星夜の願い 強くなりたいと、願う。 大切な人を守りたいから、助けたいから、この手に剣を握ることを心に決めた。尖った刃は、多くのものを傷つけるだろう。それでも、白刃の剣が自分の牙となり、爪となる。 己の手のひらが、血に汚れようと。また、己の肉が割かれ、骨を砕かれようと――立ち止まらない、迷わない。 守りたい人が、助けたい人たちがいるから――強くなろう。 叩きつけた 硬い ぎょろりとこちらを振り返って来る赤眼。高みから グエンの前に巨体をそびやかしている魔獣は実際、蛇と言ってよい形態をしていた。もっとも、胴まわりが樹齢千年を超えるような大樹の幹と変わらぬ太さであるならば、大蛇と呼ぶべきか。 元からこのように大きかったのか、それとも魔族特有の長命故にここまで大きく成長したのか、そんなことはグエンの感知するところではなかった。ただ、正攻法で攻めたところで、傷一つつけられない事実だけが、脳裏に刻まれ経験値となるのだろう。 冒険者にとって、実際に体験した戦闘経験が、知識になっていく。 グエンは今日、その第一歩を刻んだ。十を二つ超えて、ようやく剣の師匠であるガイナンはグエンが前線に立つことを許してくれた。まだ、表情には一抹の不安を浮かべていたが、グエンはガイナンに止められる前に、魔獣の前に飛び出していた。 緩んだ指先を握り直して、グエンは膝を折って重心を落とす。そうして、身体の内にあるバネを屈指して跳び上がる。 人並み外れた身体能力は、グエンを高みへと飛ばす。 振り上げた剣を落下の加速にのせて剣を再び叩きつけたが、硬い鱗は傷つくことを拒み、宙に浮いたグエンのバランスを崩した。 顎を引き、頭を抱え込んで、背中から落ちる。荒れた大地から顔を覗かせていた石が服越しにグエンの身体に突き刺さってくる。皮膚が擦られ、肉が抉られ、骨が砕けるような気がした。 一瞬、眩暈のように視界が歪む。熱い息が腹の奥からこみ上げ、肺を焼いて、喉を焦がした。悲鳴にならない悲鳴が、まだ少年と呼べる未発達の身体を駆け巡る。 『――グエンっ!』 既に耳馴染みになったガイナンの声が、遠くなりかけたグエンの意識を呼び戻す。 『大丈夫かっ?』 見開いた視界に火花が散る。 魔獣がグエンを叩き潰さんと、振り降ろしてきた尻尾は寸前のところで、ガイナンの幅広の大剣に阻まれていた。堅いモノがぶつかり合いしのぎを削って、火の花が咲いた。 『……ガイ……ナン』 グエンは痛む身体を起こしながら、師匠というべき彼の名を口にすれば、口内に錆びた鉄の味が広がった。 うまく受け身を取ったつもりだったが、突き出た石によって骨が折れたらしい。それが恐らく、内臓を傷つけたのだろう。 身体の内側が酷く熱い。熱した石を呑みこんだように、ぐつぐつと血が沸騰している。唇の端から、身体の内側に収まりきれなかった血が流れて、滴る。 肩越しに振り返ったガイナンが僅かに眉間に皺を寄せた。魔獣に向きなおりながら、背中で叫ぶ。 『下がってろ、グエン。お前にはやっぱり、まだ早いっ』 剣を傾けて、魔獣の尻尾が落とされる位置を強引に変える。均衡していた力のバランスが崩れると、幅広の剣の上を滑るように、魔獣の太い尻尾は大地に横たわった。 『そんなことはっ!』 まだ戦えると声を張り上げれば、口角から赤い唾が飛んだ。 魔獣が次の動きを見せる前に、グエンの胸倉をガイナンの大きな手が掴んで持ち上げる。巨漢の剣士の腕は、軽々とグエンの身体を持ち上げる。 『いいから、おとなしく見学していろっ!』 再度、襲ってくる尻尾から避けつつ、ガイナンは腰の低い緑木にグエンを放り投げた。 多い茂った緑の葉が、羽毛のクッションとは比べ物にならない硬さで、グエンの身体を受け止めた。張り出した小枝が針で刺すように、グエンの皮膚を突き刺す。 針で出来上がった服をまとったように、身体のあちらこちらでチクチクとした痛みが襲ってくるが、大地を振動させる衝撃を前にすれば、それは些細な痛みだろう。 先程までグエンが転がっていた位置に、巨木のような尻尾が大地を抉っていた。 魔獣の背後に回り込んだガイナンが、剣を大蛇の腹に叩きつけるが、断ち切ることはできない。それでも固い鎧の上からハンマーで殴りつけたような衝撃があったのだろう。常に定位置にあった赤眼の位置が僅かにぶれた。 ダメージを与えた――だが、その程度では魔族は倒せない。 グエンは唇を噛んで、身体を起こす。小枝が皮膚を裂いて、幾つもの傷を作る。 赤い線が日に焼けた肌に刻まれる。 血が顎を伝って、地面に黒く染み込む。 それでも――この程度で、死ねない。 グエンの身体に流れている血は、目の前の魔獣と同じだ。人であった頃とは違って、大抵の肉体的損傷は瞬時に癒してくれる。 背中を打ちつけた痛みも、 瞬く間に――癒す。 その呪われた血に絶望し、死を願っていた闇は遠い。 まだ空は暗く、希望は星の光に似て、とても小さいけれど――それでも光を知ったグエンは己の二本足で大地に立つ。 ――強くなるよ。 心の内側で、グエンは懐かしい面影に囁く。 絶望しか知らなかった少し前の自分に、強さと優しさと未来を教えてくれた人たち。 歩き出すグエンを見送ってくれた彼らを、共に歩んでくれることを選んでくれたガイナンを――そして、自分にも守れる力があることを教えてくれた小さな笑顔を。 そんな大切な人たちを守るために、強くなろうと願ったのだから、身体の内側に熱をもって訴えてくる痛みの 『――こっちを見ろよっ!』 グエンは声を張り上げた。上体を揺らしていた大蛇の赤眼が――グエンの姿を捉えると、赤い 『避けろ、グエンっ!』 ガイナンの声を聞いた瞬間、まだ大人になりきれていないグエンの肩に魔獣の牙が食い込む。生臭い息が押し寄せて、飲み込まれた片腕が熱い唾液にまみれる。右腕を包んだ手袋が裂かれ、皮膚に魔獣のざらついた舌を感じる。 骨が噛み砕かれ、腕が引き千切られる前に、グエンは一歩踏み込んだ。 牙が肉を裂いて、血が溢れ、指先が冷たくなる。それでも、剣を手放さずに魔獣の体内を抉る。 握った剣が魔獣の柔らかな体内を突き抜けて、固い鱗を内側から剥がす。 『――ガイナンっ!』 絶叫にも似た声で、グエンは合図する。 意を得たと了解するように、ガイナンの声が応えた。 『手を放せっ!』 ガンっ――と、金属を強大な力で打ち鳴らす音が響けば、魔獣が身を捩る。内側から貫いたグエンの剣に、ガイナンの剣が打ち込まれる。巨木に穿たれた楔のような役割をグエンの剣がはたして魔獣の身体が二つに裂かれる。 肩を噛まれたグエンは魔獣の動きに合わせて持ち上げられ、揺さぶられ、絶命の 大量の出血に、感覚の無くなった身体を落下に任せていれば、逞しい腕が地面に叩きつけられる前に拾い上げてくれた。 『大丈夫かっ?』 心配する声が鼓膜を打つ。痛みに痺れた身体を揺さぶって、グエンは顔をしかめながら笑った。 『大丈夫。腕は繋がっているから、さ』 筋が断たれ、骨が砕かれ、半分引き千切られたようにぶら下がっている右腕だか、グエンが傷の具合を確かめるために藍色の瞳を向ければ――細胞がうごめき、結着し、繋がって、傷を再生していく。 血が、肉が、意志を持っているかのように、元の形を再現していく。 本来なら、ひと月もふた月も掛って癒されるはずのものが、次の瞬間には治っている。 ガイナンの腕から降りて、地面に腰を下ろしたときには指の感覚は戻っていた。 『――心配するだけ、無駄なんだ。俺は直ぐに治るから……それこそ』 グエンは屍と化した魔獣の死体に目を向けた。ガイナンの剣が固い鱗に守られていた魔獣の心臓を潰していた。 『ああいう風に、心臓を潰さない限り、オレは死なないよ』 そういう身体になってしまった。その原因をガイナンは知っている。 そのことについて思考が 『だから気にしないで。俺のことなんて、心配しなくて』 ――いいから、と。 続けようとした瞬間、ガイナンの大きな手のひらがグエンの頭を叩いた。大きすぎる手のひらがパシンと叩きつけられた日には、グエンの膝はあっけなく砕かれた。 『馬鹿か、お前はっ!』 『なっ?』 『お前の肉体が人間の域を超えて、どんな怪我でも直ぐに癒してしまうとしてもだっ!』 仰天するグエンの耳をガイナンは引っ張る。膝立ちの姿勢から、強制的に立たされる。 強い力で耳たぶを抓られ、グエンは悲鳴を上げた。耳が顔から離れそうだ。 千切れてしまうっ! 『痛いっ!』 『痛くて当然だっ! お前も生きているんだ。どんなに身体が頑丈でも、どんなに怪我に強くても、痛いもんは痛いんだよ』 放り出されるように突き飛ばされ、グエンは地面に尻餅をついた。 『超人にでもなったつもりかっ? お前はまだガキだろうが。そのことを忘れるなっ!』 『……俺は』 『言い訳なんてするな。自分は簡単には死なないとか、くだらない御託を口にするなら、お前に二度と剣は握らせないぞ。生きているものはな、誰だって死ぬんだよ。だから、どんな生き物も牙を剥いて、歯向かって、生きようとするんだろうが。その牙を受け止めようなんてするんじゃねぇ、それは死にたい奴のすることだ』 ガイナンがぐっと顔を近づけてくる。真摯な瞳を前に、グエンは言い訳を呑みこんだ。 『グエン、お前が戦う理由は死ぬためか? 違うだろ?』 『…………違う、俺は』 守りたい人がいる、助けたい人たちがいるから――。 『なら、傷つこうとするな。自分自身でさえ、守れるくらいに強くなれ。一滴の血も流さなくていいように、強く。な?』 泣きだしそうになったグエンの漆黒の髪をぐしゃぐしゃと撫でて、ガイナンは『鋼鉄のガイナン様の弟子が、泣くんじゃない』と、快活な笑顔を見せた。 グエンは力強いその笑顔を見つめて、小さく頷いた。 ――強くなりたい。どんなときも笑っていられるように。 「グエンさん、見張りを代わります」 夜の静寂に少年の声は柔らかく響いた。夜空を眺めていたグエンは声に導かれるようにして、振り返る。 星屑をばらまいた空は月もないのに明るく、少年の愛くるしい花のような可憐な笑顔を白く照らした。一見すると、少女のように見える少年がれっきとした男であることに何度溜息をつきたくなったことか。 もったいないと思う表情が顔に出ないよう気をつけながら、グエン仲間の少年――ユウナに笑いかけた。 「もう交代の時間?」 「はい。何か、考え事ですか?」 周りの気配に聡いグエンだが、ユウナに声を掛けられるまで振り返らなかった。その事実に、ユウナが首を傾げる。 「空をね、見ていたんだ。流れ星に願い事を告げれば、叶うっていう話は聞いたことある?」 「どこの言い伝えですか?」 「どこだったかな。昔の仲間が話していたような気がするんだ……何だか、不意に昔のことを思い出してね」 そう呟いたグエンの視界の端で、僅かにユウナの表情が陰った。 グエンは過去をユウナに明かしてはいない。何かしら酷いことがあったと察するくらいには、通じているのだが、具体的に何があったかは告げていない。 多分、これからも告げることはないだろう。秘密は秘密のままに、グエンはこれからもユウナにだけは自分に流れる血を隠しておくつもりだ。 そのことについて、ユウナは追及することを止めていた。こちらの意を汲んでくれたわけだが、気軽に話せない過去に想像を巡らせれば、明るい方向へは辿り着けないだろう。 それでもユウナは場をとりなすように、声を出す。その優しい気配りに、グエンは胸の奥がじんわりと温かくなった。 良かったと思える。生きてきて、良かったと心の底から思える。 絶望の闇の中で、「死にたい」と叫んでいた自分が「生きていて良かった」と思えるようになった奇跡に感謝したい。 「流れ星は見つかりましたか? 何をお願いしたんですか」 「残念ながら、見つかっていないけど。願い事は昔から決まっているんだ――強くなりたい、ってね」 「グエンさんは今でも十分に強いと思いますよ?」 長い睫毛を瞬かせ、ユウナは驚いたように杏子色の瞳を見開いた。 確かに、昔に比べて強くなったと思う。二十歳を数えるグエンは冒険者たちの間にも名が知れ、「剣聖」の異名を頂くほどになった。 それでも、まだ自分の身体を盾にして、戦ってしまう自分がいた。 そのことは過去のガイナンのように、現在の仲間である白魔法師のサーラの怒りを買っているようだった。治癒能力を持ち、ときに命を預かる彼女は、簡単に自らの命を盾にするグエンが許せないのだろう。 自分の命を それでも仲間が窮地に陥ったとき、この肉体が最大の盾だと思えば、自らの血を流しても仲間を守りたいと、グエンは思うのだ。 きっと、命の重さは自分のものでも、他人のものでも変わらない。等しく、大事にすべきものなのだろう。 わかっていても、それでも想いは選んでしまう。 自分が傷ついても守りたいと想う人を――。 それが誰かを傷つけてしまうとわかっていても、この想いは変えられない。 ならば、強くなろう。もっともっと、強く。 一滴の血も流さずに、大切な人たちを守れるように――強く。 「それでも、もっと強くなりたいんだ。大切な人たちを守れるように、助けられるように」 凛と声を響かせたグエンに、ユウナもまた頷いた。 「僕も、強くなりたいです。グエンさんやサーラさんを守れるように――沢山の人を助けてあげられるように」 真摯な決意を秘めた声を可憐な唇から吐き出した瞬間、ユウナの背後に一筋の光が流れた。その光がなんであるか、頭が理解したとき、グエンは叫んでいた。 「ユウナちゃん、後ろっ!」 淡い茶色の髪を揺らしてユウナが振り向けば、星の残光は地平の彼方に消えていた。 間に合わなかっただろうか? できれば、ユウナには見せてあげたかったと思う。 純真な思いで、冒険者を志した少年の願いが叶うように――。 「……見えた?」 グエンが問いかければ、ユウナが笑顔で振り返った。 「――僕らの願い、叶いますよね?」 「叶えるよ。そうでしょ?」 グエンもまた笑顔を返して、断言した。 「はい。僕、強くなります」 絶望の闇の中に見出した希望の光は、星のように小さくて儚かったけれど――それでも今、幸せに導いてくれた光に、グエンは心の内側で誓った。 もっと、強くなろう。笑顔を絶やさずにいられるように――。 「星夜の願い 完」 |