title.12 その眠り、妨げることなかれ
いい加減にしてください――と。
そろそろ自分はキレてもいいのではないかと、セレリアーナは外野の喧騒にふつふつとわき上がる苛立ちから、頬が引き攣りそうになるのを自覚した。
体調を崩しているこちらを気遣ってくれるのは大変、ありがたいと……この場合は、思わなければならないのかもしれない。
何しろセレリアーナは一介のハウスメイドである。本来なら高貴な人の目に触れることなく、部屋を掃除する下級の使用人だ。
そんな自分が風邪をひいて寝込んでいる現状に対し、主であるクロレンスが寝ずの番をして看病してくれているわけだから、ありがたがるべきなのかもしれない。
だがしかし、根本的に何かが間違っている。
そもそも、帝国の第二皇子であるクロレンスが、病に伏せっているメイドの看病で、どうして寝ずの番をするのだ? ――というところに、第一の疑問が浮かぶ。
帝国の辺境アルシュにあるエーファ城には、多数の使用人がいる。メイド仲間だけでも両手両足の指では足りないほどの人数がいるのである。
何しろ、城の主は帝国の第二皇子である。辺境に引っ込んでいるとは言え、次代の皇帝候補の一人なのだ。もっとも、クロレンスは皇帝争いを避けるべく、辺境に身を寄せたという噂ではあるが、一応は皇子である。
一応と言いたくなるのは、馬鹿皇子と囁かされるほど、常識を持ち合わせていない点だ。
メイドの看病を買って出るなど、明らかにおかしい。そのメイドであるセレリアーナに「結婚しよう」と求婚していることもまた常識外れであれば、振られても振られてもめげずに口説いてくることも、だ。
――馬鹿と言いたくなって、当然よね。
セレリアーナはうんざりと熱い息を吐いた。
現在、皇子の寝室で倒れて、丸一昼夜が過ぎていた。寝床を自分の部屋に移そうとするセレリアーナをクロレンスは許さず、彼女はメイド仲間に着替えを持って来て貰って、皇子の部屋で休むことになった次第だ。幸いにクロレンスには秘書官のアランがついていたので、余計な噂が広がることはないだろうと思われるが。
セレリアーナは再度、深いため息を吐いた。
その吐息の半分には呆れが滲んでいるが、もう半分にはクロレンスの求婚に、心揺さぶられる自分に対しての嘆息も含まれていた。
最初はただただ迷惑で雑音でしかなかったクロレンスの口説き文句に、いつしかセレリアーナは彼に対して恋心を抱いている自分に気づいた。
それは馬鹿げた口説き文句の端に、セレリアーナを笑わせようとする意図が僅かながらに垣間見えたからだ。
セレリアーナは六年前に、故郷を失くしていた。
唯一神アインスの信仰に、異端とされたファーブニル王国は炎にまかれて滅びていた。そんな故郷から命からがら逃げてきたセレリアーナは王家の姫君という肩書きを隠して、メイドとしてエーファ城に潜り込んだのだ。
多くのものを失くしながらも、それを表に出すことは許されない孤独にひっそりと泣いていた彼女を見つけたのが、クロレンスだった。
その後、一目で恋に落ちたと言っては求婚してきては、セレリアーナを振り回すような言動をとった。それらの行動にいつしか、悲しみは癒されていた。
その事実に気がついたら、クロレンスのさり気ない優しさにもまた気づくことになった。
何度も繰り返される求婚に、彼の本音が隠されているかと思うと、セレリアーナとしては皇子に向かって馬鹿と言いたくなる。
自分は異端の魔女の烙印を押され、現在はハウスメイド――ホウキや雑巾を片手に掃除に勤めるのが仕事の人間だ。
どう考えても、帝国の第二皇子であるクロレンスと釣り合う身分でなければ、結婚など出来ない相談なのだ。
誰もがその事実を知り得ているから、クロレンスを馬鹿と囁く。セレリアーナもまた同じだった。
決してこの恋が叶うことがない。いや、叶えてはならないからこそ、罠に誘うように甘い言葉を口にするクロレンスが憎たらしくなるのは、嫌い嫌いも好きのうちというわけなのだろうか。
――そんなこと、絶対に認めたくないけれど……。
外野の騒音から逃れようと、セレリアーナは自らの心の内に入り込んでみたが、導き出される答えには、うんざりさせられる。
何度考えても、どれだけ悩んでも、答えは決まり切っている。
万が一に、両想いになって、身分違いの恋が許されたとしても。
ファーブニル王国の王女という、セレリアーナの正体が知られたら、クロレンスの身も危うくなる。
帝国の皇子といえど、一国をやすやすと滅ぼした唯一神アインスの教義に刃向かうことなど出来やしないだろう。そんなことはさせられないし、そんな危険な重荷をクロレンスには背負わせたくない。
だとしたら、セレリアーナに出来ることは彼に対する恋情を胸の内側に閉じ込めて、クロレンスの求婚を拒み続けることだけである……のだが。
「さあ、セレリアーナ。湯船の用意が出来たぞ」
寝台に横になっているセレリアーナの方向へ身を乗り出すようにして、クロレンスが言って来た。暫く前からの騒音は、部屋に猫足付きのバスタブが運び込まれ、従僕たちの手によって湯が運び込まれていた音だ。何人ものが入れ替わり立ち替わり、湯を運んではバスタブに注いでいくので水音だけでも、相当にうるさく、セレリアーナの安眠を妨害してくれた。
薄く目を開ければ、金色の髪の間から緑色の瞳を瞬かせて、クロレンスはそっと微笑む。
見目だけはいい皇子の爽やかな笑顔には、一見したところ、好色の色はない。
だがしかし、発言には色々と突っ込みどころが満載だった。
「汗をかいただろう。このままでは身体が冷えてしまって、良くないと侍医は言っていた。なので、汗を流そうか。安心するがよい、俺が自ら手伝ってやろう」
彼の発言を耳にして、セレリアーナは熱に悩まされている重たい身体も何のその、手近にある装飾用の陶器の壺を両手に掲げて、底を皇子の脳天に叩きつけたい衝動に駆られそうになる。
実際に、セレリアーナの上半身はバネが弾かれたように跳ねあがり、手は壺の淵を掴んでいた。
――駄目よ、壺が可哀相だわっ!
セレリアーナはギリギリで己の激情を食い止めた。恐らく、ファーブニル王国に生まれついていなければ、躊躇なく皇子の頭をかち割っていたことだろう。
――ああ、もう少しで犯罪者になるところだったわ。
セレリアーナは自らの衝動に肩を震わせる。
精霊を信仰する習慣を持たなければ、間違いなく皇子を再起不能にしていたと――確信してしまうところが、何だかおかしいということに、彼女の熱に浮かされた頭は気づかない。
ただただ、手にした陶器の壺を胸に抱いて、「ごめんなさい」と壺に向かって心の内で詫びた。
ファーブニルは万物に宿る精霊たちを敬ってきた。花や樹木と言った自然ばかりに精霊が宿っているわけではない。壺もまた土から出来ているのなら、そこには土の精霊が宿っているのだ。
皇子が頭から血を流して倒れることに異存はないが、壺が砕け散ってしまうのは頂けない――と、少し思考が怪しくなってきていることにセレリアーナは自覚しないまま、思う。
心なし、セレリアーナの手の内で壺が冷たく震えているように感じた。
それはクロレンスの所業に対する怒りと風邪からくる熱のせいであるのだろうと、普通の者なら考えるところだが、ファーブニル王国の巫女姫と呼ばれたセレリアーナは精霊の怯えと受け取る。
その怯えが燃えたぎらんセレリアーナの怒りに対して――ということには、やはり気づかない。
セレリアーナは陶器の壺を慰めるように撫でつつ、自らに言い聞かせる。
――でも……これもきっと、馬鹿なふりの一環なのよね。
メイド相手に真剣な恋をしているように見せかけて、政争から遠ざかろうという、策の一つであるのだろう。
クロレンスが本物の馬鹿であるか否か、セレリアーナはまだ皇子の真実を掴めていない。今はとりあえず、彼女にとって都合のいい方を選ぶ。
――ちょっとしたおふざけなんだから、笑って許しましょう。
メイド仲間からは、冷静沈着と見なされているセレリアーナである。こんなことくらいで殺人に走るなど、あってはならない。そう言い聞かせる。
言い聞かせないといけないほどまで何やら追い詰められているのは、睡眠不足がたたっているのだろう。
昨夜、寝心地のいい寝台に横たわっていたにも関わらず、セレリアーナの眠りは浅かった。熱に浮かされ、睡魔に誘われ、眠った――と思うのも束の間。
看病していくれている――つもりであるらしいクロレンスが、呼びかけて来るのだ。
「大丈夫か、セレリアーナ?」「喉が渇いていないか?」「寒くはないか?」などなど。
心配しないでと、目で答えるとクロレンスは安心したように微笑むのだが、セレリアーナが眠りにつくとまた、声をかけて来るのである。
彼女の寝息が余程静かなせいであるのか、心配に駆られるらしい。そうして呼びかけられる度に、セレリアーナの眠りは妨げられては、病人らしく寝込むこともできないまま、昼間はこの風呂騒動だった。
昨日は何か重要なことを耳にした気がするのに、それが何であるかも熱に浮かされ考えられず、睡眠不足で思考がうまく回転しない。
それだけならいざ知らず、きっと鏡を見れば目の下には青暗い影が差して、折角の美貌が台無しになっていることだろうと想像すれば、セレリアーナの忍耐の糸は切れそうだ。
それでも理性で切れそうになる糸を繋ぎ合せようとするのだが、彼女の耳にはクロレンスの猫なで声が入って来る。
「まだ、身体を動かすのは億劫のようだな。では俺が脱ぐのを手伝おうか、セレリアーナ」
クロレンスの指が彼女の寝間着のボタンに伸びて来るにしたがい、彼女の肘は近づいてくる皇子の顎を捉えていた。もっとも、肘鉄が決まる前に秘書官のアランが皇子を寝台から引きずりおろしてくれていた。間一髪で、セレリアーナは傷害事件を起こさずに済んだようだ。
「如何にあなたが皇子であろうと、未婚の女性の服を許可なく脱がせるなど許されると思っているのですかっ?」
そうアランは言うが、出来るならクロレンスが看病役を言い出す前に、彼を放り出して欲しかったと、セレリアーナは思う。
今からだって遅くはない。クロレンスの首根っこを捕まえて、外に出てくれればセレリアーナとしても、秘書官を見直すところだ。
未婚の女性云々を口にするなら、クロレンスとアランに寝間着姿を見せてしまっている時点で、セレリアーナの乙女として立場は終わっているのではないか。
「俺とセレリアーナは結婚の約束を交わした仲であるから、問題はない」
「その認識が問題でしょうがっ!」
いいですか、あなたは皇子で彼女はメイドなんですよ――もう既に、何度となく繰り返した説教をアランは大音声で始めるにしたがい、ふっと乾いた笑いがセレリアーナの唇からこぼれ、やがて彼女は、
――もう、嫌っ!
と、頭から羽根布団を被って、寝台に潜り込む。
身分差の恋も、叶わぬ結婚も今は正直、どうでももいい。
セレリアーナは胸の内側で、切実に叫んだ。
――お願いだから、静かに眠らせてっ!
「その眠り、妨げることなかれ 完」