秘密を閉じ込めて　title.14　捩じれた感情

title.14　　捩じれた感情

　個人が抱える秘密や悩みなどといったものは、悠久なる時の流れにおいては瑣末な問題でしかないのかもしれない。
　繰り返される一日の始まりに、メイドのセレリアーナは仕える主が眠る寝台のカーテンに手をかけ、開いた。
「おはようございます、殿下。お目覚めの時間です」
　そっと声を掛けると、待ってましたとばかりに暗がりから声が飛んできた。
「ああ、セレリアーナ。我が女神、我が天使よ。今日の君も昨日の君に負けず劣らず、美しい」
　室内に差し込む陽射しに姿を晒した帝国の第二皇子であるクロレンスは、額にこぼれた金髪の間から熱っぽい瞳を瞬かせ、うっとりと囁く。
　その言葉を聞いて、セレリアーナの意識は一億年ほど遠い未来か、はたまた過去か。よくわからない次元の果てに飛んで行きそうになった。
　それは他でもない、皇子の毎度毎度変わらない口説き文句の馬鹿馬鹿しさに、軽く絶望したせいもある。
　――ああ、そうよっ！
　セレリアーナはこめかみに青筋を立てながら、ふらつきかけた身体を必死に気力で支えた。
　薄い笑みが唇にはり付き、頬が引き攣りそうになっている彼女の様子など、まったく眼中に入れないで、爽やかな笑顔を浮かべたクロレンスはセレリアーナの手を取る。
「明日の君もまた美しいのだろうな。その美しさを俺一人だけのものにしたいという、欲望をわかってくれるだろうか？　我が愛しきセレリアーナよ」
　クロレンスは歯が浮くような口説き文句を垂れ流しながら、セレリアーナの指先を己の唇に運ぼうとする。
「どうか俺の妻になっておくれ、我が運命の人」
　皇子の吐息が爪に触れたところで、セレリアーナは彼の手を振り払った。
「私は殿下の女神でも、天使でもありません！　ただのメイドです、掃除婦です！　妻にも恋人にもなりませんっ！」
　かつてはファーブニル王国の王女であり、巫女姫と呼ばれた過去を持つセレリアーナであるが、それは国が滅ぼされた六年前の話である。しかも、異端の魔女として手配された過去がある以上、誰にもそのことは知られてはならない秘密だった。
　故郷を失った現在の彼女はクロイツ帝国の辺境にあるエーファ城に住み込みで働く一介のメイドでしかない。何の因果か、皇子の近侍役としてクロレンスの世話までがセレリアーナの仕事となってしまったけれど、セレリアーナは雑巾を片手にする仕事を手放してはいなかった。
　そして皇子とメイドという、越えられない身分差の壁がクロレンスとセレリアーナの間にあるはずだ。
　毎日毎日、口説き文句で求婚されているが、セレリアーナは一度たりとも彼の言葉に首肯したことはない。
　第一に、遥か昔、いにしえの信仰対象とされた、女神や天使といった偶像の存在は、唯一神アインスが降臨し支配する現世界では、精霊の存在同様に一種の禁忌、禁句になっていた。
　精霊を信仰するファーブニル王国を異端として、彼女の故郷を滅ぼしてから――それより少し前から、唯一神の異端信仰に対する審問の厳しさは激化していたが。
　アインス以外の信仰対象を認めないようになってからこちら、誰もが口にすることをはばかるようになった現在、「女神」や「天使」――ましてや「精霊」という禁忌の言葉で女を口説くために口にする者がいるなどと、セレリアーナは思わなかった。
　ほんの一瞬前まではっ！

　だが、居た。

　帝国の第二皇子たる者が、唯一神の教義にとって禁忌である存在を平然と口にしたっ！
　先日、クロレンスが口にした意味深な発言に、秘密が知られているのではないかと、危惧した彼女の不安を嘲笑うかのように、皇子は易々と禁忌を口にした。
　――私が悩んだ時間を返してよ！
　セレリアーナは相手が皇子であろうが、その首を絞めたい衝動に駆られた。
　愛しさ余って、憎さ百倍というのは、まことしやかな格言であると納得しそうになる。
　メイドとなったセレリアーナが皇子であるクロレンスと出会ったのは、六年前だ。彼女が十六で、彼は二つ年上だから十八歳の時。
　セレリアーナは、炎にまかれ滅ぼされた故郷から命からがら逃れ、クロイツ帝国の辺境であるアルシュに辿りついた。そこでメイドを募集していたエーファ城に身分を偽って、住み込みで働きだして約一ヵ月後、故郷を失くした心細さに一人で泣いているところをクロレンスに見られたのが、最初だ。
　その翌日だったか、クロレンスの部屋に呼び出され彼の近侍役を命じられた――本当は求婚されたのだが、それは固辞した。「一目惚れした」とクロレンスは言うが、セレリアーナとしては好意を持つ以前の問題だった。何しろ、顔を合わせたのは二度目だったのだから。
　そうして現在、クロレンスは何度振られようが気にすることなく、セレリアーナを口説き落とそうとする。六年にも及ぶ気の長さは、本気なのかもしれない。
　だが、気がないからこそ、続けられたことなのかもしれないとも思う。
　クロレンスが辺境に身を寄せているのは、帝都での皇位争いを避けるためと噂されている。皇帝に選ばれることを嫌って、敢えて馬鹿なふりをしているのだと秘かに囁かれていた。
　馬鹿なふりを演じる、そのためだけなら、メイドに何度振られたところで、クロレンスには痛くも痒くもないのだ。
　そのことを思うと、セレリアーナの心は微かに苦しさを覚える。
　同時に彼の求婚に応じられるはずがないことはわかっていても、彼が自分を思ってくれているかもしれないと考えれば、心がときめく。
　この六年の間に、時折垣間見る本物であるだろう優しさに触れたならば、報われない恋だと知ってもセレリアーナはクロレンスに惹かれていた。
　だから……だからこそ、彼に重荷を背負わせたくないと、この恋を拒んで秘密を必死に守っていた。
　そして、その秘密が知られているかもという可能性に、怯え、どうすればいいのか真剣に悩んでいたというのに。
　――この人にとって「精霊」も、きっと「運命」などといった、飾り言葉でしかなかったわけねっ！
　セレリアーナは辿りついた事実に、抑えていた感情が爆発しそうになる。
　もし、彼に秘密を知られていたのならば、と考え出してなかなか寝付けずに夜を過ごしてしまった。
　クロレンスがセレリアーナの秘密を知ったとして、唯一神アインスの名のもとに、魔女として処罰するとは思えない。彼の人となりはこの六年で見てきた。
　本気なのか、冗談なのかはわからないが、人を平気で傷つけるような真似はしない。それだけは確信できた。
　傷つけることを厭わないのなら、彼はセレリアーナの拒絶をものともせず、彼女を組み敷くことも出来ただろう。そこで人間性を問われても、皇位に興味がないと言うのなら、振られたところで痛くも痒くもないように、彼には傷一つ付かないのだから。
　例え、馬鹿なふりを続けるためにセレリアーナを利用しているだけだとしても、話を聞いてくれる余地はあるだろう。
　その辺りの誠実さは知っているつもりだった。
　――だからこそ、胃がキリキリするほど悩んだというのに、この馬鹿はっ！
　セレリアーナがクロレンスを睨むと、皇子は振り払われた己の指先を切なそうに見つめていた。
　伏せた瞳に落ちた翳が真に迫って見えるから、セレリアーナの怒りの気勢は瞬く間に削がれ、違う感情が胸の奥で疼く。
　セレリアーナはエプロンのスカートをギュッと握って、震えそうになる身体を意識で縛った。
　――止めて……。
　そんな風に傷ついた顔を見せないで――と、喉の奥から声が溢れそうになる。
　何度も心に言い聞かせ、彼の真意を探らずに来た。あえて見て見ぬふりをしてきた感情に、彼の口説きが本物だと答えを出しそうになってしまうから、止めてほしい。
　――私はここに居たいのよ……。
　セレリアーナは声にならない声で、心の内側で訴える。
　メイドという身分が、セレリアーナの過去を隠してくれるというのもあるのだが。同時に、メイドである限り、クロレンスの傍に居ることも許されるのだ。
　でも彼の恋が本物であったなら、クロレンスが求めるのが「結婚」である以上、皇子とメイドという身分差のある二人の関係を周りは許しはしない。
　クロレンスが皇帝位に興味がなくとも、他の者もそうであるとは限らないのだ。
　馬鹿なふりと噂されている間はまだ構わない。本物の馬鹿になってしまっては、彼を推す人々の中には困る者もいるだろう。
　そして、彼が本気で自分を愛してくれているとしたら――セレリアーナとしては、身を引くしかない。クロレンスの重荷にだけはなりたくないのだ。
　今までは漠然と思うだけで、真剣に考えてこなかった。あえて目を瞑っていたが、もしも秘密がクロレンスに知られたら、もしくは知られていたら……そのときは。
　――城を出るわ……。
　セレリアーナはそっと心で決意した。
　クロレンスがセレリアーナを魔女として、アインスの教団に引き渡すことがないとしても、彼が秘密を守ると言ってくれたとしても……。
　――もうここには、居られない。
　彼の本心を知ってしまったら、己の内にある恋情が止められなくなってしまうのをセレリアーナは知っている。
　きっと甘えたくなる、縋りたくなる。でも、それは駄目だと理性が告げる。
　――だから、お願い……。心を見せないで。
　好きだから傍に居たい。でも、好かれたら傍に居られない。
　捩じれた感情の行きつく先は、ただ一つ。
　最初から、何一つとして変えられない。変えてはいけないのなら……。
　目元が熱くなるのをセレリアーナは顔を逸らし、息を吐き出すことで沈めた。
　そうしていつもの冷静な声音で告げた。
「さあ、殿下。起きて、朝食をお取り下さい。お勤めの時間が迫っております」
　クロレンスに背を向けて、セレリアーナは食卓の用意を整え始める。
　彼女の背後で「つれないな」と苦笑交じりの小さなため息が聞こえたが、カチャリと鳴らした食器の音で、気づかないふりをした。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「捩じれた感情　完」