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 38,最後の願い


 ――泣くな……。

 そう言っているようだった。
 ディートハルトと初めて唇で交わした口づけは、優しかった。
 数カ月前にこの国に連れてこられて、乱暴に寝台に押し倒されたとき、彼の唇は(けもの)のようにフィオレンティーナの肌に吸いついた。
 こちらが無抵抗であったから、ディートハルトはそれ以上の暴挙に出ることはなく――あのときの彼は、無理矢理フィオレンティーナを壊すことで、ユリウスに復讐するつもりだったのだろう――フィオレンティーナの純潔(じゅんけつ)は守られたのだけれど。
 ……優しい。
 神の御前、誰もが見守る中で重ねた唇は、柔らかく優しい温度でフィオレンティーナを包む。
 あの夜とは別人のようで、ユリウスとの口づけをフィオレンティーナは思い出していた。
 ……私は……まだ……。
 離れていく熱にディートハルトの吐息が閉じた睫毛(まつげ)に触れる。視界を開ければ、漆黒の前髪の影で蒼い瞳が揺れていた。ぼやけて見えるディートハルトの姿に、フィオレンティーナは自分が泣いていることに気づいた。
 もう泣くのは止めようと、どうしても我慢できないときだけに、涙をこぼそうと決めたはずなのに……その誓いは、いつも(もろ)く崩れる。
 ユリウス様を一途に愛そうと決めたことも、ディートハルトを生涯憎もうと決めたことも。
 ……私は何一つ、果たせていない。
 ユリウスのことは今でも愛していると、フィオレンティーナは自身の心を信じていた。だけど、心に別の人間の侵入を許してしまった以上、誓いは果たされない。
 そして、ディートハルトを憎いと思った感情も、フィオレンティーナの中には存在していた。彼がすべてを壊した事実は、見過ごせない。
 しかし、彼の存在に救いを――自分自身に許しを求めている己を、フィオレンティーナは自覚している。
 それはユリウスに対する裏切りでもあるだろうと、彼女は胸が苦しくなった。
 ……いえ、ユリウス様が真実、私を愛してくれていたのかは、わからない。わからないけれど……それでも私は、ユリウス様だけだと誓ったのに。
『フィオレンティーナは、ユリウス様のものです』
 婚約者が(ささや)く愛の言葉を明るく信じられていたあの日の無邪気な誓いも、何一つとして約束を果たせない。そんな自分が神の前で、何を誓うのだろう?
 国のために生きること――そう決めたことも、叶わないのではないのか?
 不安になるフィオレンティーナの手を、不意に強い力が握り締める。繋いだ手の先にディートハルトの横顔がある。
 始まりの神をかたどった彫像。
 夫婦として、ときに杖となり、楯となり、互いを支え、守ることをここに誓うと――神の御前で交わした誓約の口づけ。
 この人は私を支えてくれるだろうか――夫婦という形に結ばれたが、二人の間には愛情はまだない。ないと思う。ディートハルトの真意がどこにあるのか、フィオレンティーナには見当がつかない。
 ただ、ユリウスへの復讐のためにこちらを利用しようとする意思は、最初に感じた頃よりずっと薄くなっているように思える。
 復讐に利用するつもりなら、憎ませたほうが彼の意図に合うはずだ。
 そうして、今の二人の間にあるものは、 フィオレンティーナが心に誓った決意と、ディートハルトの理解。それが二人を結んでいる。
 皇女としての務めを果たせと要求する彼は、今は滅んだ帝国のために生きようとするフィオレンティーナの望みを叶えようとしてくれているのだろう――そう信じて、よいのだろうか。
『俺の言葉など、信じたくなければ、信じなくていい』
 前に告げた彼の言葉は、牽制(けんせい)か。それとも信頼を貰えないと確信した口が言った皮肉か。
 ……信じさせて。
 フィオレンティーナはディートハルトの手に縋るように、力を込めた。
 ――残された帝国の民に幸を……。
 これが最後の願い。その願いが叶うなら、どんな苦しみにも耐えるから。
 どうか、お願い……と、フィオレンティーナは厳粛(げんしゅく)に執り行われる己が婚礼の儀式を見守りながら、祈った。
 やがて式は終り、街へのパレード、宴と、時計の針が刻々と時を刻むように、一日は過ぎ去って行く。
 婚礼の儀式の最後は花婿と花嫁が同じ床に入ること。
 それは既に、今さらの事のように思える。何しろ、フィオレンティーナはここに来てからずっと、ディートハルトと同じ寝台で眠っているのだから。
 もっとも、誰もが(みだ)らな情事を想像するなかで、二人はただ身を寄せ合って眠っているだけなのだが……。
 さすがに、今夜からはそういうわけにもいかないだろう――と。
 フィオレンティーナはいつもより入念に彼女の身体を磨く侍女たちに予感した。
 そうして、真新しくおろした絹の白い夜着に身を包んで、ディートハルトの寝室へとジュリアに導かれて向かう。
 本来なら、後宮でディートハルトを迎えるのだろうが、フィオレンティーナの部屋は相変わらずディートハルトの部屋のようだ。
 彼の衣装部屋には、フィオレンティーナのドレスが仕舞われるようになっていた。
「――姫様」
 声をひそめて、ジュリアが肩越しに振り返る。
「どうしたの?」
「本当に、よろしいのですか? 今なら、まだ……」
 まだ間に合うと、ジュリアは足を止めて、身体ごと振り返ってきた。
「姫様が望まれるのでしたら、わたくしが姫様を逃がします。例え、何があっても逃しますっ!」
 両腕を広げ行く手を阻むように、立ちはだかる。
 恐らく、ジュリアはフィオレンティーナの(かせ)になっている自分に気づいたのだろう。
 自分がいなくなれば、己の意志で生死を選べる。その選択権をジュリアはフィオレンティーナに返そうとしているのだろう。
 ディートハルトに(けが)されたという悪意の噂に打ちのめされ、人形のように無気力な日々を過ごしたフィオレンティーナをジュリアは見ている。
 実際に、身体を彼に預けることになれば、心の負荷に耐えきれるかどうか、ジュリアは不安なのだ。
 狂ってしまうくらいなら、最期を選ぶ自由を返そうと、決意したのだろう。
 ――だけど、それは違うわ、とフィオレンティーナは心で囁く。
「……ジュリア、あなたは、私はユリウス様に純潔を捧げるべきだと思っているの?」
 フィオレンティーナはジュリアを真正面にとらえ静かに問い、首を傾げた。
 そうしながら、おかしな問いだと、彼女は笑いたくなった。それを望んでいたのは、他でもない自分自身だったのに。
「……わたくしは姫様をお守りしたいだけです。姫様のお心をお守りしたい。わたくしはリカルド様に……」
「お兄様?」
「わたくしはリカルド様に……頼まれました。フィオレンティーナ様を頼むと」
 兄の面影がフィオレンティーナの胸中で『幸せになって欲しいよ、フィー』と微笑みかける。
 もう二度と手の届かないと思っていた人の、冥界から届く声に胸が熱くなる。
 幸せを願ってくれた人がいた。そうして、守ってくれる人がいる。
 胸を満たすその温かさが嬉しいと、心の底から思えた。それは生きているからこそ、感じる喜びなのだろう。
 ユリウスや父や兄を、国を失ったことで、何もかもを失った気がしていた。
 だけど、この手のひらにはまだ沢山のものが残されているのを、フィオレンティーナは改めて実感した。
「……ありがとう、ジュリア。あなたは、お兄様が好きだったのね?」
 幾ら、ジュリアが忠義に厚いとはいえ、皇太子の一言を何年も引きずっているとは思えない。そう考えて口にしたフィオレンティーナの問いかけに、侍女の栗色の瞳から涙がこぼれる。
「……両親がなく、親戚のつてで宮廷へ雑務係としてご奉公に上がった……そんな身分の者が、リカルド様をお慕いするなど……いけないことと承知しておりますが……」
 雲上人に憧れるのは、宮廷に仕える女官たちにとって、きっと珍しい感情ではない。
 ジュリアのそれも、同じような感覚で始まったのだろうとフィオレンティーナは推測した。
 そして、ただの憧れを何年も引きずるほどに、強く――彼女はリカルドに恋した。
 国を失い、異国に(さら)われて、二年。周りから差し向けられる帝国への憎悪は、絶望に命を絶ったとしてもおかしくないほどの、辛い孤独をジュリアに与えただろう。
 実際、その中に身を置いて心が(くさ)って行くような感覚に囚われた日々を思えば、フィオレンティーナは自分よりも年上で、だけど小さいジュリアの中に秘められた想いに目を見張る。
 きっと、孤独に耐えていたのは、リカルドへの想いの強さ。
 もしかしたら、その想いは一方通行ではなかったから?
 持ち込まれる縁談をリカルドが苦笑しつつ、巧みに避けていたのは……。フィオレンティーナのエスターテ城訪問の参段を付けてくれたのは、妹のためであっただろうが……もしかしたら、彼自身もそこに逢いたい人がいたから?
 だから逢瀬(おうせ)に焦がれる妹の感情を理解してくれたのではないだろうか。
 それはフィオレンティーナの想像でしかないけれど、目の前の彼女の忠心を見ていると、心惹かれるものがある。
 もし、リカルドとジュリアの間に言葉を交わす機会があったのなら、そこに何かが生まれることをフィオレンティーナは確信できる気がした。
 万が一の可能性であったとしても、二人の間に想いが通じていたのなら……リカルドの死は、ジュリアにどれだけの衝撃を与えただろう。
 それでも、この場に生きて、こちらの意志を守ろうとする彼女は……。
「……ジュリアは強いのね」
「わたくしは……」
「その強さを私にもわけて? 私も国を守るために、強くなりたいわ」
「姫様」
「私を姫と呼んでくれるのなら、お願いよ。私をこの先に行かせて。私は皇女として生きると決めたの」
 ジュリアに微笑みかけながら、フィオレンティーナは心で囁く。
 ――そうして、あなたが私を守ってくれるように、私もあなたを守りたいわ。
 ディートハルトは枷がなければ死を望むだろうと言った。あのときは、確かに枷だと思った。
 でも今は、己の生き方を定めた今は――ジュリアや帝国の民の存在は枷ではない。
 フィオレンティーナがこれから生きていく未来への心の支えだ。何よりも大切にしたいと願うもの。
「ですが……」
「幸せの形はきっと、色々あるのね。一つじゃないんだわ。私はユリウス様に愛されることが一番の幸せだと信じていたわ。けれど、ユリウス様がいない今、私の幸せは私の大切な人たちを守ることよ。ねぇ、それはお兄様が私のために祈ってくださった幸せとは違うのかしら?」
「……よろしいのですか?」
「ジュリアは、私が犠牲になると思っているの? 誰かのために尽くすことは、愚かなこと? 偽善と(わら)う? でも、ジュリア、あなたの献身を私は愚かなことだとは思えないのだけれど」
「……姫様」
「ジュリア。あなたは知っていた? ……ユリウス様を殺したという、あの人は、皮肉屋で意地悪だけど……時々、優しいの」
「……はい、ディートハルト陛下が、姫様にだけはお優しい一面をお見せになるのは、存じております」
 フィオレンティーナは小さく頷く。
 ディートハルトの優しさが自分の勘違いでなかったことに安堵する。
「あの人の中には、ユリウス様への憎悪がある。だけど、それとは別のものもある」
 ディートハルトが語った――復讐ではない、希望。
 彼の中に復讐とは違う未来を描く何かがあるのだと、フィオレンティーナは思った。
「私はあの人が言う希望を信じてみようと思うの」
 フィオレンティーナは彼と手を繋いだ温もりを思い出し、そっと微笑みながら、心の内側で囁いた。

 ――信じたいと思ったの。


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