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お題提供・色彩の綾

title.13 心、乱されて


 キュッと、乾拭き用の布に擦られたガラスが音を立てる。その音は、窓ガラスが綺麗に磨かれている現状を喜んでいる声に聞こえるから、セレリアーナとしては嬉しくなる。
 思わず口元が綻ぶ彼女を、毎日毎日、単調な掃除仕事に飽き飽きしているメイド仲間が見たならば、何が楽しいのかと訝しげることだろう。
 セレリアーナが元は王族であったことを知れば、なおさらに――もっとも、そんなことは誰にも明かせないのだが。
 かつては一国の王女であったセレリアーナであるが、掃除婦――ハウスメイドという現状の立場に不満はない。暖炉の灰にまみれようが、雑巾の臭いに辟易しようが、磨いた物が綺麗になって行く様は心が躍るくらいに、喜びを感じる。
 彼女の労力にまた、ガラスは輝きを増し、暖炉では炎が赫赫と燃え、セレリアーナの身体を温めてくれる。すべては万物に宿る精霊たちが、セレリアーナに応えてくれている証拠だろう。
 彼女の故郷、ファーブニル王国は万物に宿る精霊たちを敬ってきた。その信仰は、唯一神アインスの教義においては異端とされ、王国は炎によって滅びてしまったが、生き残りであるセレリアーナは、異端の魔女と追われる現状であっても精霊を敬うことを止めることは出来なかった。
 故に、傍から見れば単調な掃除仕事も、彼女にしてみれば精霊との交感の儀式のようなものだった。
 それに、久しぶりの掃除仕事でもあった。彼女が休んでいた間は他のメイドたちが掃除をしてくれていたものの、やはり気合の入れようが違うらしい。ガラス窓は薄くくもっていた。そのくもりを拭い去り、透明度が増すのを見れば、力が入るというものだ。
「さすが私だわ。ここまで美しく窓ガラスを磨ける人なんていないわよね」
 くもり一つなく磨き込まれた窓ガラスに、セレリアーナは自画自賛した。
「窓磨き選手権があったのなら、きっと私が世界一よ」
 果たして、そんな大会があるものなのかは知らないけれど。セレリアーナの言葉を肯定するかのように、窓ガラスは陽光を吸いこんで室内を明るく照らした。
 ふうっと大きく息を吐いて、セレリアーナは掃除道具を収めた箱に雑巾を仕舞う。
 風邪で寝込んでからの仕事復帰の今日だ。さすがに五日ぶりに身体を動かすと、いつもはそうでもないことも大仕事を終えたような疲労感があった。
「身体がなまっているみたい……」
 セレリアーナは長椅子にそっと腰を下ろし、休憩することにした。
「まさか、五日も寝込むとは思わなかったわ……」
 この五日間を思い出せば、こめかみに軽い頭痛を覚えるのだが、それは風邪の影響では断じてないだろう。
 すべて、あの馬鹿皇子の所業に起因してのことだ。
 セレリアーナは自らの主の顔を思い出しては、口の中に苦さを感じた。
 倒れたセレリアーナを心配して付きっきりの看病をしてくれたのは、帝国の第二皇子クロレンスで、何故かハウスメイド――掃除係であるセレリアーナに近侍役を命じ、あまつさえ求婚するという、とんでもない御仁である。
 皇子の寝台を横取りし、五日間も占拠することになったメイドなど、ハッキリ言って前代未聞だろう。セレリアーナとしては断固、皇子の看病を拒みたかったところであるが、高熱にうなされた体調では抵抗できなかったのだ。
 そうして、なるだけ早く回復しようと試みれば、心配性のクロレンスに安眠を奪われ――眠りにつけば何かと声をかけられて、邪魔をされたのだ。おかげで、回復が遅れた。
 三日目に目の下に黒いクマを作っていた彼女に、クロレンス付きの侍医がそこはかとなく事態を悟ってくれたらしい。
 薬に睡眠薬を混ぜてくたようで、クロレンスの安眠妨害に邪魔されることなく、睡眠をとれた。
 やはり熟睡が良かったのだろう。二日後に完全回復にいたり、セレリアーナはクロレンスの迷惑な看病から脱することが出来た。
 全快宣言をするセレリアーナと入れ違いに、秘書官のアランが倒れて侍医の元へと運ばれたのは、予想外というか。予想通りであったというべきか……。
 クロレンスが不埒な真似を仕出かさないよう、秘書官もまた寝ずに付き合ってくれていたのだった。
「……後で、アラン殿にお見舞いの品を贈らなければね」
 皇子の傍らに常にアランが傍に居てくれたおかげで、セレリアーナの貞操がまだ守られていることを城内の皆も承知してくれるだろう。
 幾ら帝国の皇子自らが迫っているとはいえ、メイドのセレリアーナと結婚できるはずがないことは誰もが知っている。皇子とメイドなど、身分違いもいいところだ。
 セレリアーナを愛妾の一人にするということなら、皇子に味方する者もいたかもしれない。だが、クロレンスはあくまで結婚に拘っている以上、誰もセレリアーナとの仲を認めるわけにはいかない。
 城の皆は馬鹿皇子と影で囁いては、呆れている――本気にとれば、深刻度が増すので誰もが冗談ということにしているわけだが。
 秘書官のアランだけは、事態を真面目に心配していた。根が真面目なのか、それともクロレンスの本音を知っているからなのか。それはセレリアーナにはわからない。
 冗談のような口説き文句の、それを語る声や瞳にはまるで真実のような熱を感じることがある。身分差なんて関係ないと言いきってしまうその強さに、セレリアーナとしては戸惑ってしまう。
 ファーブニル王国の生き残りであるセレリアーナは、異端の魔女として見つかればアインスの教義の元に火刑に処される運命だろう。国で母や従姉妹たちが処刑されたように……。
 故に何があっても本来の身分は知られてはならず、メイドとして陰に隠れて生きていかなければならないのだ。
 だから、クロレンスとの恋なんてもっての外だ。例え、セレリアーナの心にクロレンスを慕う心があったとしても、それを公にするわけにはいかない。
 第一に、クロレンスは帝位争いを避けるために馬鹿なふりをしているという噂もある。メイドであるセレリアーナを口説くのは、身分違いの恋に浮かれている馬鹿な男を演じる口実なのかもしれないとすれば、皇子がどこまで本気であるのか、誰にもわからないというのに……アランだけは、他と反応が違っていた。
 そんなアランと言えば――、
「……今度はって、言っていた?」
 セレリアーナは寝込んでいる間、枕元でクロレンスとアランが交わしていた言葉を思い出した。
 あのときは意識が睡魔に誘われ、眠りの淵に落ちかかっていたので気にも留めなかったのだが、今思い返してみると、「今度は」ということは、以前にも似たようなことがあったということではないだろうか。
 アランが問題視しているのは、他でもなく皇子とメイドの身分違いの結婚だ。
 それと似たような問題ということは……身分違いの恋か、結婚問題か。
 クロレンスは以前にも、メイドに求婚していたということだろうか。
 いや、「今度は」と言ったのならば、相手はメイドではないはずだ。メイドであるのなら「今度も」と言うだろう。
 ……いつの話?
 やはり、皇子が帝都に居た頃の話だろうか。もしや、クロレンスが帝都プロフェートを離れたのは、それがあってから?
 クロレンスがエーファ城にやって来たのは、セレリアーナがクロイツ帝国に逃れてきた時期より半年ほど前だと聞いている。詳しくは聞けない。それを訊ねれば、セレリアーナが六年前以前に、帝国に居なかったことが露見しかねない。
 小耳に挟んだ部分から推測すれば、帝都からはクロレンス付きの護衛騎士団や騎士付きの従僕たち侍医や料理人などがついて来たが、城付きの使用人たちでは彼らの世話には手が足りずに、この地元アルシュで使用人を募集していたようだ。セレリアーナがエーファ城に潜り込めたのも、時期が良かったと言ってよい。
 そういうわけで、クロレンスの過去の評判を実際の意味で知る者は、城には少ない。騎士団の者なら知っているかも知れないが、彼らは貴族階級に属する者たちなので、使用人側から気軽に話しかけられやしない。
 そしてセレリアーナの情報源であるメイド仲間もまた、この地で雇われた者が多いのだ。
 彼らがこの六年、身近にした皇子だけを見て、馬鹿皇子と囁いているのだとしたら――秘書官アランの反応の方が、真実のクロレンスに近いと言うことなのだろうか。
 メイドであるセレリアーナに近づき過ぎるクロレンスに、懸念を抱いているということは――。
「……馬鹿げてるわ」
 セレリアーナは慌てて、答えに辿りつこうとする思考を頭から振り払った。
 クロレンスがメイドに本気で恋をしているなど、そんなことはあってはならない。
 秘書官が懸念していることも、クロレンスの評判を気にしてのことに違いない。あれでも、アランにとっては大事な主人であるのだから。
 アランの呟きも単なる言い間違いだろう。もしかしたら、朦朧としていた自分の聞き間違いかもしれないと、無理矢理に納得しようとするセレリアーナだったが、
『俺たちは出会ってしまったのだから、これは精霊の導きだ』
 不意に、クロレンスの声が鼓膜を叩くように蘇って、彼女は息を呑んだ。
 あの日、眠りの淵で聞いた囁き。それはアランの言葉より、セレリアーナにとってみれば重要な意味を持つ。
 唯一神アインスを信仰する帝国において、「精霊」の存在を口にすることは禁忌に等しい――それは幾ら、馬鹿を振舞うクロレンスでも承知しているはずだ。
 夢の中で聞いた気がしたその囁き、それがクロレンス本人の言葉だったとしたら……。
 それを意図的に使ったのだとしたら――クロレンスは……。
 震える両手の指先を組み合わせて、セレリアーナは祈った。
 どうかお願い、気づかせないで、と。


                         「心、乱されて 完」



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