title.17 君は入れない
「殿下、お茶の時間です」
セレリアーナは時計の針が三時半を回る頃、クロレンスの執務室のドアをノックした。
「ああ、お入りなさい」
扉越しに応答する声は、秘書官アランのものだ。了承を得、セレリアーナは静かに扉を押し開け、執務室に茶器や湯沸かし器 を載せたワゴンを運び入れた。
午前中の十時と午後の今、クロレンスは約三十分ほど休息を取る。もっとも、秘書官が目を離せば、執務室を抜け出して掃除に精を出しているセレリアーナの前に姿を現しては飽きもせずに、口説き文句を唇にのせるのだが……。
今日は午後の掃除が邪魔されなかったことからして、秘書官が勝利したらしい。
どっしりと構えた重厚な執務机がドアの正面に当たる部屋の奥と、右手側の壁近くに置かれている。正面は勿論、クロイツ帝国の第二皇子クロレンスのもので傍らの机は秘書官アランのものだ。二つの机とは別に、もう片方の壁寄りには長方形のテーブルが置かれていた。それはときに書類や地図を広げたりするのに使う。
中央の政治とは距離を置いているが、一応、この辺境の地アルシュを皇帝に代わって治めているのがクロレンスだった。
しかし、実際にどこまで皇子が領地運営に携わっているかは、一介のハウスメイドであるセレリアーナには知り得ぬ領域であった。
メイドであるセレリアーナに求婚しているクロレンスは、陰では馬鹿皇子と囁かれていた。だが、帝位争いを避けるために敢えて馬鹿を装っているという噂もあるクロレンスであったから、セレリアーナの視界に入らないところでは意外と有能なのかもしれない。
――あくまで、かもしれないという、可能性ではあるのだけれど。
静々とワゴンをテーブルの脇に寄せながら、セレリアーナは視界の端でアランとクロレンスを眺めやった。
金髪に緑色の瞳の端正な顔立ちの青年が、帝国の第二皇子クロレンスだ。一見、見目が良いので、外見に騙されそうになるが、ときに寝癖をつけたまま、ときに最悪の服装センスを垣間見せ、そして年がら年中、メイドであるセレリアーナを口説き落とそうとして――と。
セレリアーナはクロレンスの道化染みた姿しか見せて貰っていない。
それは大陸に広がった唯一神アインスの教義に於いて異端と断じられ、故郷ファーブニル王国を滅ぼされたセレリアーナの悲しみを癒し、皇子に心を揺さぶられる結果にはなったが、セレリアーナにはクロレンスの真意の掴みどころのなさに戸惑うことでもあった。
皇子とメイド――身分違いの恋に、果たしてクロレンスは本気なのか、冗談なのか。
本物の馬鹿なのか、演技なのか。
――わからないのよね……。
秘書官のアレンが、実は見かけによらず有能なのかも知れないという可能性もあるのだが、セレリアーナにしてみればちょっとばかり首を傾げる諸所の出来事があった。
何しろ、本来ならば掃除婦として雇われた彼女が、クロレンスの近侍役としてこうしてお茶の時間の給仕まで勤めることになったのは、皇子の間抜けな脅しに秘書官が屈したことにあったからだ。もう六年になるので、今さらではあるのだが。あの時、アランがもっとしっかり皇子の手綱を握っていてくれていたならば……。
セレリアーナとしては、叶わない身分違いの恋に苦しむこともなかったはずなのだ。それは八つ当たりなのかもしれないけれど、心の中でくらいは愚痴を吐かせて欲しいと、彼女は切実に願う。
そんな無能疑惑の目を向けるセレリアーナを余所に、アランは立ち上がった。
「では、今日はここまでにしましょうか」
まとめた書類を傍らに抱え、クロレンスの方に横顔を向け問いかける。
「この後、殿下は騎士団の方に向かわれるのでしたよね」
既に席から立ち上がり、セレリアーナの手を握っていたクロレンスは、「ああ」と声を吐きだした。
――いつの間にっ!
驚愕に目を剥くセレリアーナの硬直など歯牙にもかけず、クロレンスは熱っぽい声で囁きかけ、
「セレリアーナが俺の一時の不在を許してくれるのであればだがな。だがしかし、燃え上がる二人の愛は片時も離れることを拒み、我らは手を取り合い、愛の園へと駆けだすのであった」
勝手に愛の物語を完結させた。
「駆けだすのは、お一人でどうぞ」
セレリアーナは務めて冷静な声で言い放ち、クロレンスの手から自らの指を引きぬいた。
――油断も隙もあったものじゃないわっ!
心に怒りを浮かべることで、彼女は心臓の動悸を誤魔化そうとした。溢れそうになる本音は誰にも知られてはならない。
「君も苦労しますね」
同情満点の真顔でアランに言われて、セレリアーナは複雑な笑みを浮かべた。
「いえ」
この任に、私を巻き込んだのはどこの誰かしら? という、皮肉に頬が引き攣りそうになる。
「ああ、私の分のお茶は要りません。少し図書室で調べ物をしますので」
「わかりました」
「それから殿下、明後日の件、お忘れなきよう。この間のように忘れていたと許される相手ではありませんからね。大体、書簡で片付けようなんて、お門違いもいいところです」
アランがキッと睨みつければ、クロレンスは珍しく渋面を覗かせた。いつもならアレンの小言に対しても、飄々と素知らぬふりをするだろうに……。
――どうしたのかしら?
小首を傾げるセレリアーナにアランは視線を戻した。
「セレリアーナさん、殿下から説明があると思いますので、そちらの方よろしくお願いします。では、御前、失礼いたします」
部屋を辞した秘書官に一礼して、セレリアーナはクロレンスに説明なるものを求めて、目を向けた。
彼はテーブルの席について、茶を所望する。アランが言う用件に触れたくないのだろうか。セレリアーナは茶菓子のケーキを切り分け、クロレンスの前に置いた。
「今日のデザートはパイ皮で作ったケーキだそうです」
何度も折り重ねて作ったパイ生地の間にクリームを挟み、それを何層にも重ねたケーキの表面をチョコレートで覆ったデザートの説明をした。
チョコレートはステイロ公国では「ショコラ」と呼ばれ、かの国の宮廷では人気菓子だとか、クリームはチョコレートとの相性を考え、甘さを控えたという、菓子職人の口から聞いたことを伝えた。それに合わせて、茶葉もいつもとは違うものを選んだということも。
「ふむ、ここのところ、菓子に詳しくなった気がするが?」
クロレンスが軽く片眉を吊り上げて、セレリアーナを見上げてきた。彼が訝しむのにも同意しないではない。皇子がいう最近まで、セレリアーナは用意された菓子に茶を添えて出すだけだったのだ。
ここのところ、お茶の時間の菓子に解説がついて回るのは、菓子を直接作った料理人がセレリアーナに話しかけて来るからに他ならない。
先日、使用人食堂で、セレリアーナに薔薇のゼリーを試食しないかと言ってきた料理人は、菓子専門の作り手のようだった。
砂色の髪に淡い水色の瞳の青年はデレクと名乗り、帝都で菓子作りの修業をした後、こちらの職場を紹介されて二カ月ほど前にやって来たと、雑談混じりに自己紹介した。
年は二十四歳で、皇子と同い年になるという。クロレンスの堂に入った態度と比べると頼りないというわけではないが、同年代には見えなかった。
そんなデレクははにかみながら、帝都では食文化の最先端を行くステイロ公国の職人の下で学んでいたと過去を語った。最先端の調理技術を持っていることが、彼にはひそかな自慢なのかもしれない。ゼリーやチョコレートといったクロイツ帝国ではまだ珍しい菓子を積極的に作っている。
帝国でもチョコレートと同じ原料を粉にしたココアは興奮剤として気力を充実させるということで飲み物として、貴族社会には普及しているが――技術面に対しては、ステイロ公国には遅れをとっていた。
そうして、セレリアーナが食事をとりに食堂に赴くと、デレクは待ってましたとばかりに接近してくる。こちらに好意があるのかと疑ったが、セレリアーナからクロレンスの好みなどを聞きだそうとする部分は、仕事がらみだったのかもしれない。
それでも、焼き菓子などを皆に内緒でと、セレリアーナに差し出しては頬を赤く染め、照れ笑いを見せるにいたり、まったく気がないというわけでもないようだ。
デレクの本心の在処はさておき、表向きは皇子の求婚を拒絶しているセレリアーナであるから、想い人が居ることを悟られぬよう、彼の赤面には気づかないふりで務めていた。
問いかける皇子の視線に、菓子職人と顔見知りになったのだと、セレリアーナはデレクのことをクロレンスに告げた。
皇子の覚えがめでたくなれば、デレクとしても本望だろう。差し入れの菓子の礼は、これで返せるかしら? と、セレリアーナは心の内側でちらと計算した。
「……そうか」
少し考えるような間を置くクロレンスに、今度はセレリアーナの方から切り出す。
「ところで、殿下。アラン殿がおっしゃっていた、明後日の件とは?」
「……ああ。……ちょっと、ここから一日ほど西に向かったデュエールに呼ばれてな」
デュエールというのはアルシュと同じ、都市の名だ。規模は辺境であるこちらとは比べ物にならないが。
「どなたに?」
セレリアーナの問いかけが聞こえなかったかのように、クロレンスはセレリアーナと手を取った。
「ああ、セレリアーナ。君と離れて過ごすなど、俺には考えられん。想像するだけで心が張り裂けそうだ。二人、手を取り合い、誰も知らない愛の園へ」
「お一人でどうぞ!」
セレリアーナは再び、クロレンスの手から逃れた。
彼の熱に触れた指先に、血が集中するかのように熱くなる。手が触れられたくらいで、動揺してしまう自分を恨めしく思いながら、セレリアーナは皇子に茶の用意を始めた。お湯で茶器を温め、ポットに茶葉と湯を入れ、葉を蒸らす。抽出している間に冷静さが戻って来ると、クロレンスに誤魔化されたような気がした。
彼は誰と逢うのか、知られたくないらしい。呼び出しを断れないということは、クロレンスにそれなりの影響力がある御仁だろう。
アランの言葉を思い出せば、フォーリスト候ではないようだが。侯以上に蔑ろに出来ない相手であるのは間違いあるまい。
――離れて過ごす……。
同時に、外出の際にセレリアーナの同行は不要のようだった。
余計な随行人を減らしたい意図で、身の回りの世話は、アラン辺りが担うのだろうか。
――それとも……。
他の思惑があって、自分はこの場に置かれたのだろうか。
セレリアーナはクロレンスとの間に、線を引かれた気がした。彼の内情を知る立場にはないと、壁を作られた気がした。
皇子とメイドとの間に、最初からあったはずの境界線を気づかぬうちに無きものとしていたのは、セレリアーナも同様だったのかもしれない。
胸に苦い思いが過ぎった。自分を戒めるよう顔を逸らし、唇を噛むセレリアーナの耳にクロレンスの声が柔らかく触れる。
「そうだ。折角だから君に、土産を買ってこよう。何か欲しいものはあるか、セレリアーナ?」
こちらを見上げてきた緑の瞳に、セレリアーナは心の底から告げた。
「殿下が無事にお帰りになること、それだけで十分ですわ」
ただ傍に……。
それがこの上なく贅沢な望みであることを、セレリアーナは実感していた。
「君は入れない 完」