― 20 ― 緑の草の上で、両膝を抱えて天空を仰ぐ。 風に流れる雲の動きを藍色の瞳で追いながら、大切な人を守るためには、何が必要なのだろうと、グエンは考える。 ジスタやカレナには魔法がある。ユウナも二人の魔力を受け継いで、その素質は保証されている。まだ四つの幼い子供だけれど、将来は末恐ろしい大魔法使いになりそうだな、と。ガイナンが感慨深げにこぼしていた。 魔力というものがどういう風に量られるのかは、よくわからないけれど。ユウナが冒険者になるだろうと、カレナが確信しているのは、ユウナにそれだけの力が備わっていることを見越してのことだろう。 ――では、自分は? グエンは視線を落として、自らの手を見つめる。 一つだけわかることは、自分には魔法の素質はないらしいこと。ならば、別の武器が必要になる。剣か、弓か。 ――ガイナンが帰ってきたら……剣の使い方を教えてもらおう。 グエンは拳を作りながら、決意する。 認めたくはないけれど、この身体は些細な魔力よりもずっと使える武器になる。 腕力も、脚力も、サルダに作り変えられたときから、死にたくても死ねなかった生命力も。 どんな傷も瞬時に治してしまう治癒力、人並外れた身体能力――これは、自分だけが持つことを許された武器なのだと自覚すれば、グエンの心は静かになった。 要らないと思った命だ。それならば、大切なものを守るための盾にしよう。 心が決まって、グエンは立ち上がる。家の中へと戻ろうと踵を返せば、ちょうど玄関からユウナが出てくるところだった。 『グエンお兄ちゃん』 トコトコと、歩み寄ってくるその姿にグエンは駆け出した。 まだ、ユウナに触れることを禁忌に思う自分がいる。だけど、傍に近づくことを許して欲しいと願う自分もいた。 『どうしたの、ユウナ』 一定の距離を置いて、グエンはユウナに問いかける。 『おひるごはんをたべようって、母さまが』 『ああ、うん。わかった――――――っ!』 頷いた瞬間、背筋に悪寒が走った。本能が危険を察知する。 肩越しに振り返った先に、大きな獣がいた。グエンは思わず我が目を疑った。その獣の姿を知っていた。サルダが飼っていた魔獣によく似ていたのだ。 ――何で、こんなところに? ジスタやガイナンが退治しに出かけた魔獣か、それとも違うもの? 混乱に頭の中が真っ白になる。それでも条件反射的に、グエンはユウナを抱きかかえた。汚すとか、穢れるとか、そんなことを言っている場合ではないことを本能が訴える。 獣臭い匂いが間近に迫ったと思った瞬間、肩に牙が食い込んだ。 骨が砕かれ、肉が引き千切られる。血管が切れ、溢れるように血が噴出す。点々と肌を打つ赤い雫の熱。身体から流れ落ちる血に熱を奪われ、指先が冷たくなる。 グエンはそれでも、腕の力を緩めなかった。さらに力を込めて、腕の中にユウナを抱きしめる。身体を丸めて、包み込む。 牙に引きずられ、地面で背中がこすられる。大地に転がる石が肉を打ち、服を裂いて、皮膚を擦る。じわりと広がる痛みをグエンは唇を噛んで、堪えた。 目を瞑っているのに、視界が痛みの刺激で赤く明滅する。 これは試練かと、思う。 ユウナを守りきれるか、否か。試そうかというように、牙が襲う。右足を噛まれた。ふくらはぎの肉が千切られる。 ――喰らいたければ、喰えばいい。 この肉も、血も。既に汚れてしまっている。こんな身体には、未練はない。 だけど、ユウナだけは守りきってみせる。 グエンは腕の中で泣きじゃくるユウナをより一層、強く抱きしめた。 『大丈夫だよ、何があっても守るから――』 自分に言い聞かせるように、囁く。 その声を掻き消すように、魔獣が咆える。薄く開けた視界に、赤く染まった牙が見えた。 こちらの頭を噛み砕こうというのだろうか? 頭を潰されたらこの身体も死ぬだろう。 でも――例え、死ぬのだとしても、ユウナを守れるのなら構わない。 覚悟を決めたグエンの頭上で、声が響いた。 『<紅蓮よ、我のために舞え、歌えっ!>』 熱風が頬を叩いた。やってくるはずの衝撃はなく、遠くから獣の呻き声と肉の焼ける匂いが届いた。 地面に肩をついて、グエンは首を巡らせた。肩や足の傷は塞がりかけていたが、痛みの残滓が身体を縛る。 目だけを動かして、グエンは状況把握に努めた。緑の野原の中央に、赤い火柱が立っていた。その中央で悶える影。 『<燃やし尽くせ、喰らい尽くせっ!>』 呪文を唱えるその声に後押しされるように、炎は勢いを増す。魔獣を飲み込んで、焼かれる黒い影は縮まる。 魔法で攻撃しても、魔族の魔力に取り込まれて、最終的に命を奪うことは出来ないと聞いていた。 魔族が持つ膨大な魔力を凌駕するなんて、人間の能力値を考えれば無理なこと。幾ら、カレナの魔力が優れていたとしても、魔力だけで魔族に勝てるはずはない。 だが――、グエンの目の前でカレナの炎は魔獣を焼き尽くそうとしていた。 桁外れの魔力を注ぎ込まれた炎は、空を赤く染めるように爆ぜる。その魔力が、カレナが勇者と呼ばれる要因なのだろうか? 炎に煽られた風に、スカートの裾をはためかせながら、カレナは魔獣に近づく。その手には銀の刃が握られていた。 『――私の目の前で、よくもユウナを泣かせたなっ! グエンを傷つけたなっ!』 炎を断ち切るように銀の刃が閃き、黒く焼かれて小さく縮れた魔獣の首が飛ぶ。抵抗していた最後の生命線が断ち切られ、魔獣の身体は呆気なく焔に巻かれて灰になる。 『その身でもって、罪を贖えっ!』 怒りを宿した声が響き渡り、弾かれるように、炎は四散した。 一変して、世界を彩る色彩が変わる。抜けるような青。清々しい緑。眩しいまでの陽の白。 そして、 『……あ』 こちらを振り返る橙色の瞳を前に息を吐き出した瞬間、グエンの意識は目眩と共に暗闇に沈んだ。 どれだけの時間、意識を失っていたのはわからない。 だけど、大分長い時間だっただろう。額に触れたざらついた手のひらの感触でグエンが目覚めたとき、そこには心配そうに顔を寄せるガイナンの姿があったから。 『……ガイ……ナン?』 目を瞬かせて、グエンは問う。これは現か、幻か。 『気がついたか。何が起こったか、わかっているか?』 意識の混乱がないかを確かめるように、ガイナンが問い質すのを耳にして、グエンは直ぐに魔獣のことを思い出し、上体を起こした。 あの時、身体を支配していた痛みは完全に消え去り、肩も足も自由に動いた。 本当に、綺麗なまでに肉体は元に戻っている。ただ一つ、右腕に残された古傷が、グエンが人間だった頃の証として残っている以外は。 『……魔獣が……』 喉がカラカラに渇いていた。吐き出した声はかすれ、ひび割れていた。 ガイナンが脇のテーブルに置いてあった水差しを傾けて、コップに水を注いだ。差し出されたそれを受け取って、グエンは一気に喉へと流し込んだ。 『魔獣は、奥さんが片付けた。もう心配ない』 『ユウナは?』 『お前が守ったから、傷一つ付いていない』 『……良かった』 ホッと、安堵の呟きが漏れた。自覚する前に、涙がこぼれた。 ――ユウナを守れた。この汚れた身体でも、守れた。 『よく、がんばったな』 ガイナンの腕がグエンの頭を抱え込んだ。 鍛え上げられた胸板に抱き寄せられる。とくとくと流れる血流と鼓動。生きていると実感するその音に耳を澄ませ、胸にしがみ付いて、グエンはすすり泣きながら訴えた。 『……俺、冒険者になる。ユウナを守りたい。ジスタやカレナや、ガイナンの助けになりたいんだ――』 『それが、お前が選んだ生きる道か?』 『……うん』 涙を拭いながら、グエンは頷いた。 この命は、大切な人たちのために使おう。決して、無駄死にはしない、と決意に瞳を上げた――その時、鼓膜を破らんばかりに激しい号泣が耳に割り込んできた。 『――何?』 目を瞬かせるグエンの前で、ガイナンが困ったような表情を見せた。 『……坊ちゃんだよ。血塗れのお前を見て、相当ショックを受けたらしい。時々、火がついたようにお前を助けてって、泣き出す』 『――俺を?』 『ジスタと奥さんが、大丈夫だって言い聞かせているんだけどな。記憶が混乱しているらしい』 グエンは横になっていた寝台から飛び降りた。部屋を仕切る布を払って、声が聞こえる方へと裸足で走る。ジスタたち夫婦の部屋から、泣き声が響く。 『――お兄ちゃん、お兄ちゃんを助けてっ!』 嗚咽の狭間に叫び声。それを宥めるように、ジスタの声が重なる。 『大丈夫だよ、ユウナ。グエン君は無事だから』 部屋を覗けば、顔を涙に濡らして、髪を振り乱すユウナがいた。小さい手を何かを求めるようにバタつかせる。暴れるユウナを押さえつけるように胸に抱いて、ジスタは繰り返す。 『大丈夫だから、ユウナ』 『お兄ちゃんっ! いやぁ、いやぁ! お兄ちゃんっ!』 虚空に伸ばされる手を、グエンは掴んだ。 『――ユウナっ!』 グエンの声に杏色の瞳がこちらを見返してきた。丸い目はゆっくりと瞬きして、グエンの姿をその視界に納める。 『お兄ちゃんっ!』 ユウナの瞳からまた大量の涙が溢れ出す。小さな身体にこれだけの水分が収まっていたのかと驚くほどに、涙は次から次へと大粒の真珠を作り、頬を転がっていく。 よっぽど、怖かったのだろう。 グエンはユウナの手を握り締めながら、囁いた。 『大丈夫だよ、ユウナ。俺は怪我なんてしていない。何も――何もなかったんだ』 ユウナの瞳を覗きこんで、グエンは告げた。 その肩を部屋の片隅で見守っていたカレナの手が掴んだ。ギュッと食い込む指の力に、グエンは驚きながらカレナを振り返った。 『――止めろ、グエン。今のユウナにそんなことを言ったら』 混乱している意識に間違った方向性を与えてしまったら、何が正しい記憶なのか、ユウナにはわからなくなってしまう。最悪、一連の出来事を忘れてしまう可能性もある――そう語るカレナの言葉を聞いて、グエンはユウナに視線を戻して声を張り上げた。 『――何も怖いことなんてなかった。ユウナ、怖いことは忘れるんだっ!』 それは一種の暗示。 何も悩まなくていい。 俺のために泣かなくていい。 俺のことを忘れても構わない。 『――忘れるんだ』 グエンはユウナの瞳を見据えて強く言い聞かせた。こちらの決意を察してくれたのか、カレナもジスタも口を挟まないでいてくれた。 静まり返った室内に、グエンの声だけが切に響く。 『忘れていいんだ、ユウナ。怖かったことは、全部。忘れて――』 ……また、笑って? 花を咲かせるように、可憐に。 その笑顔に俺は救われるから。 生きていけるから。 『――忘れるんだ、ユウナ』 * * * ――過去を聞いてもいいか? というユウナの問いかけの前に、グエンの藍色の瞳は星明りの下で揺れた。 やっぱり、それは触れてはいけない問題だったのだろうかと、ユウナは不安になった。 「……あ」 小さな呟きがグエンの唇から漏れ、僅かな沈黙の後、首が横に振られた。漆黒の髪がサラサラと額の上で揺れる。 「――ユウナちゃん、それは言えない」 グエンの声は厳粛な響きを持っていた。 その声を聞いて、ユウナは拒絶されたショックよりも、グエンの秘めた決意に目を見開いた。 「あのね、過去を話さないこと、これは俺の誇りなんだ」 グエンがそっと微笑んだ。真っ直ぐにこちらを見つめる藍色の瞳の奥は澄んでいて、嘘偽りなんて感じさせなかった。 「――誇り?」 「そう。昔、俺は死にたいと思うことがあった。殺してくれと願う日があった」 死という単語に、ユウナは心が引きつるような痛みを覚えた。人が死ぬということを、目の当たりにした今、その言葉は重い。 それはグエンも同じだろう。だけど、彼は穏やかな笑みを崩すことなく言った。 「――だけど、俺は生きていて良かったと思っている」 「グエンさん」 「ねぇ、ユウナちゃん。そんな俺じゃあ、頼りない? 過去を口にしなきゃ、俺が過去を乗り越えたことの証明にはならないかな? 信用出来ないかな?」 何も明かさないことを、ズルイと思うか? と、藍色の瞳は問いかけていた。 敢えて、何も語らずに一人で背負うこと。 ジェンナの生き方を振り返れば、その過酷な道程にユウナの背筋は冷える。 誰にも頼らずに、泣き言も言わずに――そんな生き方はユウナには出来そうにない。優しい人たちに支えられて、ようやく立っているようなそんな自分には、辛く重過ぎる。 だけど、グエンはそれを選んで――乗り越えた。 それがこの人の誇りなのだと思えば、ユウナは泣きたいくらい嬉しくなった。 (――グエンさんが、強い人で良かった) 生きることを諦めないでいてくれて、良かった。 辛い過去に立ち向かい、生きてくれた――だからこそ、こうして出会えた。それがとてつもなく嬉しい。 それをどう伝えればいいのか、ユウナにはわからなかった。 生きてくれて、ありがとう、と。言いたかったけれど、言葉にすれば、彼が生きた人生が酷く短縮されそうだ。 ただ、グエンが優しく笑ってくれるから、ユウナも笑みを返した。 それで全てが通じた気がした。 「行こうか?」 グエンが頬を傾けて、問う。背中を向けて歩き出すその後を、ユウナはサーラと共に迷わずに追いかけた。 「はいっ!」 頼りになる背中。繋いだ手の優しい温もり。 グエンを一人で戦わせたりしない。サーラをディアに奪われるわけにはいかない。 僕は大切な人たちを守るために戦うから。歩き出そう。 (……さようなら、ジェンナさん) ユウナはジェンナの墓標に心の中で別れを告げた。 * * * 夜空のカーテンを捲るように、東の空が白んでいた。 一年前に、暗闇の底から見つけた光をグエンは思い出す。あの日から今日までは、長かったようで短かったようで。 だけど、これからどれだけの時間を重ね費やしても、ここで過ごした記憶は鮮明に残るだろうと、グエンは確信する。 例え、ユウナが俺のことを忘れてしまっても……俺はユウナを忘れないから。何一つとして、忘れないから。 グエンは、天が明けて行くさまを記憶に刻み込む。 ここから、新しい自分が始まる。 闇に絶望していた自分ではなく、これからの未来へ歩いていく最初の一歩。 『――もう、行くね』 グエンはこちらを心配そうに見つめるジスタとカレナに笑いかけた。 不安で押しつぶされそうな自分に、笑うことで不安を払拭することをこの二人は教えてくれた。それを実践して、返す。 『また、会おうね。グエン君』 『次に会うときは、とびっきりのいい男に育っていろよ』 果たせない約束はしない主義のジスタと、安易な約束を嫌うカレナが口にした言葉に、グエンは白い歯をこぼす。 『――うん』 一つ頷いて、背中を向ける。離れた場所でこちらを待っているガイナンの元へと、歩き出す。そこまでの距離はただ一人。 寂しさに涙がこぼれそうになるけれど、グイッと顎を上に向けて、堪えた。 ――また会える。 生きていれば、きっと。 その約束を糧に、強くなる。強くなろう。 だって俺には、守りたい人が、助けたい人がいるのだから。 「天明の記憶 完」 |