トップへ  本棚へ  目次へ


 39,封じられた記憶


 ――疲れただろう……。

 寝室に入ってきたフィオレンティーナに、ディートハルトは椅子に腰かけた姿勢のまま顔を上げた。
 そうして、再び首をうなだれさせながら重い息を吐きつつ言った。
「疲れただろう、もう眠れ。明日も接待など、色々あるからな」
 実際、ディートハルト自身、かなり疲れていた。
 宴の場で、終始付きまとう好奇の目。玉座を簒奪した無法者を観察、見分し、どのような関係を結び、どれだけの距離を置こうかと黒い腹の中で探っていた。
 伯父のレオニードの視線も、ディートハルトを憂鬱(ゆううつ)にさせた。
 ディートハルトの中で唯一、ヴァローナ王家の血を現わしている漆黒の髪。レオニードの髪も彼の母と同じく漆黒の髪は(からす)のように黒い。
 血の繋がりを改めて認識させるヴァローナの国王には記憶を失ってからこちら、伯父であろうと義理立てする気もなかった。
 しかし、フィオレンティーナという守るべき存在を手にした今は、何もかもがどうでもいいと切り捨てられなくなったことを実感する。
 婚礼の儀直前の会見でレオニードが放った言葉をどれだけ理解しているのか、探る様に追いかけてくる黒曜石の瞳に、ディートハルトは自身の身体に重たい鎖を絡められたような錯覚を覚えた。
 何かを得るということは、不自由になることなのかもしれない。その不自由を不自由と感じたら、負担になるだろう。
 だが、肩に圧し掛かる重さを己に課せられた責任と感じることができれば、自分が少しだけ大人になった気がした。そう考えると、この疲労感も悪い気はしない。
 何も持たない自由より、大切なものを手にしているからこその不自由。今の自分は間違いなく後者を選ぶ。
 フィオレンティーナを得た代償に背負う不自由なら、喜んで受け入れてやる。
 憂鬱さを決意に変えるディートハルトの耳に、
「…………あの、……いいの?」
 うかがうような声が聞こえ、顔を上げると寝台の脇でフィオレンティーナが所在なさげに、立っていた。
「何が?」
 訝しげるディートハルトの視線に、
「……あっあの……」
 フィオレンティーナは言葉に詰まらせ口ごもる。白い肌が赤く染まるのを見て、彼女の言わんとしていることを知り、ディートハルトは目を丸くした。
「……その気でいたのか?」
 夫婦になったからと言って、彼女が自分を受け入れてくれるのはまだ先だろうとディートハルトは考えていた。
 己を悩ます頭痛がある以上、彼女に無理強いはできない。彼女が抗い、泣き出したら最後、幼い頃の自分がこちらを苦しめる。
 フィオレンティーナが自然にこちらを受け入れられるようになるまで、長期戦を視野に入れていたディートハルトは、意外にその気の彼女に驚かされた。
「えっ? 私は……」
「覚悟を決めていたということか」
 夜着をギュッと握りしめる手の震えを見て、ディートハルトは落胆の吐息をついた。
 ディートハルトを受け入れようとするのは、あくまで契約の一端なのだろう。国を守るために憎い男に身を捧げる――。
 それを()いたのは他でもなくディートハルトであるのだが、契約のために身を易々と差し出してくる彼女に怒りが沸いた。
 フィオレンティーナは何もわかっていない。
「取引に自分を安売りするな」
「……えっ?」
「俺の妻になることで、お前の(ほこ)りを俺は買った」
 ユリウスの婚約者だったフィオレンティーナにとって、ユリウス以外の男の妻になることは屈辱だろう。だが、帝国皇女として国のために、あえてディートハルトの前に膝をつくことを選んだ。
「その代償にお前の国を守ってやる。身体は別物だ」
「……でも」
「身体を売るのは、娼婦だ。お前は娼婦になるつもりか? それは俺を侮辱(ぶじょく)するのだとわからないのか」
「……侮辱……」
「心のない身体なんて、欲しくない」
 欲しいのは心だ。心が伴わない抱擁なんて、それこそ娼婦を抱くようなものだろう。
「――レナ」
 ディートハルトは自分だけに与えられた特別な名を口にした。声に反応するように、フィオレンティーナの肩がぴくりと震え、翡翠の瞳が真っ直ぐにこちらを見返してくる。
 椅子から立ち上がり、彼は彼女の前に立った。身長差がどうしても威圧感を出してしまう。だから、彼女の前でディートハルトは膝をついて、フィオレンティーナを見上げた。
「どうすれば、俺の言葉はお前に届く?」
 白い手を絹の衣から引き剥がし、自分の手の中に握る。
「……えっ?」
「俺は……初めから。……そう、初めから、言っていただろう?」
「初めから?」
「ユリウスが俺の欲しいものを奪ったと」
「……それは」
「お前なんだ。俺が欲しかったのは……」
「――私?」
「王位が欲しかったわけじゃない。俺はお前だけが欲しかった」
「どうして……? ――私がユリウス様の婚約者だったから?」
 私はやっぱり、ユリウス様への復讐の道具なの? と、問いかけるフィオレンティーナの声は悲しげに震えていた。
 そんな彼女に、ディートハルトは苦笑をこぼす。
 心からの賛辞(さんじ)世辞(せじ)と受け取ったように、どこまでも彼女は勘違いしてくれる。
「……違うだろ。お前がユリウスの婚約者となったから、俺は奴を憎んだんだ」
 本当は、言いたくなかった。
「お前が欲しかった。お前だけで良かった。だが……ユリウスも」
「えっ?」
「ユリウスもお前だけは譲れないと言った。……だから、俺は奴を殺した」
 これだけは口にしたくなかった。
 だから自分はフィオレンティーナへの想いを、記憶を手放したのだろうとディートハルトは確信した。
 あまりにも重すぎる感情。それは一国を滅びに導いた。フィオレンティーナから、何もかもを奪ってしまった。
 この罪深き想いを受け止めるには、フィオレンティーナには荷が勝ち過ぎる。
 彼女がしっかりと生きることを定めるまで――できれば一生、このことは告げたくなかった。こちらの重さに潰れてしまうのが、目に見えていたから。
 そうして、ユリウスをすべての原因にしようとして、記憶を手放したのだと今ならわかる。
 フィオレンティーナが政略のために嫁がされる相手を、心の底から愛していると知らされたことも引き金となっていたのだと思う。
 エスターテ城の最上階の部屋で、ユリウスに宛てられたフィオレンティーナからの手紙。書箱に一杯になるほどの溢れんばかりの恋心。
 フィオレンティーナの幸福を邪魔する存在が、自分であることを認めたくなかった。
 自分こそが、彼女を幸せにするのだと、エスターテ城に攻め入った際のディートハルトは信じていたのだ。
 政略の駒とされ、無理矢理、ユリウスに嫁がされるのだと思っていた。ユリウスが不義の子であることがいずれ表沙汰になれば、フィオレンティーナが傷つくと考えた。
 絶対に、ユリウスにフィオレンティーナを渡せない――そうして、兵を起こした。
 彼の決心、そのすべてを否定するような現実。
 フィオレンティーナはユリウスに恋をし、ユリウスもまたフィオレンティーナを愛した。
 きっとユリウスも、鳥籠(とりかご)の中で孤独であったところに、真っ直ぐにぶつかってきたフィオレンティーナに支えられたのだろう。
 帝国に人質として捧げられることが決まった瞬間、ユリウスの手からは王子としての輝かしい未来図は消え去った。何もかもを失った。
 空っぽになったところへ、ただ一人、フィオレンティーナが政治の裏表など関係なく、己が未来の夫を無垢に慕ってきた。
 フィオレンティーナの純粋な恋心に、ユリウスが惹かれたのを想像するのは、ディートハルトにとって難しくない。
 昔、ディートハルト自身がフィオレンティーナの存在に救われた。癒された。彼女だけが希望だった。孤独の闇に支配されたなかで、ただ一つの光だった。
 ユリウスはどこまでもディートハルトの後を追いかけてくる。
 疎ましく付きまとう過去からの憎悪。
 ディートハルトは突き動かされる怒りに身を任せ、ユリウスに手を掛け……その事実から逃げるように、記憶を封じた。手放した。
 憎しみだけを残すことで、すべてに目を瞑った。
 己の行いを正すにはもう多くのものを犠牲にしていた。手のひらは血に汚れていた。引き返す道など、彼には思い至らなかった。
 そうして手放した記憶と引き換えに、フィオレンティーナを手に入れたところで、当然ながら、想いが通じるはずがない。
 彼女を傷つけるたびに、頭痛がして苦しむのは、僅かに残った良心。
 幼馴染みたちの記憶を消したのは、誰かに縋るのを許さない己が己に与えた、罰。
 結果、こうして己が罪を告白するのは、フィオレンティーナへの想いを謀ったディートハルトに対する――ユリウスの呪いか。
 だが、ユリウスが最期に遺した真実を口にしなければ、フィオレンティーナに自分の想いは届かない。
 きっとこの先も、ユリウスへの復讐の道具として生かされたのだと、彼女は誤解し続けるだろう。
 フィオレンティーナへのユリウスの想いを見誤ったように……ディートハルトの想いもまた、永遠に誤解される。
 ユリウスへの憎悪を抱える限り、ディートハルトの想いはフィオレンティーナに届くことはないのだと知れば、彼は血反吐を吐くような思いで口を開いた。
「お前は、俺に自分を許して欲しいと言っていたな。……多分、俺の方こそがお前に許しを請わなければならない」
「……何を?」
「ユリウスじゃない……ユリウスが悪かったんじゃない。レナ、お前を愛した――俺がすべての元凶だ」


前へ  目次へ  次へ