ直ぐさが――他でもなく、ディートハルトが求めたフィオレンティーナの魅力だ。
 真っ直ぐな瞳で、自分だけを見つめて欲しいと、幼いディートハルトは求めた。
 その願いは、ディートハルトの中にユリウスの面影を探すときだけ、叶うのかも知れない。
 それによって胸が引き裂かれ、苦しむことになっても、フィオレンティーナを求める。彼女だけが記憶の空白に疼く頭痛を癒してくれる。
 癒しと引き換えに苦しむというのは、実に間抜けで、滑稽(こっけい)で、己を(あわ)れみたくなるが、それでも求めることを止められないのだから、愚かと嗤われても構わない。
「……あなたこそ、私の名前を口にしないわ。お前と呼ぶのに」
「フィオレンティーナと呼んでも構わないと?」
 びくりと肩が震え、首が横に振られる。
「駄目、駄目だわ。あなたの声は……ユリウス様を思い出させる」
「俺を奴の代わりにしないのか? すればいい。甘えろと言った」
「駄目よ。あなたはユリウス様と違う……あなたは、ディートハルト……そうでしょう?」
 甘えることを許さない強さが、ディートハルトの名を口にした。
 影を求めながら、ユリウスとは違う別個の存在を彼女は見つめる。
 幼い頃、誰もがユリウスを求めた。ユリウスの影に埋没しそうなディートハルトを見つけてくれたのが、隣国の小さな皇女だった。
 今もまた彼女は、ディートハルトを一人の人間として識別してくれる。
 薔薇色の唇が己の名を口にする甘美な響きに、ディートハルトはフィオレンティーナの顎をとった。
「ならば、俺だけの名を与えろ。何と呼べばいい?」
 真正面に瞳を覗いて、問う。
「ユリウス様はティナと呼んだわ。お兄様はフィーと。他の皆はフィオナ……」
「他の奴と同じでは意味がない。では、レナと呼ぼう。俺だけの名前だ。他の誰にも呼ばせることは許さない」
「……傲慢(ごうまん)な」
「俺が傲慢でなかったときなど、あったか?」
 開き直ったディートハルトにフィオレンティーナは目を見開いた。何て図々しいと表情は語っていたが、嫌悪感を見せてはいなかった。
「……そうね、あなたは……ディートハルトはいつだって、私に命令する」
「だが、レナはその半分しか従わない。甘えれば良いのに」
「あなたの望みを叶えるために、私はここにいるわけではありません」
 きっぱりと言い切るフィオレンティーナの瞳は既に乾いていた。
 ディートハルトは唇の端を持ち上げて、笑った。
「――ああ、お前はお前が守る者のためにここに生きて、俺の妻になる」
 そうだな? と、確認するように問えば、彼女は唇をきつく結んで頷いた。
 それでいい……。
 その覚悟があれば、彼女は生きていける。


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