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 優しい嘘


 0,夜の街角


「ねぇ、翔ちゃん。翔ちゃんは幽霊って見たことある?」
 そう幼馴染みの千尋に尋ねられたとき、翔はつい先日、夜の街角で見かけた一人の男を思い出していた。


                   * * *


 薄闇を白く照らす街灯の明かりを受けて、足元に伸びてきた影に顔を上げると、歩道沿いの電信柱に向かい合って佇む人影があった。それを目にして、翔は足を止めた。
 普通ならそのまま通り過ぎるはずだった。
 だけど、電信柱の足元に捧げられた花束が目に入る。
 夜の冷えた空気に、微かに漂う線香の匂い。
 歩道から右に入れば、児童公園がある。この通りは、公園から飛び出してくる子供が犠牲になる事故の多い場所だった。
 飛び出してきた子供を避けた車が、電信柱に衝突して、運転手が亡くなるという事故が最近あったことを、翔は耳にしていた。
 ――その運転手は、まだ初心者マークをつけた若い男だったと。
 ゾクリと背筋が凍った。何も見なかった振りをして、行き過ぎようと翔は足を動かした。
 なるだけそちらを見ないように心がけてみるも、一度気になってしまうと、無意識に目がそちらに向かう。
 すると、白い光の下に佇んだ人影が不意にこちらを振り返った。
 目があった。
 切れ長の目元にはめ込まれたのは、透明なガラス玉のような青灰色の瞳。
 夜の闇より濃い漆黒の髪に、白い陶器のような滑らかな肌。
 目鼻立ちの整ったその美貌は――翔の目を釘付けにする。
 自分は見てはならないものを見てしまった、と――翔は悔やんだ。
 魂が奪われそうなくらい、その顔は綺麗で。息をすることを忘れる。
 天使とか悪魔とか、次元の違う生物が具現化したなら、この目の前の男のような姿をしているのではないだろうか。現実離れして、どこか幻想的な雰囲気をまとって佇むその青年が、自分と同じ人種だとは思えなかった。
(……人間じゃない?)
 翔は、自分の思考にギクリと身体を強張らせた。
 次の瞬間、翔は自分でも驚くスピードで駆け出した。
 一度も振り返らなかった。振り返れなかった。

                   * * *

 あの夜のことを思い出す。まだ三日とも経ってはいない。つい先日のことだ。
 指先が震えだすのを抑えるように拳を握って、翔は千尋を見やった。
 二つ年下の幼馴染みは、翔の動揺に小首を傾げて見せた。
 長い睫がパッチリと淵を飾った黒目がちの瞳。肩の位置で切った髪の毛先は少し癖があるため、顔を包んで小さな顔をさらに小さく見せる。
 小鳥のような愛らしさがありながら、目鼻立ちがすっきりと整っているので、完成された大人っぽさも感じる。
 日を追うごとに、亡くなった母親の面影をなぞる様に綺麗になっていく千尋を見つめて、翔は複雑な思いを胸に抱く。
(……あの男は……人間に見えなかった)
 ならば、あれは幽霊だったのではないだろうか。
(でも、幽霊なんてものが本当に実在するのなら……)
 何故、あの人は自分の前に現れないのだろうか? と、翔は思う。
 あの人を死なせてしまった自分の前に、彼女の幽霊が現れていいはずだ。
 恨みを吐かれて、呪われてもしょうがない罪を翔は自覚していた。
 それなのに、一度たりとも彼女の幽霊は自分の前に現れない。
「…………幽霊なんて、いるはずないよ」
 翔は千尋から視線をそらしながら言った。
 自分自身に言い聞かせるように、繰り返した。
「幽霊なんてそんなもの、いないよ」


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