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 迷子の勇者・前編


 さらりと肩を撫でる蜂蜜色の金髪を指で払って、ルセニアは耳を済ませた。
 天上を覆う緑の木の葉。それを揺らす風の囁き、梢のざわめきに混じって、何やら聞こえてくるのは、

「……さい……」

 ――人の声か。
 ルセニアが居を置くバゼルダ村は、東の大陸の辺境に位置し、村へと通じる道は獣道などが入り組んだ複数の道の中で、ただ一本。その道だけが、広大な森を通り抜けられる。
 故に、村人は森の勝手を知っていて、迷えば命に関わることを幼い頃から学んでいた。
 現在、そのただ一本の道を外れ、森を歩き回っているルセニアの耳に声が届くということは――迷い人か。
 ルセニアは、端整な顔立ちの眉間に険しい皺を寄せた。声がする方へ足を向けながら、腰に装備した弓を手にする。矢筒から一本引き抜いて、弦に番えながら下草を踏み敷く足元に気を配る。
 音を立てないように、ソロリとした足運びに変えて、ルセニアは緋色の瞳を左右に走らせた。
 声がする方へ距離を縮めながら、ルセニアはふと思い出す。
 迷い人と言えば、数ヶ月前に森で迷っていた冒険者たち。まだ年若い三人は、バゼルダ村に魔族がいるという情報を耳にして、こちらに来る途中、森の中で迷っていた。
 黒髪の剣士グエンに、白銀髪の白魔法師サーラ、茶髪の黒魔法師ユウナ。三人それぞれ、見目鮮やかな容貌で、その存在はルセニアに強烈な印象を残していった。
 面影の印象だけではなく、バゼルダ村のそのものも、三人によって変えられた。
 彼らが村に君臨していた魔族を倒した――建前上、そういうことになっている――おかげで、村の呪縛は解かれ、村人たちの表情から曇りが取れた。
 それが喜ばしい反面、自分の中に流れる血の秘密を知ってしまったルセニアには、人と魔族との間にある断崖の深さに、気持ちが暗く沈むのだが。
「……助けてくださいです」
 耳に入り込んでくる声が、言葉を形成した。
 ルセニアは睫の下で、緋色の視線を持ち上げる。顔立ちは、父フラン譲りであるが、蜂蜜色の金髪と緋色の瞳は、母のカネリアから受け継いだ色だった。
 耳をくすぐる音は幼さを残した少年の声で、どこか甘えるような響きがあった。十数歳と推測する。
 声に導かれるまま、ルセニアは歩みを進めて気づいた。
 ――この先は。
 小さなバゼルダ村での収入源はそう多くない。だから、森は狩場として、村を支えていた。森のあちらこちらでは、獣への罠が仕掛けられている。
 その目印として、ルセニアが足を向ける先の手前には立て看板があった。
 木材には大きく『この先に罠がある』と印されており、当然獣には文字が読めないから、これは狩人が立てた人間用の注意勧告である。
 ルセニアは弓を腰へと戻し、代わりに短剣を手にした。
 そして、低い木々の垣根を越えれば、開けた場所に宙から逆さ吊りになっている少年を見つけた。
 少年の年の頃は、先のユウナと同じぐらいだろうか? あの大人しい少年と比べれば、こちらは随分と騒々しい故に、背格好と精神年齢が吊り合っていないように見える。
「助けてくださいです」
 少年は、ルセニアの姿を目に留めると、グルリと肩を回して両腕を振り回した。
 枯れ葉色の髪の少年の、緑の瞳は涙で潤んでは、こぼれた雫はこめかみへと――逆さ吊りなので――流れていく。
「頭に血が上って――ああ、間違えましたっ、血が下りてっ――クラクラですっ。助けてくださいですっ」
 喚くその反動で、少年をぶら下げている綱が揺れ、右へ左へと少年の身体は振り子のように動く。
「うわわわわっ! 揺れるです! 頭ぐらぐらですっ!」
 悲鳴なのだろうが――どうにもはしゃいでいる様に聞こえてしょうがない声音で、少年は助けを求めていた。
 ルセニアは一瞬、呆気にとられたが、我に返った。
 少年の腕を掴んで、振り子運動を制止する。右腕を一閃させて、白刃の短剣で綱を切ると、落ちてくる少年の身体を左腕一本で受け止めた。
 痩身の体躯に似合わない腕力は、ルセニアの身体に半分流れる魔族の血の恩恵か。
 三人の冒険者たち――ユウナたち一行――との出会いによって明らかになった、己の血に隠された秘密はルセニアを驚愕させた。だが、この身に潜む能力を磨こうと前向きに考えている。それはきっと、大切な者たちを守る切り札になるはずだ。
「大丈夫か?」
 少年の身体を地上へ下ろせば、彼は突如として、その場で上下に飛び跳ね始めた。
「――な、何を?」
 思わず問いかければ、少年は兎のように両足を揃えて、ぴょんとルセニアの前に着地した。
「頭に下りた血を――あれ、普通に立ったら、頭に上った?」
 両腕を組むと、少年はうーんと唸りだす。
 ……何だ、この子は? ルセニアは戸惑いに目を瞬かせる。そんな彼の眼前で、少年は枯れ葉色の髪を掻き乱して、叫ぶ。
「ああ、どっちか、わからなくなったですっ!」
「……どちらでも良いと思うが。その、さっきは何をしていたんだ?」
 少年の謎の行動が、妙に気になった。あれは、何かの踊りだろうか?
 辺境に住んでいるルセニアは、この地以外の世界を知らない。もしかしたら、少年の今しがたの妖しい動きは、少年が住む地方の挨拶の仕方だとか?
 そんな考えを巡らせれば、少年が答えた。
「はい? ああっ! 頭に上った血を下ろしていたんです」
 ――踊りではなかったようだ。
 と、少年はまた足を揃えて上下に飛び跳ねる。
 ……そんなことで、血が下りるのか? 逆に、身体に悪そうだが。
 そう、ルセニアが困惑していると、少年が突如として胸元を抑えて、蹲った。
「ど、どうしたっ?」
 焦って問いかければ、少年もまた緊迫した面持ちで訴えってくる。
「心臓がバクバクしているです」
「…………まあ、激しい運動をしていれば……」
 軽い頭痛をルセニアは自覚したが、その原因は気づかないでいよう。
 コホンと、本来の自分を取り戻すべく、咳払いをして間をおいた。
「……それで君は……ええっと?」
「ベルナールです。助けてくださってありがとうございます、命の恩人さん様」
 一つ、敬称が余計ではないか? と、ルセニアは思いながら、ベルナールという少年の微妙にズレた感覚に頬を引きつらせた。
 何だか、厄介なものを拾ってしまった気がするのは、気のせいか?
 第六感が変わり合いになるべきではないと、警鐘を鳴らしているのだが……ここに放置するわけにもいかないだろうと、良識がルセニアを動かし、口を開かせた。
「私は――ルセニアだ」
 そう名乗れば、少年は緑の瞳をキラキラと輝かせた。
「ルセニア命の恩人さん様ですかっ!」
「……いや、ルセニアと呼んでくれ」
「それは駄目ですっ! ジイちゃんが、命の恩人さん様には敬意を示すように遺言を残しています」
「……そうか。それはさぞかし、立派なご祖父殿であったのだな」
「ちなみにジイちゃんは周りから、道楽ジジイと呼ばれていました。後、クソジジイとか、強欲ジジイとか」
「生前がどうだったのであれ、故人を愚弄するのは感心しない」
 眉をひそめて諌めるルセニアを前に、ベルナールはきょとんと目を丸くした。
「ジイちゃんはまだ、死んでないです」
「なら、遺言ではないだろう?」
「でも死んだら、何も言えないです」
 ……その通りではある。
 しかして、ベルナールが語る祖父像と「命の恩人」云々の遺言が繋がらないように思うのだが。そのことを口にすれば、ベルナールが雄弁に語ってくれた。
「ジイちゃんは全く見ず知らずの他人を助けようとする人間は、馬鹿がつくお人好しだから、おだててご機嫌を損ねないようにして、使える分使い倒せって言いましたです。腹が空いたときとか、金に困ったときはきっと助けてくれるからって」
 ――さっさと、くたばれ。強欲ジジイっ!
 そんな声がどこからともなく聞こえてきた気がした。……気のせいだろう。
「君は、クソジジイの――もとい、ご祖父殿の言葉を実践しようというわけか?」
 思わず本音が唇からこぼれたのは、ご愛嬌ということにして欲しい。
 ルセニアが二度目の咳払いをして、ベルナールに真意を問えば、
「お腹が空いたので、助けてくださいです、ルセニア命の恩人さん様」
 少年は両手のひらを組んで、緑色の瞳でこちらを見上げてくる。縋るような瞳には他意などないように感じられた。
 少なくとも、このベルナール少年に関しては、祖父の言葉に従おうという気はないのだろう――命の恩人を利用しろなどというそれは、十分に、命の恩人のご機嫌を損ねるに値するのだから。
 祖父の言葉をそのまま口にしたベルナールは、きっと、ルセニアの問いに正直に答えた素直な少年なのだ――恐らく。
 そう信じた方が精神衛生上、健全だろう、とルセニアは思う。
 この掴みどころが今ひとつわかりかねる少年の腹の底を探っていては、精神が疲弊しそうだ――今でも、疲れがルセニアの華奢な肩に圧し掛かってきているのだから。
「……私の家に行こうか。……大したおもてなしは出来ないが」
「大丈夫です。お腹一杯に食べられるのならっ、味には拘りませんです!」
 どうやら、腹一杯食べる気満々のようだ。
 ベルナールに遠慮というものを学ばせてやりたい、と。
 ルセニアは緋色の瞳を遠くに投げて、十六歳にして周りの人間を立てていたユウナの姿を懐かしく思い返していれば、
「お腹空いたですっ」
 人の気持ちなど、まるっきり関知してくれる気配のない、無遠慮な声が耳をつんざく。
 ――助けるのではなかった、と。
 ルセニアの頭の中に流星の如く、非人道的な考えが過ぎったことは……内緒にしておいて欲しい。


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