ひめ星 〜春のあしおと〜 手のひらに包みこんだプレゼントを握りしめて、アタシはガラスドアの前で逡巡する。 ガラスには白いスプレーでレタリングされた文字――喫茶店「ベガ」。 「ベガ」は、楓町駅前の商店街で、人の良いマスターと愛想がないウェイターの兄弟が経営しているお店だ。 喫茶店だけれど、マスターが作る洋食メニューが人気だったりする。勿論、コーヒー、紅茶も美味しい。最近はマスターの弟で、お店ではウェイターをしているテンガさん――「天河」と書いてテンガと呼ぶの――手作りお菓子も話題になっている。 アタシの中で一番のお気に入りのお店だ。 だけれど、アタシのお目当ては実のところ、お店より愛想がないウェイターのテンガさんにあったりする。 大学一年のその人に、中学三年のアタシが片想いを始めて、もう十ヵ月を数えようとしている。 女の子の一大イベント、バレンタインデーは一ヵ月前に過ぎた。 そして今日は、ホワイトデーだ。 ……別におかしくはないよね? アタシは手の中のプレゼントに目落として、アタシ自身に問いかける。 うん、おかしくはない――はずだ。 何かを貰ったら、お礼を返すのは当たり前。 問題は、「ありがとう」の一言で良い場合もあれば、何かの品を贈り返す場合もあるということ。 典型的な例を上げれば、バレンタインデーが一番わかりやすい。 チョコレートを貰ったら、ホワイトデーにお返しを。 例え、貰ったチョコレートに他意はなかったとしても、アタシはすごく嬉しかった。 だから、一生懸命に頭を働かせて、プレゼントを考えた。あんまり張り切り過ぎると、テンガさんは引いちゃいそうだから、値が張るものは駄目。 勤労学生のテンガさんに、中学生のアタシのお小遣いが一万円という話をしたら、思いっきり顔をしかめられた経緯がある。 とはいえ、お小遣いはアタシがねだったんじゃなく、仕事ばかりしているパパとママが、アタシに付き合えない穴埋めにくれるだけなんだけど。 『中学生が万札なんて、持ってんじゃねえよ。金銭感覚狂って、将来、借金に泣くぞ』 と、テンガさんが言うように、アタシも貰い過ぎだと思う。 お小遣いを貰うより、お休みの日にドライブにでも連れて行ってくれた方がずっと嬉しいけれど。仕事人間のパパとママには、なかなか出来ない相談だ。 だから、お金で愛情を肩代わりしようとしているんだろうと思う。 一万円という一般的な中学生にしては破格のお小遣いを渡せるのは、それだけ仕事をがんばっているからよ、だから忙しくて相手が出来ないけれど――と、言葉には決して口にされない言い訳をアタシが黙って受け取っているのは、お金目当てじゃない。パパとママが好きだからだ。物わかりのよい子を演じてでも、嫌われたくない。 けれど、そのお金でテンガさんにプレゼントをポンと買いたくはなかった。一万円の予算があれば、大学生の男の人が欲しがるようなプレゼントを買うこともできると思う。 でもね、きっとテンガさんは、そういうモノは欲しがらないし、喜ばない。 お金や欲しいモノを貰っても、嬉しくない場合があることを、アタシはアタシ自身で知っている。 だからね、中学生という今のアタシに相応しいものを考えに考え抜いて、選んだ。 ――よくよく思えば、一ヵ月前にも同じことを考えていたのをアタシは思い出す。 バレンタインデーに、どんなチョコレートを贈ろうかって。 アタシもまた世間一般の女の子たちと同じように、甘い香りが漂うチョコレート売り場をさまよった。 でも、決して本命チョコには見えないようにしようと、決めていた。 あくまでも、義理チョコ。もしくは、感謝チョコ。日ごろお世話になっているそのお礼といった、そんな感じのものを探して売り場を二周、三周と歩き回った。 アタシはテンガさんに片想いしている。この気持ちは恋だって、確信している。 だって、男の人の知り合いはいるけれど、テンガさんの前でしか、アタシの胸はときめかない。 瞳に映るアタシの姿が可愛く見えますように――と。 強く思うのは、テンガさん相手のときだけだ。 アタシはテンガさんが好き。大好き。何があっても、諦めたくないと思うくらいに、好きだ。 じゃあ、バレンタインに告白するのは打ってつけだろうと、周りは言うけれど。それはちょっと早い。 だって、アタシはまだ中学生なんだもの。 受験シーズンの最中に、恋愛にうつつを抜かして何をしているんだと、テンガさんに思われたくなかった。 アタシが受験しようとしている本命の県立高校は、県内でトップクラスの進学校だ。一応、学校の先生からは「大丈夫だ」と太鼓判を押して貰ったけれど、本番を終えないことには気を抜いてはいけない。 『受験を前に気を抜いてボケかますなよ』と、テンガさんが言っていた。 もっとも、そのセリフはアタシに向かって言われたものじゃない。テンガさんの幼馴染だっていう浪人生の人に向かって言っていたセリフだ。 マスターから聞きかじった話によれば、テンガさんの幼馴染みのその人は、去年、受験前にインフルエンザをこじらせ、肺炎まで引き起こして入院し、大学の試験を受験できなかったということ。 どうしても行きたい大学があって志望校を一本に絞っていたから、泣く泣く浪人生活を選んだというその人が、飼い犬らしいワンコちゃんとお散歩の途中に「ベガ」を訪れれば、 『受験を前に気を抜いて余裕かますなよ』 と、テンガさんが嫌味たっぷりに繰り返す姿をアタシは冬場に入ってから、何度も見ている。 テンガさんはキラキラ金色に染めた髪と、いつも何かを睨んでいるかのような鋭い目、不機嫌そうに歪んだ口元、やる気なんてなさそうな無愛想な接待――と。 一見すると、あまり良い人には見えない。 けれど、本当はさりげないところで気が利く優しい人だってことは、アタシよく知っている。 だからね、好きになったの。 嫌味たっぷりの言葉も、テンガさんなりの注意と激励だ。 それは幼馴染みのその人も理解していたと思う――付き合いが長ければ、テンガさんが見た目と違って、実はいい人だってきっとわかる――お陽さまみたいな快活な笑顔で『今年は絶対に大丈夫さ』と、答えていたから。 というわけで、高校受験のアタシとしては、テンガさんを前にバレンタインに盛り上がって見せられない。 それに、テンガさんに告白するのは、アタシが高校生になってからと決めていた。 それまで恋心は胸の内側で、ひっそりと育てていようと思っていた。 テンガさんと付き合いのある先生の話に――アタシが勉強を見て貰っている家庭教師の先生は、テンガさんの大学の先輩で高校生の時「ベガ」でバイトをしていた。その関係で、先生からはテンガさんの情報など貰っている――よれば、テンガさんは結構女の人にモテるらしい。 過去、何人も彼女がいたという―― 一人じゃないってところが、よくモテることを証明していて、アタシの気持ちを不安定に揺らす。 ちょっとね、ライバルらしい女の人の存在も感じているの。 夏の頃からよく顔を出すようになった女の人は、積極的にテンガさんに話しかけるわけじゃないけれど、テンガさんを見ると嬉しそうな顔をする。テンガさんもその人とは知り合いみたいで、愛想はいつも通りないんだけれど、他のお客さんに比べると、アタシと同じくらいには話しかけているような気がするの。 だからね、焦らないわけじゃない。 でも、テンガさんの場合、先生から聞く話からすると、来る者拒まずの様相だ。 そうして、付き合っても長続きしないのは、テンガさんの生活の中心がこの喫茶店「ベガ」にあるからだ。 テンガさんは早くに両親を亡くして、お兄さんであるマスターに育てられた。お店を切り盛りして、大学にまで行かせてくれているお兄さんに感謝して、授業がないときの殆どは、お店に出ている。 というわけで、彼女の立場になったとしても、デートなんてまずない。 もし恋人がいたらクリスマスはどんなことするのだろうと、さぐりを入れたら、 『アホか、クリスマスこそ稼ぎ時だろうが。お前、暇なら店の飾り付けを手伝え』 と、クリスマスディスプレイを手伝わされたくらいに、恋人たちのイベントにも興味がないらしい。 とりつくしまがないほどに、テンガさんの頭の中は「ベガ」で一杯だ。女の子としてはなかなかに寂しいと思う。それで、結局別れちゃうみたい。 そういう話を聞かされると、テンガさんと付き合うのも大変だと感じる。 でも、アタシは諦める気はない。 我慢するのは慣れているし、なかなか振り返ってくれない人でも――パパやママ――アタシの大好きっていう気持ちは変わらない。 だからね、一度、彼女という立場に置いて貰えたら、アタシは自分からテンガさんの彼女を止めることはないと思う。 どんなに素っ気ない態度を取られたって、アタシの気持ちが変わらなければ、平気だと思える。 怖いのは嫌われることであって、好きになって貰えないことじゃないもの。 ずっと好きで居続ければ、テンガさんだって最終的にはアタシを振り返ってくれるかもしれない。 だから、テンガさんがフリーのときに告白すれば、アタシにもチャンスはあると思っているの。 けれど、相手が中学生じゃテンガさんも周りの目を気にするかもしれない――四つの年の差は、どうあっても縮められないけれど、大学生と高校生ならそんなに不自然でもないと思う。さすがに、「中学生」だと抵抗ありそうだから――高校生になるまでは、この気持ちは内緒にしておこうと決めていた。 ――春になったら。 長い冬の間、土の中で眠っていた種が、芽吹いて花を咲かせるように、アタシはテンガさんに好きだと伝える。 例え、受け入れて貰えなかったとしても、それでも諦めるつもりもない。 だって、アタシの中にはテンガさんへの好きが一杯なの。 ホワイトデーのお返しに、悩みに悩んで夜更かししちゃったりするくらいに、好きなんだよ? 幸いに本命の県立高校の試験は、もう終わっている。後は、結果を待つばかりだったから、バレンタインデーのときより、気合いを入れたプレゼントを用意することが出来た。 でも、何か変だなって、アタシは自分の状況を顧みながら、思う。 外国では、バレンタインに告白するのは女の人って決まっているわけじゃないらしい。 別に男の人から女の人へと贈り物をしても、構わない。 だけど、日本じゃバレンタインデーといえば女の子の日だ。 アタシも一人前の女の子っぽく、チョコレートを選んで――とはいえ、あまり頑張った感じのチョコレートじゃなかったけれど――テンガさんへ贈ろうとした。 なのに、今のアタシはバレンタインデーにテンガさんからチョコレートを貰って、ホワイトデーにお返しを用意している。 ハッキリ言って、立場が逆転していたりする。 どうして、こんなことになったのかと言えば、バレンタインデーの前日にさかのぼる。 その日は家庭教師の日で――先生との勉強は、夕暮れの忙しい時間帯を過ぎた「ベガ」で二時間くらい。これは、仕事で帰りが遅くなるパパやママに誤解されるのを避けるためだったんだけど、それがきっかけでアタシはテンガさんと知り合うことが出来たから、何がどう転ぶのか。人生ってわからない――アタシはいつものように喫茶店「ベガ」に向かった。鞄の中にはテンガさんへのチョコレートを忍ばせて。 あの日も、ドキドキしながら「ベガ」のガラス戸を開けた。 忙しい時間帯を過ぎると、「ベガ」は割と無人になりやすい。その時間もお店の中には、テンガさん一人だけだった――マスターは、厨房で明日の料理の下ごしらえでもしているのかもしれないけれど。 ドアベルのシャリンシャリンという音に、お店のテーブルについていたテンガさんが顔を上げたから、 『こんにちは』 と、いつものように可愛らしく見えることを心掛けて、挨拶する。 『ああ、ヒメか』 この十ヵ月で少し進展があったかなと思わせるのは、テンガさんがアタシの名前を呼んでくれるようになったこと。 ――ヒメと、テンガさんが口にすると、ちょっとだけこそばゆくなる。 『いいところに来た。こっちに来て、ちょっと手伝え。どうせ、アイツは遅刻なんだろ?』 すると、テンガさんは前置きなしに言って来た。 ちなみに「アイツ」というのは、アタシの家庭教師の先生のことだ。知り合いだから、アイツ呼ばわり。テンガさんは本当に口が悪い。 そして、先生の名誉のために言っておくけれど、先生は遅刻魔じゃない。 勉強の時間が終わると、テンガさんが邪魔だとアタシたちを追い出しにかかるから、先生はアタシが少しでもテンガさんの傍に――というか、お店に――長居していられるように遅れて来てくれているだけ。 でも、これはテンガさんには言えないから、先生には遅刻魔の汚名が着せられた。 蔭ながらアタシの恋を応援してくれている先生のためにも、絶対にテンガさんのことは諦められない。 『手伝い?』 アタシはチョコレートを渡すタイミングを探しながら、テンガさんへと近づいた。 バレンタインデー当日に渡すと、素気ないチョコレートにもアタシの気持ちが一杯に書かれていそうで、敢えてフライングしようと思った。 そうすれば、形は義理チョコでも、印象もつけられると思ったから。 何だか矛盾しているようで、それでいて計算している時点で、女の子っていうのは、かなりしたたかな生き物なんだなと、我ながら思った。 好きな人には、特別に見て欲しい。 周りからは媚びていると見られるかもしれない態度も、アタシ自身はただ好きになって貰いたい一心だったりするのだけど。 テンガさんが腰掛けているソファの前に置かれたテーブルには、綺麗にラッピングされた包みが山積みになっていた。そして、色とりどりのペンとカードがあった。 『お前、丸文字書くんじゃねぇ?』 『丸文字?』 『丸っこい文字だよ。女子って、そういう字を書くだろ?』 断定的に言われても困るんだけど、書けないこともないから、アタシは頷いた。 『はい』 『じゃあ、このカード頼む。依頼主とメッセージのリストはこれだ』 テーブルの上に置かれたメモには、いわゆる愛のメッセージと思しき文面が並んでいる。ラブレターと言ってよいような内容もあって、アタシは思わず赤面してしまう。 『……えっと、もしかして』 『ああ、バレンタインのチョコレートの手作り代行。さすがに、メッセージカードまで引き受けるんじゃなかったな。どう考えても、オレの字だと男文字だ』 舌打ちして、テンガさんは不機嫌そうに顔をしかめた。 アタシは唖然とする。 テンガさんの商魂たくましいところは何度も目にしているけれど、バレンタインにチョコレートを作って、それを売っているだなんて。 これじゃあ、テンガさんへチョコレートなんて、贈れない。 どう考えても、お菓子会社の工場で量産されたチョコレートより、テンガさんのチョコレートの方が美味しいに決まっているもの。 チョコレートを贈ることは、あくまでも感謝の形を示すことで、味には気を使っていなかった。 ただ、テンガさんにはバレンタインという女の子にとって特別な日に、チョコを用意したアタシの気持ちを少しだけでも感じて欲しかった。 だから、味は別に二の次でいいと思っていたけれど。 テンガさんの中にはちゃんと「バレンタインデーは女の子が告白する日」というイメージがしっかり刻まれてあって、そのために「手作りチョコレート」にお金を払う女の子の熱心さを、依頼を受ける際に目にしている。 そこへ、アタシが買ってきたチョコレートを贈ったら、どうだろう? この程度の気持ちかと思われるのではないかと、怖くなった。 固まってしまったアタシを前にして、テンガさんはどこ吹く風で言う。 『なるだけ、男心をくすぐるような文字で書いてくれよ。ちゃんと、手伝ってくれた分だけ、報酬は払ってやる。何だったら、お前にもチョコを用意してやってもいいぞ。一応、ラッピング代も含めて千円だが、まけて五百円にしてやる』 アタシの様子なんて全く気にしていないところを見ると、テンガさんの目にアタシは「お客さん」の一人としてしか映らないのかなと思わされる。 アタシがチョコレートを贈りたい相手は、目の前のテンガさん一人しかいないのに。 『……チョコレートは要らないです。贈る人はいないもの』 少しだけ哀しくなって、アタシは唇を尖らせた。 『あん? 父親やアイツには贈ってやらないのか?』 テンガさんのチョコには「義理チョコ」も含まれているみたい。 アタシの中では、パパや先生に「義理チョコ」を贈ることすら、すっかり忘れていた。 もう本当に、アタシの中ではテンガさんで一杯だ。 『後学のために教えてやる。世の中にはな、義理チョコでも涙を流して喜ぶ馬鹿な男がいるんだ。慈悲を見せてやると、男は操りやすいぜ』 世の中の男の人たちを馬鹿にするかのような口調で、テンガさんは言う。 本当に口が悪いんだけれど、日頃お世話になっている人たちへ、何かしら形を見せることは悪いことじゃないと言われているような気がした。 後で、パパや先生へのチョコレートを買いに行こう。 『じゃあ、テンガさんもチョコレートを貰ったら嬉しいですか?』 今なら、鞄の中のチョコレートを渡せるかもしれないと期待すれば、 『泣いて喜ぶほどに、餓えてねぇ』 と、会話を断ち切られた。 それって、バレンタインに興味がないということ? それとも、貰う当てがあるということ? ちらりとアタシの頭に浮かぶは、テンガさんと嬉しそうに話をする女の人。 あの人は、テンガさんにバレンタインのチョコレートを贈るのかな。 テンガさんはそれを受け取るのかな? そうなったら……アタシは。 色々と考えたけれど、アタシが見つけた答えは一つだった。 アタシはテンガさんに、アタシを好きになって貰いたい。ただ、それだけ。 だって、アタシには何があっても諦めたくない気持ちがあるから。 アタシは黙って、テーブルの上のペンを取った。テンガさんはそれを確認すると、お店の仕事の方に戻って行った。 カチカチと食器を洗っている音がする静かな店内で、アタシは黙々とカードに愛の言葉を並べていく。 思わず赤面しそうになる、真っ直ぐな言葉はアタシの中にも存在するもの。 一人でも多くの人の気持ちが、相手の人に届くといいな。 文字をつづりながら、アタシは心の底から素直に思った。 その傍らで、涙を流す人もいるかもしれない。 それでも、好きだって気持ちは本当に厄介で。どうしようもないことを知っている。 ちょっとのことで不安になって、少しのことで幸せになる。 想いの揺れ幅は、自分でも測れなくて。誰にも制御できないの。 例え、直ぐに振り返って貰えなくても、いつか、きっと――。 そう願わずにいられないくらいに、芽吹いて育っていく。 三十分くらい文字を書き続けていると、メッセージカードは出来上がっていた。それを報告すると、テンガさんはチョコレートの包み一つ一つに、カードを添えていった。 すべての作業が終わると、テンガさんがアタシに向かって包みを一つ差し出してきた。 『一応、報酬な』 『……えっ?』 『言っただろ、ちゃんと報酬はくれてやるって』 テンガさんは、ぶっきらぼうな口調なのに、細かいところでは律儀だ。 クリスマスの時も、お店の飾り付けを手伝ってくれたからと言って、クリスマスケーキを一つプレゼントしてくれた。 そのケーキは、パパが有名店で買ってきたケーキよりも、アタシには美味しく感じられた。 テンガさんにとっては、ついでの一つなんだと思う。 アタシに手渡されたそれも、他の人への売り物と変わらない包装紙で包まれている。 だけど、それでも。 アタシはテンガさんからチョコレートを貰えたことが嬉しかった。 おかげでその後、「ベガ」にやって来た先生との勉強の時間は、凄く集中した。 ――早く、高校生になりたいと、心から思ったから。 テンガさんに一歩でも近づきたいの。 「よし」 アタシは気合いを入れるように、一言呟いて、「ベガ」のガラス戸を押し開けた。シャリンと空気を揺らすベルの音に、 「いらっしゃ……」 テンガさんの張り上げられた声は途中で失速して、舌打ちに変った。 「ちっ……ヒメかよ」 ……一応、アタシもお客さんのはずなんですけど? 絶句するアタシにカウンターの内側にいたマスターが、 「いらっしゃい、ヒメちゃん。ゆっくりしていってね」 と、声を掛けてから厨房へと消えていった。 マスターもどうやら、アタシの気持ちに気づいているみたいで、そこはかとなく気を利かせてくれる。 「何の用だ」 アタシに対しては接客するのも面倒だと言いたげに、テンガさんはいつもの愛想のない、不機嫌そうな顔を見せた。 うん、これはあれよね。アタシはお客から、知り合いに格上げされたということよね? そうポジティブに考えて、落ち込みそうになる気持ちを立て直す。 中学生のアタシが一人で――家庭教師の勉強の時間以外に――お店に出入りするのを、テンガさんはあまりよく思っていない。 普通の中学生のお小遣いじゃ、「ベガ」は確かに敷居が高いと言えるから、しょうがないと言えばしょうがない。 商魂たくましい人だから、ちゃんとお金を払えるのか、心配するの。 アタシのお小遣いの額を知ってからも、あまりいい顔をしないのは、子供相手にお金をむしり取るのに抵抗があるからかもしれない。 愛想がないし、口が悪いけれど、根は優しい人なんだもの……そう善意に解釈しようとしているアタシって、健気? なのに、テンガさんはアタシを前に邪険に声を尖らせる。 「もう試験は終わったから、家庭教師の授業は終わりじゃないのか?」 確かに、先生の家庭教師の契約は県立高校の入試までだ。 でも、本命の高校はレベルが高いから、先生さえよければ、高校に入ってからも家庭教師を続けて貰っても良いかもしれないと、パパとママは言っていた。 週に数回だけれど、ちゃんとアタシの面倒を見てくれる先生を、二人は信頼しているみたいだ。 アタシとしても、「ベガ」に通い続ける理由が出来るから、お願いしたいんだけど。 「今日はテンガさんに用があって来たんです」 「何だよ、菓子作りでも教えろとか?」 そうか、そういう理由でここに来るのもありかも知れない。だって、テンガさんは従妹のセイカさんという人に、お菓子作りの手ほどきをしているのをアタシは知っている。 従妹と他人のアタシじゃ、態度は違うかもしれないけれど。自分から言い出す分には、テンガさんも教えるのもやぶさかではないらしい。 ちょっと距離が近づいたみたいで、嬉しくなっていると、 「言っておくが、材料費と講習料は貰うからな」 牽制するように言った。どこまで本気なのか、わからない。 「それはまた今度でいいです。あの今日は、ホワイトデーだから」 首を傾げるテンガさんに、アタシは手の中の包みを差し出した。 「これ、チョコレートのお返しです」 「お前、馬鹿? あれは報酬だって言っただろ。それを律儀に、お返しなんて用意してんだよ」 テンガさんは顔を顰めながらも、アタシからのプレゼントを受け取ってくれた。そうして、包みを開き中身を取り出して呟く。 「…………鍋つかみ、か?」 キルティングの布地で出来た手袋を目にして口にした言葉の言外に、「何だ、これ」と呆れているような嘆息が聞こえた気がした。 アタシは慌てて口を開く。 「だっ、だって、テンガさんはお菓子作りをするからっ! オーブンで火傷しないようにって、思ったの」 そうして選んだのは、キッチンミトン。我ながら、良いプレゼントだと思ったけれど、外した? ああ、やっぱり既製品はありきたり過ぎた? 本当はアタシだって、手作りしたかったけれど。試験が終わってから、ホワイトデーまでの時間が少なかったんだもの。 「こ、今年は受験で時間がなかったから買ったものですけど、来年は手作りにしますからっ!」 必死に言い募る。決して、手抜きじゃないんだからっ! お菓子は絶対にテンガさんが作ったものの方が美味しいから、食べ物ではなく実用的なものをと考えて、エプロンとか、キッチンタイマーとか、色々悩みに悩んで選んだの。 「てーと、何か? 来年も俺はお前にチョコレートをくれてやらなければ、ならないわけか?」 「……えっ?」 「手作りの鍋つかみ、作るんだろ?」 「あ、はい!」 「……お前、マジでおかしな女だな。普通、バレンタインは女が男にチョコレートを贈るもんだろ」 そう言いながら、テンガさんはクッと喉の奥を鳴らして笑う。 「俺にチョコをねだってどうするんだ、ボケ」 唇の端を吊り上げて、テンガさんはポンとアタシの頭を叩いた。 シャリンと、お店のドアベルが鳴る。お客さんが来たみたい。テンガさんはそちらに向かいながらすれ違いざま、 「ま、期待しといてやるよ。サンキュー」 アタシの耳元で囁いた。 いらっしゃいませ――と、相変わらず愛想の欠片を見せないテンガさんの声が遠い。 アタシの中で、心臓がとくとくと鳴っている。 胸の内側で跳ねる心臓の鼓動が、身体全体に反響して、他の音が聞こえなくなるくらいに……。 今の言葉、来年のプレゼントを受けとってくれるということ? また来年も、チョコレートを貰えるってこと? 深い意味なんてないのかもしれないけれど、それでも……。 期待に頬が緩むのを、アタシは堪え切れなかった。 穏やかな日差しに暖められた三月――春はもう直ぐそこ。 アタシの中で響きだした春の足音に、土の下に埋まっていた種が、こっそりと芽を出す。 ――春になったら、アタシの中の秘密の芽は、抱えきれないくらいたくさんの花を咲かせるだろう。 そうしたら、あの人に好きという言葉の花束を届けよう。 「ひめ星 〜春のあしおと〜 完」 |
余談・喫茶店「ベガ」を舞台にしたお話は、別シリーズにも存在します。
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