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 10,恋する乙女


「……かなり、ヤバげ」
 カズは誰にも聞こえないよう、口の中だけで呻いた。
 アリシア家の客間に通される間、「邸内に飾られた数々の絵画は全てお嬢さまがお描きになられました」と、自慢するように執事は言った。
 素人のカズが見ても、ディアーナ嬢の技量は目を見張るものがある。髪の毛一本、睫の一つ一つにさえ、魂をこめて描いたというような、気迫が伝わってくる。
 しかし、それらがゆうに二十枚を越えた辺りからは、こめかみに冷たいものが流れるのを自覚せずにはいられなかった。
 絵の全てに描かれているのは、他でもないルシアなのだ。
 漆黒の髪、濃紺色の瞳の美貌の青年の姿が、等間隔に並んでいる光景はもはや異様としか言いようがない。美術館や画廊でも、ここまで大量の絵は並んでいないだろうという――おびただしい数だ。
 ディアーナ嬢のルシアへの傾倒ぶりは、カズの想像を超えていた。
 ……ヤバくないか?
 カズはこのまま、ディアーナ嬢と我らが隊長を対面させることに不安を覚える。この家の家人は娘が描いた絵を嬉々として飾るにしても、限度があるだろう?
 大丈夫か? ヤバくないか?
 カズは執事の後を従うルシアの背中に、目を向ける。
 いつもは真っ直ぐに伸びている背筋が、心なしか前かがみ気味になっているのは、嫌でも目に入ってくる絵をなるだけ見ないようにしているからだろう。
 自分に向けられる好意に鈍感なルシアも、さすがにこれは無視出来ないようである。ディアーナ嬢との対面が思いやられるのは、カズだけではなくルシア本人にも言えるようだ。
 どんな顔をしてよいのやら。考えるだけで、頭が痛くなるってなものだ。
 他人であるカズ自身、微かな頭痛を覚え始めていた。
「それでは、暫しお待ちください」
 執事が一礼して出て行った。静かに閉じられたドアを振り返って、カズはこのまま回れ右をして逃げ出した方がよいのではないのか? と、真面目に考えた。
 馬鹿馬鹿しいと自分の考えを、頭を振って払う。そうして、顔を上げたカズはこちらをもの言いたげに見上げてくる濃紺の瞳と出会った。
「思った以上だな」
 カズの言葉に、ルシアの頬が引きつる。普段、感情が表に出にくいルシアにしてみれば、かなり珍しい反応だった。
「……どう接すれば良いのか、迷うな」
 ルシアは低く息を吐き出すと、次の瞬間キッと唇を結んで、顔を引き締めた。
 弱音を吐いたことで、自分の迷いと向き合った後は、答えを見つけるために神経を注ぐ。ルシアらしい思考経路を目に留めて、カズは唇の端を緩めた――顔面は凶悪に歪むのだが。
「とりあえず、被害者だ。優しくしてやって問題はないだろ?」
 と、言ってみたものの、それでますますディアーナ嬢のルシアへの想いに火がついたら、もう手が付けられなくなるのではないかと思う。
 ……何で、こんな心配をしているんだ?
 相手は貴族の令嬢とはいえ、貴族階級位ではルシアは第一位で、カズは第二位と同等の権威を保証されている。下手に出る必要は何もない。
 ……でも、何か嫌な感じがするんだよ、とカズは眉をひそめた。ふと、後頭部に視線を感じて、首を巡らせると、客間の壁にもルシアの肖像が飾られていた。
「…………」
 ここまで来ると、恋焦がれる乙女心も……怖い。執念深い妄想で、何でもやらかしそうだ。
 恋する乙女は最強なのよ、と嘯くセイラ姫の言動も侮れない。
 否、侮ってはいけない気がする。
 カズは今回の件に乗じて、ルシアに身を固めてもらおうと考えていたが、考え方を軌道修正したほうがよいと思い始めた。
 ここまで、猛烈に好きという秋波を送られると、逆に引く。ただでさえ、ルシアは色恋ごとに疎いのだ。
 この手の女性と付き合ったら、間違いなくルシアが振り回されるのがオチだろう。
 ……ヤバすぎるって。
 カズがそう、薄ら寒さを感じていると、「失礼します」とドアが開いて、一人の女性が現れた。恐らく、彼女がディアーナ・アリシア嬢なのだろう。
「……ああ」
 挨拶しようと、振り返ったカズは思わず赤銅色の瞳を見開いた。
 そこに現れた令嬢の姿に、一体何事かっ? と叫びたくなる。
 まるで、お輿入れだっ!
 カズは数年前、七家の一家、スレイン家当主ユリの結婚式を脳裏に蘇らせた。
 令嬢の装いは、まさしく花嫁の衣装と言ってよいような豪華絢爛たるドレス姿だった。小柄な身体を着飾ったその姿は、一輪のバラの花のようである。
 胸元を飾る花のコサージュがそのまま、令嬢の姿をなしたかのように可憐ではある。
 しかし、その格好は普通、客人を迎えるものではない。
 絶句する二人の前に静々と進み出てきた令嬢は、ドレスの裾を軽く持ち上げて優雅に頭を垂れる。
「お初にお目にかかります。わたくし、ディアーナ・アリシアと申します」
 そして、二人の騎士から完全に言葉を奪い去ることを、さらりと告げた。
「世間一般をお騒がせしています、ブルーバードがわたくしであります。どうぞ、わたくしを捕らえてください」


                  * * *


「さすが、隊長ですっ!」
 レインは興奮の態で顔を上気させ、声を上げた。
「もう、ブルーバードを捕まえたなんて。まだ、捜査権が移行されて、半日も経っていないってのに。凄いですっ! さすがですっ!」
 そんな部下を前に、ルシアは困惑の色が浮かぶ濃紺の瞳を相棒に差し向けた。
 不機嫌そうな顔をさらに歪めたカズは、眉間の皺をことさら深く刻んでルシアを見返してきた。それから、ルシアの視線の意図を読み込んだように頷くと、レインに向かって低い声を吐き出す。
「レイン……お前、本気でディアーナ・アリシア嬢がブルーバードだなんて、思ってやしないだろうな」
「えっ?」
「……お前、もう少し考える頭を持てよな? そんなんじゃ、護衛の仕事しか、回せないだろ」
「ディアーナ嬢がブルーバードじゃないんですか?」
「単純」
 低く言い置いて、溜息をこぼしたカズは、斜めにレインを見下げながら続けた。
「少なくとも、犯人を名乗る奴の言葉をそのまま信じてどうするんだよ」
「でも、犯人が犯人じゃないって言うのならともかく、自分が犯人だって言ってるんでしょ? 疑う余地なんて、ないと思います。それに、副隊長が推理した犯人像にぴたりと一致するじゃないですか」
 反論するレインの言い分も最もではあった。
 ブルーバードの犯人像は、ルシアに懸想する人間と推測した。
「まあ、それは認める」
 ……ルシア好きという点では誰にも負けないかもしれないが、と呟いて苦笑するカズに、ルシアは嘆息をこぼさずにはいられない。
「……カズ」
「わかってるって」
 声を出したルシアを、横目に見てカズは頷くとレインに向き直って告げた。
「令嬢は犯人像にぴたりとはまる――絵の所在、その屋敷のことに詳しいのも贈った相手と友人関係にあるとすれば、何度も被害者宅に出入りしているだろう」
「それに、ディアーナ嬢はブルーバードの挿絵を無償で描いているほど、その小説の愛読者です。自らブルーバードを装って、隊長と接近せんとした、これで全て説明がつくんじゃないですか?」
「……あのな、幾ら思い込んだからって、深窓の令嬢がそうそう泥棒の真似事なんて出来ると思うか? もう十件近くも」
 レインの単純思考にやや呆れ気味のカズは、焦げ茶色の髪を苛立たしげに掻いた。
「副隊長、それこそ憶測です。ご令嬢だから泥棒しないなんて、決まっていないですよ」
「俺だって、絶対にありえないとは言わないさ。ただ、答えに簡単に飛びつくのは止めろってことだ。もしかしたら、令嬢が犯人かもしれない――それは否定出来ないよな」
「現状では違うとは断定しかねるな」
 カズが確認するように問いかけてくるのに、ルシアは頷いた。
 すると、レインがホラ、と言いたげにカズを見上げるのを見て、ルシアは言葉を付け足す。
「だが、ディアーナ・アリシア嬢が犯人であると確定も出来かねる」
「隊長も、そんなことを」
「……一個人の名誉に関わる問題だ。レイン、慎重に答えを見つけ出さなければいけないんだ」
 ゆっくりと言い聞かせるルシアに、レインは「はあ」と頼りなげな、声を吐き出した。
「あのな、もしここで令嬢を犯人と名指しする。事件の即効解決で、我らの隊長殿の評価がまた上がる――それは黒色部隊に属するお前には誇らしいだろうさ」
 カズはレインの興奮を冷静に指摘した。
 自分の手柄ではないものの、まるで自分のことのように喜ぶその心理はカズの推測するところだろう。
 ルシアは、図星を指されて表情が歪むレインを目にした。
 部下に信頼されているのだと、実感する。しかし、その信頼に応えられなければ、意味はない。
「でもな、実は違いましたってことにでもなってみろ。お前、相手は仮にも貴族階級に属する令嬢だぞ――勿論、一般階級の人間相手でも誤認逮捕なんて許されやしないが――その失態、下手すりゃルシアの首が飛ぶ」
「――まさか」
 目を丸くして、レインは絶句した。
「大げさかもしれないけどな、進退問題になりかねん。だから、絶対に令嬢が犯人だと確定出来るまで、あくまでも容疑者候補の一人であって、犯人じゃない。だから、ディアーナ・アリシア嬢が犯人だって、決め付けちゃ駄目なんだよ」
「……それはわかりました。でも、副隊長。副隊長はさっき、ディアーナ嬢が犯人じゃないようなことを言いましたよね?」
「そんなこと、言ったか?」
 カズはとぼけてみるが、レインはしつこく食い下がった。
「言いましたよ。――ディアーナ・アリシア嬢がブルーバードだなんて、思ってやしないだろうな――って。それだと、その可能性を考えること自体、あり得ないって感じですよ」
「まあ、少しは頭が回るみたいじゃないか、お前も」
「茶化さないで下さい。あの……隊長と副隊長は、ディアーナ嬢が犯人である可能性はどれぐらいの割合だとお考えなんですか?」
 ルシアとカズを交互に見やって、レインが問う。
 ルシアは自然と相棒を見やり、カズもまたルシアを見返してきた。
 言葉を交わすことなく、互いの思考を読み取り、下した答えは一つだった。
「……無罪とは言えない」
「だが、ディアーナ嬢がブルーバードではないことだけは確かだろう」


 部屋を出て行くレインの後ろ姿を見送り、ドアが完全に閉ざされるのを待って、カズはルシアに問いかけた。
「令嬢は利用されたとみて、間違いないな?」
「本人は自分こそがブルーバードだと信じているようだが、違うだろう」
 確証なんて、何もないがカズは直感的にルシアの言葉に頷いていた。
 恋する乙女の暴走で、犯罪に手を染める。
 それはあり得ることかもしれないが、そんなわざわざ回りくどい方法を取るくらいなら、自ら被害者になった方がルシアに与える心象は良い。
 ルシアへの接近を目的とし、犯罪を企てた――一見、暴走気味の行為であるが――的確に盗みを働いた手口から言って、冷静さを欠いてはいない。
 今までの犯行から犯人像は見えたが、実際に犯人に繋がる物的証拠が見つかっていないところから見て、完全にプロの仕業と断定出来る。
 冷静に盗みを遂行しながらその後、ルシアに与える心象を計算していないというのは、どこかちぐはぐな印象が拭えないのだ。
 思い込みの強い令嬢――それが、カズがディアーナに対して抱いた人間像。
 令嬢は確かにブルーバードの犯人像と一致するが、やはり、違和感を覚えてしまう。
 そうして、犯人が別にいると考えたカズに、ルシアも同意見だったようだ。
「……ただ、何でそこまで思い込めるのか、わからないがな」
「思い込みの強い人間に対し、暗示を掛けるのはそう難しくはないだろう」
「暗示か……催眠術っていうの、アレってマジにあることだと思うか?」
「専門的なことはわからないが、その手のことで心療治療を行っている例を聞く。催眠術か、否かは判断しかねるが、ディアーナ嬢の気質なら、尤もらしいことを吹き込めば、それを鵜呑みにしてしまう可能性は否定出来ない」
「第三者によって、令嬢が持っていた被害者宅の情報が引き出され、捜査かく乱のためにブルーバードが自分であると思い込まされた……」
「……ああ」
 ひっそりと頷くルシアに、カズは顔を顰めた。
「なあ、この事件って、ただの泥棒事件だと思うか?」
「殿下が関わってきた時点で、その答えは否だろうな」
 ディアーナの存在が邪魔をして、ブルーバードの尻尾の影すら見えない。彼女自身は、自らをブルーバードと信じて、小説のブルーバードとマリアの恋に自分を投影している。
 そんな彼女を巧みに利用して、ブルーバードは何をしようとしている?
 何が目的だ?
 それを知るためには、どこから崩せばよいものか?
 思案するカズの先手を打つように、ルシアが告げた。
「まずは、ディアーナ嬢の証言の裏取りから始めよう。それと、ディアーナ嬢の事件当夜のアリバイを確認する」
 一つ一つ、差し出される指示にカズは頼もしげに相棒を眺めた。
 ルシアはカズの視線に気付かず、続けた。
「それと……表向き、ディアーナ嬢は重要参考人扱いだが……俺たち以外、レインは省いて、他の者にはなるだけ黒に近い容疑者と言う前提でいこう」
「いいのか?」
 ディアーナを容疑者として疑っている――それはルシアがブルーバードの意に嵌まり、手玉に取られていることを意味する。
 後々、我らが隊長の評判を落とすことにならないか? と、懸念するカズに、ルシアは唇の端を緩めた。
「ブルーバードがディアーナ嬢を隠れ蓑にし、それで安心しているのならわざわざ警戒させる必要はない。騎士団外部に情報が漏れるとは考えたくはないが、騎士が動くとなれば目立つのは必然。どうしたって、ブルーバードにこちらの動きは察知されてしまう」
「ならば、ディアーナ嬢が犯人であるという前提で、証拠固めの捜査をしていると」
「そう思わせれば、あちら側にも隙が出てくるかもしれない。当分、第三者の存在にこちらが気づいているとは、知られないほうがいいだろう」
「どちらにしても、令嬢の証言は限りなく黒に近い。これを白に戻す必要もある」
「実際、ブルーバード本人を突き止めて、お前が犯人だと名指ししても、言い逃れられてしまう可能性もあるわけか」
「……正直、そちらの方が厄介だが」
 それもまた、ブルーバードの企みの一端であるとしたら、なかなか巧妙な策を弄してくれたものだ。
 ブルーバードの正体を探すと共に、ディアーナの無実を証明しなければ、こちらに勝ち目がないと来ている。
 だが……。
 カズはルシアに目を向けた。
 濃紺の瞳に静かに闘志をみなぎらせた隊長殿は、カズに視線を返すと言った。
「必ず、ブルーバードを捕まえる」
「よし、行くか」


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