トップへ  本棚へ







 第一部 憧れの果て
 君の幸せ……それこそが僕の幸い。


 1,ブルーバードの冒険


『怪盗ブルーバードの大冒険』

                    ギバリー・ブレイズ 著
                    ディアーナ・アリシア 画

 第百二十二話


「放せっ!」
 そう叫んで、マリアは腕を突っ張った。予想に反して、彼女の身体を束縛していた彼はすんなりと離れた。
「……っ!」
 少し驚きながらも一歩下がって彼の様子を伺うと、シャツの左肩の部分に黒い染みが浮きあがっていた。力なく垂れ下がった左腕。軽く握った拳から滴り落ちるのは、鮮血。
 その流血は、床板に血溜まりを作る。
 逃げ込んだ先の部屋の中、窓から差し込む月明かりだけが唯一の光明だった。青白い薄い光は、赤いはずの血溜まりを黒く底のない深淵の入り口のように見せた。
「なっ! ブルーバード、貴様っ怪我を? 大丈夫なのかっ?」
 大きく目を見張るマリアに、ブルーバードは唇の端を持ち上げた。
「自分をさらった相手の心配をするのかい? 警察隊長さんは」
 ブルーバードの言葉にマリアはぐっと詰まる。
 顔の半分を仮面で隠した目の前の男は、泥棒だ。
 ブルーバードと名乗り、最近王都を中心に盗みを働いている。
 それもあくどい評判ばかりが目立つ貴族ばかりを狙っていて、庶民の間ではブルーバードは義賊として人気を博していた。
 その彼は、盗みに入った現場で待ち伏せしていたマリア率いる警察隊によって返り討ちにあっていた。怪我は自業自得だったし、逃げ道を確保するために、彼がマリアを人質に取った手段からしても、同情する余地はない。
 そのはずなのに。
 仮面の下に見える濃紺色の瞳が、あまりにも澄んでいたからマリアは問い質していた。
「ブルーバード、貴様は本当に悪なのか?」
「その前に聞きたい。隊長さん、今のこの国で、正義は正義か?」
「…………」
 ブルーバードの問いかけを前に、マリアは言葉を見失う。
 一部貴族の圧制の下、民衆は苦しんでいる。その現状からみれば、マリアは正義を貫くはずの自分の存在に疑いを持ってしまう。
 ブルーバードのやろうとしていること、そちらが正義ではないかと。
 彼が手に染めた手段は犯罪であったし、例え貴族たちの傀儡であっても、マリアの主君は現王なのだ。
 先の国王が病に倒れ――毒殺されたという噂がもっぱら囁かれるが――回復せずに、急逝して、王位を継いだビリジアス王子。彼の無能ぶりは宮廷から遠いマリアの耳にも入ってくる。
 ブルーバードは、そんな彼の王の治世を――庶民にしてみれば、今の世には唾を吐きたいところだろう。マリア自身、今の世は腐っていると思うが――揺るがし、その地位を危うくする。
 警察隊長としては、そんなブルーバードを、認めることなどあってはならない。
 なのに、ブルーバードに近づけば近づくほど、揺らぐ自分がいる。
 正義に生きること、それを誓いにしていたマリアの心を、ブルーバードが揺さぶるのだ。
「……貴様は、何故、そこまでして……」
「隊長さん、青い鳥の伝説を知ってるかい」
 ブルーバードは、肩の傷口を気にしながら、横目でマリアに尋ねてきた。
「青い……一生に一度しか鳴かないという、伝説の鳥か? その声を聴いた者は幸運に恵まれるという」
「そう。じゃあ、ブルーバードが、古代語で青い鳥と同じ意味だということは?」
 見つめてくるブルーバードの視線に、マリアは首を振った。
 古代語なんて、既に廃れた言語だ。今や誰も学ぶ者すらいない。
 いや、そういえば犯罪者たちが暗号として、その言語を使用すると聞いたことがあった。
 泥棒であるブルーバードが古代語に精通しているのは、不思議ではないということか。
「ブルーバードが鳴くのは、ただ一人の幸福を願うときだよ」
 ポツリと呟くように、彼は言った。
「……ただ一人というのは、あの少年か?」
 静かに問いかけたマリアに、ブルーバードが近づいてきた。
「もう少し早く出会えていたら、俺は隊長さんのために鳴けたかもね」
「えっ?」
 間近に迫ったブルーバードの顔を見上げようとした瞬間、腰を抱かれて引き寄せられた。
 マリアが抗うよりも素早く、彼は彼女の唇を自らの唇でもって塞いだ。
「――――っ!」
 何十秒にもわたる長い口付けに、口移しに流れ込んでくるものをマリアが嚥下した。唇は離れたが、ブルーバードはマリアを胸に抱いていた。
「はっ、離れろっ!」
「隊長さん、警察の命令を聞く泥棒はいないよ?」
 含み笑いで応えるブルーバードを睨み上げたマリアは、
「きっ、きさ……まっ……?」
 舌が回らないことに目を丸くする。やがて身体から力が抜けて立っていられなくなった。包囲を解いたブルーバードの支えを失い、マリアは膝が崩れて、床に両手を着いた。
「……ど……」
 毒か? と、問いかけようとした声は声にならない。
「毒じゃない。眠り薬だよ。胃に入って溶けると即効性を発揮する。もうちょっと、隊長さんを抱いていたかったけど……」
 先ほどの抱擁は、どうやら時間稼ぎだったらしい。朦朧とし始める意識で、マリアはそれを認識した。
 胸が苦しいのは、薬の影響か?
 ――それとも。
「……悪いね、俺は行かなくちゃ」
 上体を支えられずに肩から床に倒れこむマリアの頭上で、ブルーバードの声が聞こえた。
「もう少しで全てが終わる。終ったら、隊長さんに捕まってもいい。だからそれまでは、俺を飛ばせてくれ」
 その声を切ないと感じながら、マリアの意識は、眠りの闇に閉ざされた。

                                   続く


                  * * *


「いやー、お待たせしてすみません」
 ギバリー・ブレイズは、年季が入って草臥れた感じのする応接セットのソファに腰掛けた女性に呼びかけた。
 なにやら考えるように俯いていた女性は、おっとりと顔を上げた。
 ゆるく波打ちながら胸元へと流れる蜂蜜色の金髪。長い睫に縁取られたアイビーグリーンの瞳。
 睫の影を映すほどに大きく円らな瞳。丸い目元の印象から柔らかさを感じさせる面差しの、立ち上がったところでギバリーの胸元にも届かないような小柄な美人は、小首を傾げる小鳥のような仕草で微笑んだ。
 可憐な花を思わせるその微笑。穏やかな声音。
「わたくしのことでしたら大丈夫ですから、お気になさらないでください」
「そうですか? そう言ってくださると助かります……はわっ」
 ギバリーは恐縮しつつ、こみ上げてきた眠気とあくびを慌てて噛み殺した。
 あらあら、と。軽やかな声で女性は笑って、ギバリーを見上げてきた。
「眠そうですわね。睡眠はちゃんととっていらっしゃいますか? 睡眠不足は美容には悪いのですよ」
「いや、美容は男の俺には関係ないですよ」
 カラリと笑って、唇の端から白い歯を覗かせるとギバリーは、「少し原稿が遅れていて、ちょっと夜更かししたんです」と言い訳しながら、向かいのソファに腰掛ける。
 長身の身体を沈めれば、ギシリと家具が軋んだ。
「ディアーナさんは、ちゃんと睡眠とっていますか? 締め切りが迫っているからって、夜更かしなんてしないでくださいよ。こちらが無茶な仕事を頼んでいるんですから、別に落としてくれても良いんですよ」
「ご心配なさらずに。夜は十時に寝て睡眠は十分に取っています。いつ、何時、どのような偶然で、あのお方とお会いするのかわかりませんもの。どういう場合にお会いしても良いように、美容と健康には万全の対策をとっていますわ。それにこちらのお仕事はわたくし、喜んでやらせて頂いているのですから、お気になさらないでください」
「はい。お言葉に甘えさせてもらいます」
 ギバリーはそう言って、ディアーナに頷き返した。
 面と向かうと不思議になってしまうのは、成り行きだったとはいえ、中流階級位に属する貴族の令嬢であるディアーナが、こんな古ぼけた新聞社の一室で、しがない新聞記者の自分と向かい合っている現実だった。
 一般市民と貴族令嬢。この身分の差は、ハッキリ言って大きいはずだった。しかし、何事もないような顔でディアーナは手にしていた封書をギバリーへと差し出してきた。
「これは先日、頼まれましたものですわ」
 令嬢から渡された封書の中にあったのは、インクで描かれた数枚のペン画である。その絵は、男のギバリーが見てもハッとするような美貌の男性が描かれていた。
「ああ、相変わらず、スッゴイ美形だな」
 絵だとわかっていても、現実的にため息を吐いてしまうのは、実際にこの絵のモデルを知っているからだ。そのモデルの美貌をそのままの雰囲気でこちら側に伝えてきている。
 タッチはリアルなのに、雰囲気は幻想的な画風。彼女の絵にファンが多いのはモデルになっている人物もそうだが、彼女の技量もあるだろう。
「それでは、次の絵を描きますのに、原稿を頂けますか?」
「ああ、はい。これが再来週分の原稿です」
 ギバリーが差し出した原稿をディアーナは丁重な手つきで受け取った。
「このお仕事をお引き受けして一番良かったことは、他の読者よりも先にブルーバードの続きが読めることですわね」
 彼女は唇をほころばせながら、この場で原稿の束を広げて読み始めた。
 アイビーグリーンの瞳は、タイプライターで打ち出された文字を熱心に追い始める。
 ディアーナが読み進めているその原稿は、ギバリーが自社の新聞で連載している小説だ。
『怪盗ブルーバードの冒険』という、架空の王国で義賊として活躍する泥棒の話だ。
 ゴシップ記事が中心で限られた読者しかいなかったクーペ新聞は、この連載小説が掲載されるようになってから、徐々に購買層を広げていった。
 その大きな要因は美麗な挿絵にあるとギバリーは思っている。
 素人が書いた小説を、本気で楽しんでいる人間がどれだけいるのか? と。
 ブルーバードの肖像のモデルになっているのは、宮廷騎士団黒色部隊の隊長ルシア・サランという青年だ。
 彼の類まれなる美貌は若い女性たちを虜にし、そんな彼の魅力をそのまま絵にしたディアーナ嬢の挿絵は彼のファンの話題に上り、一般階層の女性たちだけではなく、今では貴族階級の令嬢たちにまで、クーペ社の新聞を手にとらせることになった。
 おかげで、新聞の売り上げは倍の倍。上機嫌の編集長からは特別報酬を貰ってギバリーの懐もかなり暖かくなった。
 しばらくして原稿を読み終えたディアーナが顔を上げた。
「――ステキ」
 うっとりとした、どこか艶めいた声を彼女は吐き出す。
 アイビーグリーンの瞳は、夢を見ているかのように潤んでいる。微かに上気した頬を片手で押さえ、感嘆の吐息が唇からこぼれた。
「そうですか?」
 読者の反応が、売り上げ部数でしかわからないギバリーにとって、ディアーナのこういった声を聞くのは貴重だった。
 やはり書いた本人としては、面白かったか、否か、評判が気になる。
「ええ、いよいよ大詰めですわね。ブルーバードと警察隊長マリアとの恋はどうなるのかしら? わたくしとしましては、ハッピーエンドを望んでいるのですけれど」
「そうですね。ただ、ハッピーエンドを迎えてしまうと、続きを書きにくいんですよ」
「続きをお書きになられるのですか?」
 ディアーナが胸に原稿の束を抱きしめて、身を乗り出してくる。ギバリーは微かに笑って頷いた。
「編集長から言われましてね。ただ、今までの続きとして書くのはちょっと設定がアレなんですよ。ほら、ブルーバードが泥棒を始めた目的っていうのが……」
「幼なじみのアステルを玉座に座らせる為に――でしたわね」
 神妙な顔つきで、ディアーナが確認すれば、ギバリーもまた頷いた。
「そうなんです。同じスラム街でブルーバートと一緒に育った幼なじみは、ある貴族たちの陰謀から、別の子供と取り違えられた正当な王位継承者だった。貴族たちはその幼なじみのアステルは、死んだものだと思っていたわけなんですけど、彼が生きているのがわかって、慌ててアステルを殺そうとする。アステルの命を守る為には、彼を国王として皆に認めさせるしかないと、ブルーバードは泥棒を始め、貴族の屋敷からその当時の証拠や、または不正の証を盗み出していくわけです」
「来週はいよいよ、アステルの王位継承式が行われるのでしたね」
 ディアーナには、継承式を影から見守るブルーバードを、挿絵として描いて貰っている。
「はい。もちろん、貴族たちの妨害があるんですけど、ブルーバードの活躍で難を乗り切り、貴族たちの圧制にあえいでいた民衆はアステルの王位継承を喜ぶ。……これがメインストーリーの見せ場で、この後、ブルーバード的にも泥棒を続ける理由がない……むしろ続けられない」
「どうして、ですか?」
「裁く側の立場に幼なじみが立ってしまったからです。今までのように泥棒を続けるということはアステルの治世を脅かすということになるわけです」
「まあ」
 ディアーナは驚いたように口を丸く開けた。
「だから、ブルーバードの物語はここで終わるんですけど、編集長からの要望で続きを書くとなれば、新しい舞台を用意してあげなきゃなりません」
「今のままでは駄目なのですか?」
「ブルーバードが泥棒を始めた理由が、自分にあることをアステルは知っているわけで、彼としてはブルーバードにはもう罪を重ねて欲しくないという心境なんです。読んでもらっている人にはアステルの気持ち、わかってもらえると思いますけど」
 ギバリーはチラリとディアーナを見た。彼女は真顔で頷いてくる。
「ええ、わかります」
「ブルーバードもそれがわかるから、アステルの前では泥棒に戻れないわけです。つまり、今のままの舞台でブルーバードを活躍させるというのは困難なんですね」
 ギバリーは肩を竦めて見せると、
「ああ」
 納得というように、ディアーナが首肯した。
「それに、マリアは不正が横行していた中で、常に正しくあろうとした女性じゃないですか。そういう面がブルーバードにも好ましかった。その彼女にとって、ブルーバードは決して許しちゃいけない相手なんです」
「でも、マリアもブルーバードが好きですわよね? わたくしにはそう読めましたけど」
「ええ、好きです。ブルーバードの泥棒の目的が、決して私利私欲ではなかったことを知って、彼女はブルーバードに惹かれます。でも、警察隊長であるマリアとしてはその気持ちを認めることが出来ない。ここまでが、ディアーナさんにお渡しした原稿です」
「続きが気になりますわ。二人はどうなってしまうのですか?」
「俺としては、二人は結ばれる。けれど、別れを選択する。書いている俺がこういうのも変なんですけど、二人がそれ以外の選択をするとはちょっと考えられないんですよ。マリアはこれからの王国を見捨てることは出来ない。何故なら、これからは彼女が望んだ正しい国づくりが行われるわけですから。とすると、旅立つブルーバードを彼女は見送るわけです」
「……はあ」
「もう、これっきりで完結となれば、ブルーバードとマリアは一緒にアステルの治世を見守っていくという終わり方で、ハッピーエンドなんですけど。続きを考えると、やっぱり、別れてしまいますね」
「それは残念ですわ」
「それほどまで、俺の小説を気に入ってくださって、ありがとうございます」
 元々、ゴシップ記事なんて書きたくないとゴネた結果、任されたのは連載小説の担当だった。
 この時は、小説を書く作家は決まっていた。しかし締め切り当日に、原稿を上げられなかったその作家は逃げ出したのだ。散々、行方を捜したけれど見つからなくて、何か、穴埋めの原稿を書けと言われてギバリーが書いたのが、怪盗ブルーバードの第一話だった。これが社内でも予想以上に評判がよく、反響も大きかった。
 それが約半年前。
 何とか、一応の決着をつけられそうな形で終盤を迎えたのだが、編集長から要請を受けて、続きを求められた。上司命令を逆らえるほどの気概がないギバリーは新しいブルーバードの活躍を構想中だ。
 今、ディアーナに話した予定はそのまま原稿となる。きっと、女性読者はやり切れない思いを抱えるだろう。彼女らはブルーバードとマリアの恋を自分に重ねていたのだろうから。挿絵のモデルであるルシア隊長と自分を。
 でなければ、素人が書いた話がここまで受けるはずはない。
 そして、ギバリーの目の前の令嬢ディアーナもそんな女性読者の一人だ。
 彼女は一度、とある貴族が主催した夜会で王族の警護として同行していたルシア隊長に一目惚れしてしまったのだという。
 その面影を絵に描き始めたところ、同じような女性たちからルシアの絵を求められるようになった。
 同じ恋心がわかると、ディアーナは請われるままに絵を描き、プレゼントしていった。
 ギバリーは絵がどれだけモデルに酷似しているか? という形からディアーナに取材することになった。
 貴族のご令嬢がゴシップ紙として悪名高い自社の取材に答えるはずない、と駄目もとで申し込むと、彼女はブルーバードのファンだとすんなり取材を受けてくれ、ほぼ無報酬で小説の挿絵を描いてくれることになった。
 世の中、物事がどう転ぶものかわからないものだ。
「まあ、ブルーバードとマリアは離れていても誰より一番強い絆で結ばれているんじゃないかと、俺は思うんですけど」
「ええ、それはわたくしも感じますわ」
 ディアーナがそう感じてくれれば、他の読者も納得してくれるだろう。
 ギバリーとしてはそれを願うしかない。ブルーバードが下した決断を間違いだったと思いたくない。
 誰よりもアステルの明るい未来を願い、そして、マリアの潔癖さを愛したのだから。


前へ  目次へ  次へ