title.16 君だけに贈る詩
小さな花束を前に、彼女は優しく微笑んだ。まるで花に話しかけるかのように緩く綻んだその唇に、俺の心は掻き乱された。
初めて彼女を見つけたあの日と変わらない笑顔に覚えたのは、愛しさよりも……
セレリアーナは、手にした紙に綴られた文字を見やって息を詰めた。
寝椅子の下に落ちていたその紙切れの心当たりを探れば、二時間ほど前に遡る。
吐き出した息が白く形を作った冬の朝、セレリアーナはお仕着せの黒いワンピースの上にフリルで裾を飾った白いエプロンを身につけ、主である帝国の第二皇子クロレンスの寝室へ朝食を載せたワゴンを押して廊下を急いでいた。
既に一度、彼の部屋に入って暖炉の火を熾している。もうそろそろ、室内も暖まったことだろう。
朝食のスープが冷めないうちに、かの皇子を叩き起こさねば、と。
セレリアーナはワゴンの取っ手を握る手に力が籠るのを自覚した。使用人階段の脇には、厨房から直通の小さな手回し昇降機が設置されていた。それを使えば三階への移動の際に冷めてしまうスープもまだ熱々だ。寒さが徐々に本格化してくるこの季節では、一分たりとも無駄には出来ない。
――もっとも、既に起きて今か今かと待ち構えているかも知れないけれど。
毎日の日課のように、クロレンスは開口一番にメイドのセレリアーナを賛美し、求婚を迫るのである。
――メイドの私にねっ!
下手すれば、否、まかり間違えば――間違ったら困るだろうが――皇帝になろうかという御仁が、下級使用人であるハウスメイドにちょっかいを出すのならいざ知らず、求婚するなど、どんな馬鹿だと言いたくなる。
実際に、城内では馬鹿皇子と囁かれている現在において、セレリアーナも心の中では思う存分、馬鹿呼ばわりさせて貰っている。
彼の言葉に表面上は冷静沈着にすげなく拒絶して対応しているセレリアーナであるが、胸中は熱っぽい瞳に見つめられる度に揺さぶられていた。振り回され、翻弄される毎日の意趣返しで、心にも――もとい、半ば本気で馬鹿ではなかろうかと疑りながら、愛のある罵倒を絶対に表に出せない心の中で繰り返す。
ふうっと、再び白い息を吐き出し心を静め、クロレンスの寝室のドアを開け、セレリアーナはワゴンを室内に慎重に運び入れた。
絨毯に車輪をとられ、転倒でもしてしまったら目もあてられない散々たる事態になる。
皇子が空腹に飢えようともセレリアーナの知ったところではないが、食材が無駄になることは許せないし、絨毯が汚れてしまうこともまたハウスメイドという仕事に命をかけていると言っても過言ではない彼女であった。
何故なら、セレリアーナは大陸を支配する唯一神アインスの教義においては異端とされ、滅ぼされたファーブニルの王女であった。多くの者たちと同じように魔女として処刑される運命にあった彼女が、国を出て、隣国のクロイツ帝国でちょっとばかり掃除にうるさいメイドという偽りの姿で、周囲の目を誤魔化しているのだ。
もし異端の魔女という秘密が暴かれ、アインスの教団に引き渡されようものなら、セレリアーナの命運は尽きる。
だから彼女は王女という過去を捨て、メイドに徹していた。ファーブニルの異端とされた精霊信仰は、万物に宿るすべての魂を敬うというものである。
絨毯や花瓶の一つ、窓ガラスの一枚でさえ、セレリアーナにとっては敬い愛おしむ存在である。塵一つなく掃き清め、埃一つなく磨き上げる行為は精霊たちへの奉仕でもあったので、苦にはならなかった。
むしろ、嬉々として掃除に励む彼女を誰も王女などと疑う者はいない現在であった。
ワゴンを室内に運び入れ、顔を上げたところでセレリアーナはギョッと目を剥いた。
右側の壁に頭を向けるようにして置かれている天蓋付きの寝台。そのカーテンが開かれ、布団の中身がもぬけの殻になっているのである。
使用人が起こしに来るまで、怠惰に眠りを貪るのが上流階級の人間である。
主人より先に眠ってはならないし、主人より遅くは起きてはならない。それが使用人に課せられた義務である――ファーブニル育ちのセレリアーナには実に馬鹿馬鹿しい、帝国の貴族主義の暗黙のしきたりが目の前で破られていた。
今は使用人に徹し、皇子を起こす日課が当たり前になっているセレリアーナにとっては、動揺するなという方が無理な相談であった。
慌てて視線を彷徨わせると、寝台の向こう側、中庭向きのテラスへ出るガラス戸の手前に置かれた寝椅子に彼はいた。肘掛部分に背中を預け、横向きに腰かけている。
寝巻の上に厚手のガウンを羽織った帝国の第二皇子は、軽く折り曲げた右足の太ももの上に置いた紙の束に羽根ペンを走らせ、何やら文字を綴っているようだった。
いつもなら開口一番、セレリアーナを口説きにかかるクロレンスであるが、今はセレリアーナに気づいている様子もない。
酷く真剣な横顔は、端正な顔立ちだけに黙って見る分には観賞に値する。もっとも、折角の艶やかな金髪が一部、ピンと跳ね上がって明後日の方向に寝癖をつけているのを覗けばであるが。
勿体ない、果てしなく残念だと思わせるのが、帝国第二皇子のクロレンスであった。
一瞬、クロレンスに見惚れかけたセレリアーナであったが、彼の残念さに気がついて我に返った。
セレリアーナは小さく息を吸って、いましがたの動揺を冷静沈着なメイドの顔の下に仕舞いこむ。背筋を伸ばし、両手をエプロンの前に添え、それから厳かな声を吐きだした。
「おはようございます、殿下」
彼女の声にクロレンスが顔を上げる。緑の瞳のぼんやりとした焦点が、夢から現実に醒めるかのような間を置いて結び、皇子は微笑んだ。
「ああ、セレリアーナ、おはよう」
――あら?
挨拶に続いて垂れ流されるだろう口説き文句が、クロレンスの口から洩れないことにセレリアーナは戸惑った。
起こされる前に起きていたことといい、クロレンスの通常と違う態度に、セレリアーナの心は焦る。
口説かれないということは、彼が自分に飽きたということなのだろうか。それならそれで、構わないはずなのに、心の奥にチクリとした小さな痛みを感じた。
「何を成されているのですか?」
微かに上擦った声が彼女の唇からこぼれた。
らしくないと、セレリアーナはキュッと唇を結ぶ。
――別に、どうでもいいじゃない。この人は……。
絶対に、結ばれるはずがない相手なのだから。
そう心に言い聞かせるセレリアーナの耳に、クロレンスの朗々とした声が飛び込んできた。
「ああ、これはだな。俺とセレリアーナの壮大なる愛の軌跡を後世に残すべく、恋愛叙事詩を書き綴っているところだ。どれ、一つ君に贈る詩を朗読しようか」
コホンと、喉を鳴らしてクロレンスは声を響かせた。
「燦然たる光を受けて、我が愛しきセレリアーナは微笑む、その微笑に大気は震え雲は踊り、我の心は舞い上がり、空を駈け天を突きぬけ、月の舟へと乗り込み、星の海を泳ぎ、いざ行かん、我らが愛の園へ」
―― 一人で行ってください、と。
拳を叩きこんで、突っ込みを入れたい衝動を彼女は手のひらの内側で握り殺した。
クロレンスの言葉を受けて、セレリアーナは赤く燃え盛る暖炉の炎に虚ろな視線を向ける。
そうして、詩と呼んでよいのか? それを詩と呼ぶのは詩人たちへの冒涜であろう、意味不明のものを詠いあげる皇子の声を遮って、口を開いた。
「今日は一段と冷えますね、殿下。もっと火を起こした方がよいのではないかしら…………何か焚きつけを」
碧の瞳をクロレンスへと戻すと、紙の束は消え、皇子の寝間着の懐がたんまりと膨らんでいた。どうやら彼は、燃やされるのを危ぶんで、隠すことに決めたらしい。
セレリアーナはクロレンスの対応に、心の奥でホッと安堵する。
会話の流れで実際に書き物を燃やすというのは、セレリアーナの望むところではないし、万が一そこに彼が文字を綴っていた場合、彼女としては対処に困る。
冗談とも本気ともおぼつかない会話なら、幾らでも聞かなかったふりでやり過ごせる。だが、文字に記されていたのなら、彼の気持ちを知ってしまうことになりかねない。
そこに文字があったのなら、なかったのなら。
メイドに本気で恋をする馬鹿な皇子か。それとも政争を嫌い、敢えて馬鹿なふりをしている策士か。
――お願いだから、気づかせないで。
秘密を抱えるセレリアーナは、メイドであり続けなければ、クロレンスの傍には居られないのだ。
彼の恋心を知ってしまったら、もうただのメイドではいられなくなる。
だから、気づかせないで欲しいと、心の内で叫ぶ。
「いや、十分に暖かいと思うぞ、セレリアーナ」
「そうですか?」
小首を傾げたセレリアーナにクロレンスはふっと唇を緩めた。
「そのように寒いと申すのならば、俺が人肌で君を温めよう。さあ、恥じらうことなく我が胸に飛び込んでおいで」
そう言って、両腕を広げながら立ち上がれば、寝間着の懐から紙の束が床へと散る。バサバサと紙が木の葉のように舞い、絨毯の上に散らばる。
――何してくれるのよっ!
「お断りします」
セレリアーナはきつく声を叩きつけ、慌てて紙を拾い上げるクロレンスに背を向け食卓の用意をはじめた。
手伝うなんて、絶対に出来ない。
その後、クロレンスは紙を拾い集め、寝台脇のチェストの引き出しに仕舞い込み、セレリアーナは皇子を急かして朝食をとらせ、その他もろもろを手伝い、彼を朝の政務へと送りだした。
そうして寝室の片付けに取りかかった際に、寝椅子の下で見つけた、この一枚の紙片。
続きものの途中だろう、そこに綴られたクロレンスの文字に、セレリアーナの心臓はギュっと掴まれる。
一瞬、皇子の本気を見た気がした。だが。
――いいえ、違うわ……。
紙に書かれているだろう出来ごとに、心当たりがないわけではない。クロレンスに頼まれ街に買い物に出かけた時のことだろう。
でも、何かが違うと、脳裏で冷静な声が囁いて彼女の動悸を鎮める。
――だって、私があの人に初めて会ったのは……泣いていたときよ。
故郷を失ったばかりで心細く、人目のないところで泣いていたセレリアーナをクロレンスが見つけた。それが六年前の出会いだ。
ここに書かれていることがセレリアーナのことならば、虚偽が含まれているのは事実だ。
それに彼が感じたのは、愛しさではないという。
それもまた真実か、虚構か。文字ですら、クロレンスは本心を見せやしない。
――ずるい人ね……。
振り回されて、翻弄されるこちらとしてはいい迷惑だ。だが、心が見えない分、傍に居ることを許された気がするのも、確かだった。
セレリアーナは紙を小さく折りたたみ、そっとポケットの内側に忍ばせた。
「君だけに贈る詩 完」