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お題提供・色彩の綾

title.10  雨音の狭間


 空を暗く覆った雨雲からこぼれた雫は乾いた石畳に滴り、やがて白の部分を黒く塗りつぶしていく。
 今日の空は風の動きが目につき、天候が変わりやすいとセレリアーナが予測した通り、濃い灰色の雨雲が上空を流れる風にうねるように広がり、空に色を重ねていく。
 顔を上げたセレリアーナの頬を秋の冷たい雨が打った。熱く火照った彼女の頬に、まるで涙のように流れ落ちる雫を拭おうと持ち上げた腕が背後から取られ、引っ張られる。
「セレリアーナ、こちらへ」
 クロレンスに導かれ、彼女は通りの商店の軒下に入った。背後に落ちる雨音が徐々に大きく、雨足は激しくなっていく。
 セレリアーナは通りに目をやり、それから傍らに立つクロレンスの横顔を仰いだ。彼女より背が高い彼はセレリアーナの肩を軽く抱いて、店の方に押しやり己は通りの方に回り込む。軒先から滴り落ち、跳ねる大粒の雫がクロレンスの肩や足元を濡らした。渋栗色の上着はさらに色を濃くして、まだらに染まる。
「……クロレンス様、濡れますわ」
「気にするな、雨が降ると忠告してくれたのに、逆らった俺の責任だ。せめて、雨除け代わりに使ってくれ」
 軒下といってもそれほど前後があるわけではない。彼が庇ってくれなければ、セレリアーナのコートもまた濡れるだろう。
 そう、どうやら彼は、セレリアーナを庇ってくれているらしい。
 ――だから、どうして……。
 このクロレンスのさり気ない優しさが、セレリアーナを混乱させる。いつもは人を振り回して、苛立たせて、迷惑な馬鹿皇子であるはずなのに。
 責任転嫁だとしても、セレリアーナは騒ぐ胸の内をクロレンスに向かって投げつけたい衝動にかられる。でも、そんなことは出来ない相談だ。
 彼はクロイツ帝国の第二皇子で、セレリアーナは一介のメイドである。
 六年前までは大陸でも古い歴史を持つ、ファーブニル王国の姫であった。だが、大陸に広く信仰されている唯一神アインスの教義に異端とされ、彼女の故郷は滅ぼされた。
 多くの民人が魔女として処刑され、またセレリアーナも魔女として手配されていた。命からがら故郷を脱し、過去を秘密にしてメイドという身分に徹する彼女がクロレンスと対等になれるわけではない。
 クロレンスが馬鹿げた口説き文句を口にし、それをセレリアーナがメイドとして自らの立場守るために拒絶する場合にのみ、二人は周りから呆れられながら傍に居ることを許されていたことに、セレリアーナは気がついた。
 いや、今までそのことに気づかないふりをして来ただけなのかもしれない。本気になってしまえば、胸の奥に閉じ込めた感情を表に出してしまえば、この関係が壊れてしまうことを誰よりもセレリアーナは知っていた。
 だから、気づかないふりをしてきたのに……。
 今日、感情が上手く制御出来ないのは、ここがクロレンスの居城ではないからだろうか。エーファ城でなら、セレリアーナはやはりメイドで、クロレンスは馬鹿皇子と囁かれながらも彼女の主だ。
 決して、結ばれることのない身分の差をセレリアーナの理性は冷静に受け止めてきたのに、どうしても感情が溢れそうになる。
 ――大体、どうして……この人は、私に優しくするの?
 故郷を失くしたばかりの頃、彼に泣き顔を見られた。その後、クロレンスの近侍役に任命されると同時に一目惚れしたと言って、求婚された。その日から、クロレンスは馬鹿皇子と呼ばれるようになったわけだ。
 身分違いのメイドに恋をして、六年も口説き続けているその馬鹿げた行為は帝位争いを避けるためあえて、馬鹿なふりをしているという噂からすれば、セレリアーナを「利用している」ということで納得できないこともない。
 でも時折、クロレンスから本物のような優しさを感じる。今だってそうだ。
 ここには誰の目もない。利用しているだけなら、クロレンスが自らを濡らしてまで、セレリアーナを庇う必要はないだろう。
 もし、セレリアーナが彼の誘惑に屈して、本気になったら、どうするつもりなのか。
 皇子とメイド――その関係では、結婚など認められるはずがない。
 それがわかっているから、クロレンスはセレリアーナを「結婚しよう」と口説くのだろう。誰もを呆れさせて、ありえない馬鹿げたことだと思わせるために。
 ――それとも、本気だというの?
 この恋が叶うと信じているのだろうか。心の底から、クロレンスは自分を求めているというの?
 泣いていた少女の笑顔を見るために、皇子は道化を演じたというのか。
 ――違うわよね?
 クロレンスは帝位争いを避けるために、馬鹿なふりをしているだけだと、セレリアーナは思いたかった。
 どうしたって、この恋は叶うはずがないのだから。例え、少しでもクロレンスの内に本物の恋があったとしても、気づかせないで欲しい。
 セレリアーナは混乱から脱するように、声を絞り出した。
「……雨除けなどと、馬鹿なことを言わないでください」
 クロレンスの腕に指を掛け、ギュッと拳を握った。無理矢理、厳しい顔と声を作って皇子を見上げた。
「あなたに風邪をひかれては、私がアラン殿に叱られます」
 秘書官の名前を持ち出して、皇子とメイドのどちらがより重んじられるのか、セレリアーナはクロレンスに現実を突き付けた。
 アランはセレリアーナが風邪をひいたところで何とも思わないだろうが、体調を崩すのがクロレンスであったら、相当騒ぐに違いない。
 それが二人の差だと硬い声で訴えれば、額に落ちた金髪の影で、クロレンスの緑色の瞳が一瞬、翳った――ように見えた。
「セレリアーナ……俺は」
 少しだけ傷ついたような声が降って来るが、何も聞きたくないと、セレリアーナは頭を振った。
「さあ、こちらへ」
 握った腕を引き寄せて、向かい合う形ではなくクロレンスを自分の横に並ばせる。男の身体を動かせる力など、セレリアーナにはないのだが皇子は抵抗なく動いた。
 無理強いしない優しさで、折れてくれたのかもしれないと思うと、唇が震えそうになる。
 彼が避けた途端に細かい雨の雫が頬に飛んできたが、セレリアーナは俯くことで避けた。
 クロレンスの腕に掛けた手を引こうとしたとき、その上から大きな手のひらが乗る。
 小さな温もりを与えて来る手をセレリアーナは暫し、見つめた。
 彼の爪を切るのも、近侍役であるセレリアーナの仕事だ。いつも慣れ親しんだ指は、意外とペンダコが目立ち関節も節くれだっているのを知っている。手のひらの皮も硬い、剣士の手でもあった。
 一応、護身術を身につけておくのだと、城に常駐している騎士たち相手に稽古しているのを知っている。セレリアーナの仕事の休憩時間は彼もそういったことで時間を潰しているようだった。
 そして、その腕は城内を護衛なしで動き回れるくらいだから、相当なのだろう。でなければ、秘書官のアランがうるさく言うに決まっている。
 もしかしたら、明日からはクロレンスに対する秘書官の監視の目が厳しくなるかもしれない。もう二度と、こんな風に二人で外を出歩くことなんて出来ないかもしれない。
 そう思うと、セレリアーナはクロレンスの手を振り払う意気地に欠けた。
 今日は本当に、調子を狂わされる。雨の音すら遠く聞こえるようだ。
「……雨が降らなければ……もっと楽しめたのにな」
 ため息を吐くように、クロレンスの声が告げた。セレリアーナは視線を上げ、皇子から顔を逸らして空を見た。
「……雨はもうすぐ、止みますわ」
 既に空の彼方が薄明るくなっていた。雨雲も流れているから、長くは続かない。自然の声を受けて予言をするのが、ファーブニル王家の巫女たちの役目だった。セレリアーナは王家の巫女たちの中でも、精霊との交信力が高く、巫女姫と呼ばれていた。
「セレリアーナは天気がわかるのか。確かに先程より、空が明るくなった気がするが」
 滴り落ちる雨音の狭間で隣で微かな衣擦れの音がし、クロレンスもまた空を仰いでいる気配が伝わって来た。
「……育ててくれた祖母が、こういったことに詳しかっただけです」
 微かに背筋を強張らせ、セレリアーナは偽りの過去を口にした。
 大陸を広く支配する唯一神アインスの信仰は、天候もすべて神の御業と語られている。天災は人々に下す罰とされ、火山よって滅んだ町はファーブニルがアインスを信仰しなかった代償だとされた。そして、唯一神の許しを乞うために滅ぼされた。
 そんなアインス信仰がこの地にも浸透しているところへ、自然信仰はあまりにも危うい発言だ。
 ほぞをかむ思いで、セレリアーナはクロレンスの様子を伺う。こんなことくらいで、ファーブニルと繋げたりしないだろうが……。
「そうか」
 クロレンスはセレリアーナを肩越しに振り返って頷いただけだった。
「早く、晴れるといいな。そうしたら」
「――城へ帰りましょう」
 セレリアーナはクロレンスの言葉を遮って、告げた。
 例え、これが最初で最後の機会であろうと。
 ――もう駄目よ、これ以上は無理だわ。
 一緒に居れば、感情に制御が効かなくなるのをセレリアーナは自覚した。そうしたら、二度と戻れなくなる。自分が持つ秘密のせいで、彼の重荷になるのだけは耐えられない。
「城へ帰りましょう」
 二度、繰り返した。迷わないように、溢れそうな感情を閉じ込めるように、強く声を吐く。
 クロレンスが何か言いかけようとしたが、濡れた石畳の車道を猛烈な勢いで駆けて来る馬車の騒音に、口をつぐんだ。
 馬車は二人の前を通り過ぎた後、暫くして停まった。黒塗りの馬車から勢いよく人が飛びだしてくれば、それは件の秘書官アランだった。
「何をやっているんですかっ!」
 苦々しい顔つきで、肩を怒らせ小振りになった雨の中を駆けて来る。
 クロレンスは今日、城から馬車に乗ってやって来たと言っていた。一応、馬丁に口止めはしたのだろうが、城内で皇子が行方不明と騒がれれば、自然と口は割れるだろう。行き先がわかっていたのなら、アランがクロレンスを見つけるのも時間の問題だった。
 本来、今日の用事を済ませる予定だった菓子店から、セレリアーナたちが雨宿りしている場所はそう遠く離れていないのだから。
「今日は大事な客がお出でだとわかっていたでしょう?」
 アランは、セレリアーナを見ることなく、クロレンスに詰め寄る。
 ――お客様……?
 セレリアーナは一歩退いて、肩を竦めるクロレンスとこめかみに青筋を立てて怒りまくるアランを見守った。
 皇子へ直々の訪問となれば、相手はクロレンスが面談を断れないほどの大物。帝都からの客か。しかし、そんな予定があれば、城内で客を迎える準備が成されるはずで、メイドのセレリアーナに予定が知らされないということにはならない。
 だとすれば、内密な使い……。
 セレリアーナは胸騒ぎを覚えた。それと同時に、やはり今日の目的は自分ではなかったことに、どこかホッとしていた。
 クロレンスは帝都からの客の相手をしたくなくて、逃げたのか。その口実に自分を利用しようとしたのかもしれない。
「帰りますよ、殿下っ」
 アランに引っ張られ、クロレンスが雨の中、馬車へと連れて行かれる。セレリアーナはどうしたものかと立ち止まっていると、皇子が肩越しに振り返って言った。
「セレリアーナ、すまないが例の物を頼む」
「……えっ? ……ええ」
 例の物とは、菓子か。あくまで、クロレンスは馬鹿なふりをするつもりらしい。
 呆気にとられつつも、セレリアーナはその場に留まる。
 何のことだと、アランが問いたげに眉をひそめつつも、追求する時間が惜しいのか、クロレンスを馬車へと押し込む。
 小さくなりつつある雨音の狭間で、秘書官が苦々しく愚痴るのが聞こえた。
「まったく、フォーリスト候の来訪をすっぽかそうとするなんてっ!」
 パタンと勢いよく扉が閉じると同時に、馬車が方向転換して城へと勢いよく走り出すのを見送って、セレリアーナは茫然と立ち尽くす。
 ――今、フォーリスト候と言った?
 その名はセレリアーナも知っていた。クロイツ帝国の名門貴族の一家の長であり、現皇帝の廷臣の一人で、外交面を主に任されている貴族だ。
 そして……その昔、ファーブニル王国にも訪れたことのある人物だった。
 六年以上前は、ファーブニル王国も大陸の他の国同様に、他国と親交があったのだ。
 あれはファーブニル王国の建国千年を祝う式典だっただろうか。十五年以上昔のことだから忘れていたが、諸外国から訪れた大使を王家は持て成した。その場には、まだ子供だったセレリアーナも居た。
 不意に思い出した事実に、心臓がキリリと痛んだ。
 この危うい接近遭遇は、想像していなかった。いや、例え、エーファ城にかの御仁が訪れようとも、セレリアーナがハウスメイドである限り顔を合わすことはないはずである。
 でも、現在のセレリアーナはクロレンスの近侍役でもあった。
 今日、クロレンスに用事を言いつかって外に出ていなければ、フォーリスト候との接待場に自分が居たかもしれない。内密な客であるのなら、接待役のパーラーメイドではなく、セレリアーナが給仕をしなければならない可能性も捨てきれない。
 その事実に震える自らの肩をセレリアーナは抱きしめた。
 ――候が私のことを覚えているなんて、ないに等しいけれど。
 それでも、もしかしたら……ファーブニルの人間であることに気づかれたのならば、セレリアーナの命運が尽きていた。
 銀色の雨の向こう、小さくなる馬車の影にセレリアーナはまさか、と思う。それから希望を込めて、脳裏を過ぎった疑惑を頭から振り払うよう、首を振った。
 ――まさか、あの人が私の秘密を知っているなんてことは……。
 そんなことは、あり得ないと。
 祈るように、セレリアーナは小さく呟いた。


                             「雨音の狭間 完」



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