ひめ星 人間って、結構ギャップに弱いものだと思う。 怖そうに見えた人が、結構優しかったりすると、普段から優しい人より、何倍も優しい人に見えてしまうから、不思議だ。 あの人は――典型的なギャップ人間。 キラキラ金色に染めた髪と、いつも何かを睨んでいるかのような鋭い目。不機嫌そうに歪んだ口元と、やる気なんてなさそうな無愛想な接待。 愛想の良いマスターに比べたら、近寄りがたくて。ちょっと怖い。 そんな人をウェイターに雇うなんて、人材不足なのかな? と、思ったりしたけれど。話に聞けば、マスターの弟さんらしい。 現在、大学一年生っていう話だから、アタシより四つ年上。 すらりと伸びた背筋。白のシャツにジーンズ。その上に鮮やかなライトブルーのエプロンをつけている。 胸元にプリントされたロゴは「喫茶店ベガ」。 「ベガ」は楓町駅前の商店街の一角で、長身で愛想の良いマスターと無愛想なウェイターの兄弟が営んでいる、お店だ。 喫茶店なのに、マスターが作る洋食メニューがちょっと評判だったりする。 オムライスに、ハンバーグ、グラタンなどなど。洋食屋と言っても過言ではないような豊富なメニュー。特製デミグラスソースが、味のポイント。 勿論、マスターが淹れてくれるコーヒーや紅茶も美味しい。最近じゃ、ケーキなども結構人気になってきている。前は別のケーキ屋さんから仕入れていたって話だけど、今はお店の手作り。それがマスターの弟だっていう、あの人が作ったって言うから、それを最初に聞いたときは、ちょっとビックリした。 近寄りがたく、怖い人に見えるのに――とっても甘くて美味しいお菓子を作っているなんて、意外だったの。 紅茶セットにくっついていたクッキーを齧れば、口の中でホロリと崩れて広がる甘さ。こうばしい香りがアタシの中を一杯に満たして、何だか幸せな気分になる。 世の中には甘いものが苦手な人がいるって話だけれど、その人たちは人生の何割かを損しているんじゃないかな? サクサクと口の中に幸せを放り込んで、紅茶を一口。手のひらに包み込んだカップを傾けていると、アタシの視界の端をあの人が通り過ぎた。 斜め向かいの席のお客さんたちが帰ったから、テーブルの上を片付けようとしている。 「ベガ」に通い出して三ヶ月。もう既に顔なじみになったから、声を掛けるのも怖くない。 だって、アタシは知っているもの。 見た目は怖そうだし、愛想もなくて、口だって悪い。 けれど、お兄さん思いで、さりげないところで気が利く優しい人だって。 アタシ、ちゃんと知っているのよ? 「こんにちは」 なるだけ可愛く見えるように、上目遣いを試みる。どれだけ成功しているかは、甚だ疑問。鏡を覗けないし、返って来るのは全くもって無感動な視線だもの。 「ああ、アイツは?」 アタシを見ると、その人はやる気のない声で呟いて、アタシが座っている席の向かい側を見た。 アタシが一人だってことは既に承知しているはずだから、先生を気にしているのかしら? それとも、アタシが一人客だっていうのを確認? 後者だったら、いいな。 どっちかというと、中学生のアタシが代金をちゃんと支払えるのか、心配しているのかもしれない。 実際のところ、アタシが先生にここで勉強を教わっているのを、この人は良く思っていないみたい。三時間もテーブルを占拠されたら、お客さんの回転率が悪くて、売り上げに響く――とか。そんなことを先生に言っていた。 でも、アタシとしては、今さら違うお店なんて嫌。だって、この人との接点は、このお店の中だけ。先生のお友達だからって、外ですれ違っても、この人のことだもの。きっと、アタシを無視するに違いない。 他の大学生はどうかしらないけれど、この人にとってはアタシのような中学生なんて守備範囲外なんでしょ? 「今日は、遅刻みたい」 「今日はじゃなくて、今日もだろ?」 先生の遅刻癖を、鼻を鳴らして、冷ややかに指摘する。 おっしゃるとおり。 汚れた食器をトレイにのせると、テーブルの上を布巾で拭く。あっと言う間に片付いた。いつも思うけど、この人ってば手際がいい。無駄がないっていうか。 素早く、離れようとするのをアタシは慌てて引き止めた。 「ねぇ、先生の代わりに、勉強をみてくれませんか?」 「――はぁ? 何で、俺が」 面倒臭いと言いたげな顔がそこにある。一応、アタシだってお客さんなんだけどな。本当に、表情すら飾らない。愛想がない。 でも、挫けない。こういう人だって、知っているもの。 「勉強が早く終われば、それだけ早くアタシたちはお店を出られますけど?」 占拠されるのは嫌なんでしょ? と、目で訴えれば、眉がつり上がる。少し考えるような間を置いて、店内を見回す。 さっきのお客さんたちが帰って、店内は閑散と――別に繁盛していないってわけじゃない――している。 帰宅ラッシュが過ぎて、帰り際に立ち寄るお客さんたちのピークが過ぎたこの時間帯は賑やかだった店内も静かで、勉強には邪魔にはならない。 元々、家庭教師の先生に家で勉強を見て貰っていた。でも、この四月からママは職場で大抜擢され、仕事が忙しくなった。家に帰ってくるのは夜も遅く、パパも仕事人間だから、家ではアタシ一人で、お留守番。 留守番自体には、パパもママも対して心配はしていない。セキュリティがあるから、むしろ家の中にいればアタシ一人でも大丈夫だと思っているみたい。 その辺、親の勝手な言い分だと思うけれど、アタシとしては夜遊びする主義でもないから、黙って両親に従っている。 問題になったのは、週三回の家庭教師の時間。誰もいない家で先生と二人きりになるということ。 今まではママがいたから、家のアタシの自室でも良かったけれど。ママの帰りが遅くなった今、流石に問題だろうということになった。 ……よくよく考えれば、先生を信用していない失礼な話だ。 裏を返せば、アタシを心配してのことかもしれない。 テレビの報道番組の特集で、アタシと変わらない年頃の女の子が、夜の繁華街で一晩中過ごしているというのを見た。 その子達の親は、携帯電話一つ繋がっていれば、子供がどこにいても心配じゃないらしい。放任主義は、信頼よりも愛情の薄さを感じさせた。 そのことから自分のことを省みれば、ママやパパはアタシを鍵の掛かった家に、大事に閉じ込める。危険なことから守ろうという意思の表れだということにすれば、アタシは両親から愛されているんだと思う。 先生と問題があったらいけないというのも、心配の一つなんだろう。 だから、家庭教師を止めて塾通いにするかという話になった。でも、アタシは嫌だと言った。物分りの良い子を演じても、アタシにだって譲れないものがある。 先生には二年前から、勉強を見てもらっている。それだけの付き合いになれば、気心も知れているから、苦手な分野も直ぐにわかってくれて、先生はそこを重点的に教えてくれる。成績は上々。おかげで、県内一の進学校に進学希望のアタシは学校の先生からこのまま頑張れと、太鼓判を貰った。全て、先生様様。 先生には感謝している。だけど、アタシは先生に恋愛感情なんてないし、先生もアタシのことなんて生徒以上の感情はない。 良い生徒と先生の関係を、親の無粋な勘ぐりで壊されるのは嫌だ。 そこで先生は、勉強場所を別に移すことを提案した。 誰かの目があるところなら、安心でしょう? と、アタシの両親を説得して、選ばれた場所が「喫茶店ベガ」だった。 先生の大学の後輩の――ということだったけれど、どう見ても先生とこの人では、先生の方が年下に見える。傍から見れば上下関係など全くないような感じのお友達。だって、「アイツ」呼ばわりよ? ――お店だから、話も通しやすいということで、週に三日、夕暮れの忙しい時間を過ぎたお店で、三時間のお勉強タイムということになった。 そうして、アタシは先生の友達の――家庭教師を始める前、先生はこのお店でバイトしていたんだっていう。その頃、高校生のこの人は近くのケーキ屋さんでケーキ作りの修行というか、アルバイトをしていたらしい。そういう事情を知っているほどの知り合い――この人に出会った。 星が好きだったという亡くなったお父様の影響か、「天の河」と書いて――テンガと呼ぶのが、この人の名前。 「――どこだよ?」 食器類をカウンターに持っていくと踵を返して、テンガさんは戻ってきた。 ちょっと、ショックだわ。この人、本当にアタシたちを迷惑に思っているみたい。 嫌々ながらにアタシの前に腰を落ち着ける姿勢から、アタシたちを早々に追い出そうという魂胆が伺える。 ……でもでも、アタシに付き合おうとしてくれているのよね? 無視しても良かったはずだし、別に勉強の途中でも、「邪魔だ」と一蹴して、先生と一緒にアタシたちを放り出しても良かったはずなのに。 「早くしろよ、時間の無駄だろ」 これはきっと、アタシの時間を有効活用すべきだと考えての発言よ。受験生には、一秒だって無駄な時間はないはずだものね! 去年、自らが受験生だったテンガさんには、アタシの高校受験がきっと他人事には思えないのよ。 ……って、何てポジティブシンキングなのかしら。アタシって。 慌てて鞄から勉強道具を取り出す。教科書を広げるために、テーブルを占領していたカップなどを脇に避ける途中、お皿に残っていたクッキーを口の中に放り込む。 うん、甘い。美味しい。 よし、頑張ろう――って、やる気が充填される。 思わずにやけてしまうアタシの耳に、クッと、喉の奥を鳴らすような笑い声が入ってきた。 目を上げると、テンガさんの唇を捻じ曲げて笑いを堪えている姿があった。 意外な光景に呆然としていると、目が合って、テンガさんはニヤリと唇の端を釣り上げた。 「お前、おかしな女だな」 「えっ?」 「菓子一つで、顔が変わったぞ」 そう言って、ケラケラと声を響かせた。声だけを聞けば、面白がられて、笑われているのは間違いないんだけど。 ――笑った。 何だか、それが不思議だった。 当然、この人だって人の子だもの――アタシって、何様? ――笑うだろう。実際に、笑っている姿だって、見たことがある。 ただ、アタシの前で笑ったのは初めてで。そうして、アタシがこの人を笑わせた。 無愛想なこの人を――アタシが動かした。 それを実感すると、何だか表現に困る感情がアタシの中で渦巻く。 感動――と、言ってもいいかもしれない。今確かに、この人とアタシは繋がったの。 動けなくなったアタシの手から問題集を抜き取って、テンガさんはパラパラとページをめくった。 目が左右に素早く動き、アタシたちの勉強がどこまで進んでいるのか、把握しようとしている。 アタシはノートを広げながら、この人を好きだと思い始めたのは、いつ頃だったかしらと、記憶を反芻していた。 あれは、先生の到着を待ちながら食べていたショートケーキの苺を床に落としたときだったかしら? 楽しみにしていた苺がフォークに追い立てられるように、なす術もなくお皿から転がって、テーブルを片付けに来たこの人の靴の下敷きになった。 床に広がる赤い染みに、眉をひそめこちらを睨んだその姿に、アタシは次の瞬間、怒られると思った。 床を汚してしまったし、食べ物を無駄にしてしまった。 悪気があったわけじゃなかったけれど、ケーキを作った側にしてみれば、憤りを覚えてもしょうがないと思った。 実際、アタシが作った側の立場で似たような経験をしていた。 ママの帰りが遅くなるようになって、夕食はアタシが作るようになった。あまり上手とはいえない手つきでそれでも、仕事を頑張っているパパやママのためにと、毎日作っていた。 その日も指を切りながら、鍋のふたで火傷しそうになりながら、作ったのに。 折角、作った料理の皿をパパがひっくり返してしまった。 謝ってくれたら、アタシだって「しょうがない」と流せたのかもしれない。だけど、パパは笑いながら『こうなったら、俺の自腹で寿司でも食いに行くか』って言った。ママは『あら、得したわね』と喜んだ。 アタシの料理なんて、美味しいお寿司に敵わないのは、わかるけれど。 ひっくり返った料理が無造作にゴミ箱へと捨てられたとき、何だか、アタシの気持ちまで一緒に捨てられた気がした。 泣きたくて、叫びたくて、目の奥が熱くなった。唇が震えた。 そんな思い出が、床の上で潰れた苺を前に、一瞬にして蘇って。謝らなきゃと思うんだけど、テンガさんに睨まれた視線に舌が動かなかった。 そうしている間に、テンガさんは床の汚れを雑巾で黙々と拭って、立ち去る。 完全に謝るタイミングを逸してしまったアタシは、何だか自分が情けなくて俯いた。 悪気はなかった。けれど、悪いことをしたと思った。でも、謝れなかった。アタシは、パパやママに謝って欲しかったのに。 ぐるぐると、感情が巡る。 この感情をどうしていいのかわからなくなって、逃げ出したくなった。 そうしていると、去ったはずのテンガさんが戻ってきた。手には苺のショートケーキを載せたお皿。それはカチャリと音を立てて、アタシの前に降りてきた。変わりに食べかけのショートケーキが運ばれる。 目を瞬かせるアタシを残して、何も言わずに再びカウンターの奥へと去って行く。 何が何だかわからないままに、呆然としていると、遅刻してきた先生がアタシの様子に首を傾げた。 事情を話したら、先生はあの人に真意を問い質しに行った。でも、戻ってきた先生の口からは、『何のことか知らない』という愛想のない返答だったという。 何もなかったことにされた。 アタシの惨めさも、しょうがない――と、全部、受け止めて、包み込んで。 テンガさんは、何も言わない優しさで流してくれた。 怖い人だと思っていた印象が、その日の出来事から変わり始めた。 他にも、キッカケと思える出来事はある。 帰り際、雨が降りそうな曇り空を前に思案していたときのことだ。 持って行け――と、傘を貸してくれた。 真っ黒のコウモリ傘はぜんぜん可愛くない。いかにも男物。男物でも、最近はお洒落な傘もあるだろうに、無愛想なまでの真っ黒。 けど、だからこそ。その傘はテンガさんのものだってわかった。 『いいんですか?』と聞いた。 だって、自分の傘がなくなったら困るでしょ? 確か、喫茶店の裏手が住居になっているっていう話だけど。そこには、他にも傘なんてあるだろうけど。 持っていてもいいのかな? 迷っている間に空の雲が厚みを増して行く。堪えきれなくなった雨の雫が今にも空から降ってきそう。 『ネコババする気かよ、お前』 アタシを軽く睨みながら、テンガさんは言った。 『貸してやるんだよ。くれてやるわけじゃない。次に店に来るときに持って来い』 恩を売りつけるというより、喧嘩を売るかのような、ぶっきらぼうな口調。 だから、遠慮するのが場違いな気がして、アタシは傘を借りた。おかげで雨に濡れずに済んだこともあった。 雨といえば、逆の状況で、この店に来る途中で雨に降られたことがあった。 上半身濡れそぼった状態で、アタシは店の前に立ち尽くした。 そのまま店に入ったら、お店の床やソファを汚してしまうのは目に見えていた。ハンカチで髪とか拭ってみたけれど、とてもじゃないけれど、追いつかない。 じっとりと濡れるハンカチが重たくなって、でも、髪からは滴が落ちる。 先生に言って、今日の授業はなしにして貰おうと思った。 もう既に、このお店のファンになっていたアタシとしては、テンガさんのケーキが食べられないのは――勉強時間のオヤツとしてお店の代金は、先生の家庭教師代に上乗せされている――悲しいけれど、迷惑を掛けたら申し訳ない。 鞄を探って携帯電話を取り出そうとしていると、シャリンとベルが鳴った。「ベガ」のドアに取り付けられたベルの音に顔を上げれば、やっぱり、いつもと同じ不機嫌な顔をしてテンガさんがいた。 『んな所に突っ立って、営業妨害する気か、お前は』 怒った声でアタシを睨むと、腕が飛んできた。 言葉の迫力に殴られるような気がして、思わず庇うように持ち上げた手首が捕まれると、グイッと強引に店内に引き込まれた。 天気のせいか、お店にはアタシの他にお客さんの影がない。皆、真っ直ぐ家に帰ったんだろう。 バサリと、戸惑うアタシに向って、無造作にタオルを投げつけられる。あっと思う間もなく、タオル越しにテンガさんの指先がグシャグシャとアタシの頭を撫で回す。 『風邪なんてひかれたら、俺の寝覚めが悪くなるんだよ』 ブツブツとふて腐れたような声を吐いて、アタシの髪を乾かした。 『服はさすがに貸せねぇか』 テンガさんは小さく舌打ちして、アタシを店の奥の席に押し込んだ。それから暫くして、小さな電気ストーブを持ってきた。 『それで服を乾かせよ。それとこれを飲め』 温かいココアがテーブルに置かれる。 その瞬間――決定打を打たれた。 あの日、甘いココアがアタシの身体の内側に温かく染みるのと同じくらい、アタシはテンガさんの優しさを実感していた。 口は悪いし、ぶっきらぼうだけど。だけど、テンガさんはアタシのことを見ていてくれた。 手間の掛からない子――それが親や学校の先生たち、大人がアタシに与えた評価。 アタシは大人たちの期待に応えるように、物分りのいい子を演じてきたけれど。でも、それは見せ掛けだっていうのは、アタシ自身がわかっている。 家庭教師のことを譲れなかったのは、本当はパパやママに反抗したくて出来なかった結果の、最初で最後の我儘。 どこかで、アタシを気にかけて欲しいと思いながら、アタシはそれを言えない。 本当は寂しいの。でも、それを言ってしまったら、大人たちはアタシに煩わされて、アタシを面倒に思うだろうと、確信できる。 親なんて、どうでもいいと断ち切れないアタシは、報道番組の特集で見た女の子たちのように、夜遊びに家出をする度胸もないの。 嫌われるのが怖い。表面だけの愛情だとしても、そこに縋っていたい。そうして、いい子のふりをすれば、パパもママも喜んでくれるんだから。 なのに、それでもアタシの中で蓄積されていく寂しさ。 けどね、テンガさんの優しさに触れると、まだ大丈夫だって思える。 面倒ばかり掛けているアタシを、テンガさんは嫌な顔をしながらも、ちゃんと見てくれている。 それはアタシが、このお店の客だからなのかもしれないけれど。 それでも、この人の前だとアタシはいい子じゃないアタシでも、許されるような気がするの。 無愛想に、迷惑だって顔をされることも。睨まれて、怒られることも。 一つ一つが、アタシの存在に対して、真正面に向き合っている感じがして。 この人の目に、一人の女の子として映れたらと思うようになった。 「オイ、何見てんだよ」 いつの間にか、ジッと視線を注いでいたアタシにテンガさんは顔を顰めると、 「お前が見るのは、オレじゃなくてこっちだろ?」 広げた問題集をアタシの前に突き出して、見るからに難しそうな問題を指差した。 「まずは、解いて見せろ。どれぐらい理解しているのか、教えるのはそれからだ」 いきなり、命令。アタシは問題集に齧りつきながら、言った。 「――ヒメです」 「あん?」 「アタシの名前、ヒメって言うんです。お前じゃないです」 「姫? お姫さんのヒメか? ――お前の親も、もうちょっと、子供に対して相応しい名前をつけてやれって感じだな」 本当に、口が悪い。確かにアタシはお姫様には相応しくありませんよ。学校の演劇祭のお芝居では、シンデレラのお姉さん役でした。 「秘密の女の子なんだそうです、アタシは」 ちょっとだけ抗議するように唇を尖らせた。 そうして、問題に取り掛かる。難題を鮮やかに解いて、テンガさんに褒めて貰おうとやる気を出せば、 「何だ、それ。意味わからん」 頭の上でやる気を半減させる声が響いた。もう。 アタシの名前の意味――パパが言うには、花なんて咲かせなくていいんだって。誰にも内緒なんだって。 何のことかと首を傾げていると、ママが言った。 『お嫁になんて行かせないって言うのよ。パパとママだけのお姫様でいいって言うの』って。 わかるの。アタシはちゃんと愛されているって。なのに、寂しいと思うのは、きっと我儘もいいところなのよ。結局、アタシは子供なの。 ……やっぱり、こんな子供は大学生には眼中に入らないかもしれない。 そんなことを思っていると、少し前に流行っていたメロディが耳に飛び込んできた。顔を上げるとテンガさんが携帯電話に話しかけるところだった。 「――どうした、セイカ」 別人かと思わせるくらい優しい声が、女の人らしい名前を口にした。 えっ? と、衝撃にアタシの心臓はキュッと握られる。 微かに、電話の向こうから声が聞こえる。何を喋っているのかまではわからないけれど、女の人の声だということは確実に聞き取れた。 「ああ、そんなことか。いいぜ、いつでも。……あん? 迷惑じゃねぇよ。気にするな。……ああ、じゃあまたな」 信じられないくらい穏やかな表情で、携帯を切る。 アタシは目の前の事象に、思考が冷えた。好きだという感情に浮かれていた頭が冷静になる。今まで見えなかったものが、急に見えてきた。 ――今の誰? もしかして……彼女? そう考えると、ドクドクと心臓が震えだした。 アタシってば、馬鹿だ。この人に彼女がいるとかいないとか。そんなこと、一度も考えたことがなかった。 ……もし、彼女がいたのなら……アタシはどんなに頑張っても、この人のただ一人の女の子になんてなれない。 目の前が暗くなりかけた瞬間、割り込んできた声がアタシを現実に引き戻した。 「ゴメン、ごめん。遅れたね」 先生が頭を掻きながら現れた。テンガさんは鼻を鳴らして、席を立つ。 「ゴメンで済めば、警察なんて要らないだろうが」 「遅刻に警察を引き出すのは、テンガくらいだよ」 入れ違いに席に座った先生は、カウンターへと去っていくテンガさんを確認して、小声で笑った。 「もう少し遅刻してきた方が良かったかな?」 アタシの気持ちを知っている先生の遅刻は、確信犯だった。少しでも、アタシがこの店に長くいられるように、って。勉強が終ると、あの人に追い出されるのは目に見えていたから、先生はわざと遅刻してきてくれる。 そんな先生は、アタシを見ると首を傾げた。 いつぞやの時みたいに、アタシは呆然としていた。 「ヒメちゃん? どうしたの?」 「……さっき、電話があったの。セイカって、女の人。……もしかしたら、テンガさんの……彼女かもしれない」 不安を吐き出したら、泣きたくなってきた。 熱くなる目頭に、アタシは本当にテンガさんが好きなんだって、思う。 「――セイカちゃん?」 先生がパチパチと目を瞬かせながら、女の人の名前を繰り返せば、 「セイカがどうした?」 先生にコーヒーを運んできたテンガさんが、顔を顰めて問い返す。 「ああ、……ヒメちゃんが、セイカちゃんと話しているテンガにビックリしたんだって」 先生はそのままの事実を口にした。 ええっ? 言い訳するにしても、先生、そこはもう少し言葉を選んで欲しい。 アタシはもう泣いていいのか、慌てるべきなのかわからず、テンガさんを見上げていた。 「何で驚く?」 返って来る視線の鋭さは、いつものことで。 もう、怖いと思うはずないのに――舌が凍りつくような寒気を憶えた。 「……だって、顔が……」 「顔?」 「凄く優しかったんだものっ!」 無理矢理舌を動かして叫んでから、自分が口にした言葉の意味不明さに目眩を覚えた。 「オイ、…………ここは、笑うべきなのか?」 呆れたように、テンガさんは先生を振り返る。 「いや、まあ、セイカちゃんを知らない人間からすると、テンガの変わり身は驚くと思うよ?」 先生は苦笑して、アタシを見ると言った。 「あのね。セイカちゃんは、テンガの従妹なんだよ。星の河って書いて、セイカちゃん。テンガと同じような名前でしょ? 確か、オジサンが名前をつけたんだっけ?」 「いや、叔母さんも親父と一緒で、星好きだったからな。名前は、オレのが頭に入っていたから、似たようなものになっただけだろ」 「まあ、そんな感じで割りと近しい、テンガにとっては妹みたいなものだから。他よりちょっと接し方が柔らかいんだよね。何ていうかテンガって、身内には甘々だから」 「身内に甘くて、何か問題あるか?」 訝しげた表情で、テンガさんは先生を見据えた。 文句があるのか? と、言いたげな俺様的態度。そんな鋭い視線を受けて、先生はパンとテーブルを叩いた。 「それそれ。テンガって、温度差がありすぎるんだよ。ハッキリ言って、僕たち対する態度とセイカちゃんに対する態度、違いすぎるんだよね。何か特別な女の子だって、誤解しちゃうって」 「セイカを? アンタ、前からセイカを知ってて、誤解するな。第一に、セイカにはツキヤがいること、アンタ忘れたのかよ」 ……誤解したのはアタシなんだけど。 テンガさんは先生に視線を据えたまま、眉間に皺を寄せた。 目をキョトンとさせて、二人の間で視線をフラフラさせているアタシに気がついて、先生は笑った。 「セイカちゃんには、ツキヤ君っていう幼馴染の彼氏がいるんだよ。セイカちゃんはずっと前から、ツキヤ君が好きでね。バレンタインにチョコレートを贈りたいからって、テンガに教えを請いに来るくらい」 「……そう……なんですか?」 アタシはテンガさんに問いかけていた。 「まあな。さっきの電話も、ツキヤの誕生日にケーキ焼きたいから、教えてくれって話さ」 「セイカちゃん、器用そうだから一人でも作れそうだけどね」 「最終的には一人で作るんだけどな。予習に余念がねぇんだよ。アイツは」 「テンガの家系って、基本的に生真面目なんだよね。そこが善いところなのかも知れないけどね」 意味ありげに笑う先生の視線を受けて、思わずアタシは顔を赤らめた。 テンガさんの目の前でっ! 先生、困まる。 とはいえ、今での一連のアタシの態度で、気持ちなんてバレバレのような気もする。 できれば、高校生になるまでは内緒にしておきたい――中学生じゃ、子供だって軽くあしらわれそうだから。 こっそりと、テンガさんを見上げれば、もう既にカウンターへと戻っていた。 ――――早っ! ……アタシになんて、本当に興味ないのかも知れない。 セイカさんという女の人のことは誤解だったけれど。 アタシの初恋、前途多難の予感がするわ。 重たくなった気持ちに、自然と頭が下がる。俯いたアタシに先生の声が届く。 「あのね、ヒメちゃん」 顔を上げると、声を低くして先生は言った。 「テンガを落すつもりなら、長期戦を覚悟しなきゃ駄目だよ」 「そうなんですか?」 「うん。テンガはああ見えて、結構モテるんだ。気があったのか、どうかはわからないんだけどね。何人かの女の子とは付き合ったことがあるみたいだよ。でも、今まで一ヶ月と続いたためしがないんだ。どうしてか、わかる?」 先生の謎掛けに、アタシは考える。 それはテンガさんが、怖いから? 一瞬、確信に似た回答が頭に浮かんだけれど、即座に首を振って却下。 テンガさんがモテるのは、怖い外見に反して、本当はとても優しいから。他の女の人たちもそのことに気がついて、あの人を好きになったのよ。 だから、怖いなんて理由は別れの原因にはならない。 ならば……。 「もしかして、このお店?」 大学生の遊びたい盛りだろうに、テンガさんは毎日「ベガ」にいる。 「まあね、テンガは彼女や遊びよりもこっちを優先させるからね。人付き合いが悪い。まあ、元々愛想なんてないような奴だから、フォローなんてしないしね」 「……どうして」 「ご両親が早く亡くなったこともあって、テンガはお兄さんに育てられたようなものだからね。アイツにとってこのお店を盛り上げるのが、親孝行みたいなものかな。そういうの、ヒメちゃんならわかるでしょ?」 「……はい」 嫌われたくないくらい、大切な人がいる。 寂しさを隠して、物分りの良い子を演じても、アタシはパパやママに嫌われたくない。 それと同じくらいに、テンガさんは自分の時間を犠牲にしても、マスターであるお兄さんのために働きたいんだ。 お兄さんにそれくらい感謝して、お店を大切に思うから。 「ねぇ、ヒメちゃん。好きな人が振り返ってくれないのは、寂しいよね。でも、それでも――好きなんでしょ?」 先生の問いかけに、アタシは頷く。 パパもママも――そして、テンガさんも。 今はアタシを振り返ってくれないけれど――それでも、好き。 大好き。 何があっても、諦めたくない。 「じゃあ、頑張らなきゃね」 先生の応援の言葉に、アタシは力強く頷いた。 アタシの初恋はやっぱり、前途多難だけど。 この胸に芽吹いた秘密は、アタシの中で大きく育つから。 いつか必ず、あの人を振り向かせて。 ――綺麗な花を咲かせて見せよう! 「ひめ星 完」 |
余談・喫茶店「ベガ」を舞台にしたお話は、別シリーズにも存在します。
|続編・ひめ星〜春のあしおと〜 |恋星目次へ |トップへ |本棚へ|
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