title.19 寂しさのため息
「セレリアーナさん?」
名前を呼ばれ、セレリアーナはハッと我に返った。顔を上げれば、こちらを見つめ少しだけ困惑した顔を見せる青年がいた。砂色の髪に水色の瞳の彼は、辺境アルシュにあるエーファ城で少し前から雇われた菓子職人のデレクだ。
帝都で、食文化最先端を行くステイロ公国出身の職人の元で修業したという彼は、帝国の宮廷でも珍しい菓子を作ることができた。その関係で、雇われたらしい。
エーファ城でも新入りに等しいデレクは、セレリアーナが城の主である帝国第二皇子のクロレンスお気に入りのメイドだということを知らないのだろうか。
彼は、セレリアーナの顔を見かけるたびに親しげに話しかけてきては、手作りの菓子を差し入れてくれる。
皇子に本気かどうかわからない、口説き文句で求婚される日々を送ってこの六年、誰にも言い寄られることのなくなったセレリアーナとしては、デレクの親しさは恋に憧れる乙女心をくすぐられると同時に、少しばかり困惑もしていた。
――私、どうしてこの人と、こんなところにいるのかしら……。
セレリアーナはふと、疑問に思う。
現在、二人がいるのはエーファ城の城下にある一軒の菓子店であった。店の一角に客がくつろげるスペースが作られ、買った菓子をその場で食すことができた。
二人は、そこで丸いテーブル席に着き、白磁のティーカップに紅茶を注ぎ、チョコレート菓子やフルーツを盛ったタルトや焼き菓子などを前にして、向かい合っていた。
同じ年頃の男女であるから、傍からどう見られるかは、わかりきったものだろう。
デレクに巷の流行り菓子を知りたいから、少し付き合ってくれないかと誘われた。
本来ならハウスメイド――掃除婦であるセレリアーナであったが、六年前のある日、クロレンスに見染められた形で皇子付きの世話役も担うことになった。
その肝心の皇子は、先日から西の都であるデュエールに出掛けている。何でも第一皇子エルバートからのお呼びがあったらしい。
どういう用件があったのか、一介のメイドであるセレリアーナの預かり知れぬところであったが、クロレンス不在の間――約五日ほど、彼女は特別の休みを許されていた。
もっとも、故郷を失くしたセレリアーナには帰る場所などなく、クロレンスの帰還を待つしかないだけで、特に用事もなかった以上、デレクの誘いを断る理由もなかった。
何しろセレリアーナは、クロレンスの求婚をことごとく拒み続けているのである。
ただ単に、彼女が一人身であるのはそのクロレンス相手に恋の鞘当てをしようという者がいなかっただけというのが、周囲の認識であった。
皇子とメイドという身分違いをセレリアーナは重々弁えて、クロレンスのことなど何とも思っていないとみなされていた。
身分違いの境界線を越えたところで、いいように遊ばれて捨てられる。そんな前例は過去に幾らでもあったから、セレリアーナがクロレンスを拒むのも周囲から黙認されていた。
何故なら、クロレンスは次期皇帝候補である。彼側としても醜聞は避けたいであろう。
クロレンス付きの秘書官や執事、メイド頭といった人々がそれとなく目を光らせてくれていることで、セレリアーナの拒絶も問題にされることはなかった。
もっとも、クロレンスの求婚は世間体の評判を誤魔化す演技であるとも噂され、本気ではない可能性もあったのだが、どちらにせよ彼女の故郷、ファーブニル王国が精霊を信仰するが故に唯一神アインスの信仰の下、異端とされ炎に巻かれ滅んだことも、その王国の王女であったセレリアーナが精霊たちの声を聴く能力にたけた巫女姫であり、魔女として手配されていることなど、何一つとして明かすことができない秘密であるなら、クロレンスへの恋慕も公に出来なければ、義理立てするというのもまた不自然だった。
セレリアーナはデレクに瞳を返し、
「ぼんやりして、ごめんなさい」
と謝った。それから「美味しそうね」と、彼から視線を逸らしてテーブル上の菓子に無邪気に喜んで見せる。
紅茶のカップにそっと口をつけながら、セレリアーナはちらりとデレクを盗み見た。
彼もまたセレリアーナと同じように、菓子をしげしげと見つめている。
最先端の菓子文化を知るデレクにとっては、表層にぼったりと塗りつけられたチョコレートは中に包んだ菓子との調和がなっていないと思っていそうだ。
ここのところ、皇子に出す菓子についての説明を聞かされているセレリアーナは、彼の心の内を探る。
――単に流行を知りたかっただけ?
デレクに他意がなければ、何も心配する必要はないのだが。
もしもほんの少しでも、セレリアーナとの間に男女の関係を求めているのならば、今日の誘いを受けた時点で、こちらに受け入れる余地があることを示したことになってしまうのだろうか?
誘いを受けるにしても、一人では不味かったかもしれないとセレリアーナは後悔を覚えた。他のメイド仲間も一緒に連れて来れば、誤解は少なかっただろう。
もっとも、デレクにその気がないとなれば、セレリアーナの早合点で、一人赤面ものであるが……。
「セレリアーナさんが、ぼんやりしていたのは……」
彼はチョコレート菓子を自分用の小皿にとりながら、何気ない風を装い言った。
「殿下のことを考えていたから?」
「……え? どうして、殿下のことを?」
セレリアーナは目を丸くして、意外だと驚いて見せる。
実際のところ、鋭いところを突かれて別の意味で驚いていた。
この二人きりの外出は、秋頃にクロレンスと二人で城の外に出た日のことを思い出させていた。あの日、皇子はセレリアーナを連れまして過ごすつもりだったらしいが、生憎の雨に邪魔をされた。
あの日もまた、クロレンスは帝都からの客を迎える予定だったらしい。今回の遠出の件と言い、クロレンスは何故か、セレリアーナにその辺りのことを知られることを嫌っている様子であった。
それが気にならないと言えば、嘘になる。クロレンスの真意がどこにあるのか、セレリアーナとしては関心を抱かずにはいられない。
だが、皇子の真意を知ることを自らに禁じてもいた。
彼が本気でセレリアーナを妻にと求めていたのなら、彼が語る熱っぽい口説き文句が本心であったとしたら……。
故郷を失った悲しみを、クロレンスが道化のように振舞うことで、いつしか癒され、そして皇子のさり気ない優しさに惹かれていたセレリアーナとしては、嬉しくないはずがなかった。
だが、異端の魔女である以上、クロレンスに我が身を預けるわけにはいかない。
受け入れられないのであれば、今まで同様に拒絶するしかない。それならば、馬鹿なふりをする演技の一環であったほうがいい。さすれば、傷も浅くて済むだろう。
「セレリアーナさんは殿下のこと、何とも思っていないの?」
デレクが真っ直ぐにこちらを見つめて問うてきた。
この間、クロレンスは作っている菓子職人を確かめたかったのか、デレクを食卓に呼びだしていた。食卓を整えるセレリアーナの前で二人は、ステイロ公国での流行り菓子の話題を口にしていた。特別、変わったことはなかったが、デレクにはその際に感じるものがあったのだろうか。
何も問題がなければ、迷うことなく頷けただろう。
しかし、明かすことができない秘密を抱えるセレリアーナにとってみれば、ここは慎重にならざるを得ない。
万が一、デレクがこちらに対して好意を抱いていたら……下手な期待を抱かせることも避けたい。
クロレンスと結ばれることはないとしても、セレリアーナの心は皇子に惹かれてしまっていたのだから。
だけど、それもまた彼女の過去同様に、誰にも知られてはならない秘密であった。
「長年、お仕えしているのだから、何もということはないわ。道中、体調を崩されたりしないといいと、思うわ」
「でも、皇子は……セレリアーナさんのことを」
デレクの言葉にセレリアーナは小さく笑った。
「本気だと思っているの? 私はメイドなのよ?」
「それは、そうだけど。でも……全然、可能性がないわけじゃないと思うな」
「周りが許すとでも?」
そんなことはあり得ないと、セレリアーナは首を振る。
「だけど、身分が低い女性を奥方に迎えた貴族も帝都にはいたよ? 確か、色々と手をまわして、その女の人を別の貴族の養女にしてとか」
「……でも、その女の人はメイドではなかったでしょう?」
デレクが言うような裏工作の話はセレリアーナも聞いたことがある。だが、その女性も貴族階級の末端に属していたという話だ。
所詮、雲の上の話よね、と――メイド仲間たちは笑っていた。
ハウスメイドは、下級使用人だ。もしセレリアーナが上級使用人で、クロレンスが下級貴族辺りであったら、そういう裏工作も出来たかもしれない。
だが、クロレンスは帝国の将来を担う皇帝候補なのだ。どうあったところで、メイドを妻にすることなど出来やしない。
第一に、そんなことが可能であったのなら、どうしてクロレンスは動かなかった? この六年、彼はセレリアーナを口説くだけで、二人の間に横たわる身分問題に関して具体的な解決策を示したことはない。
それは示す必要がなかったからではないの?
本気ではなかったから。または、こちらの拒絶を真摯に受け止めたから?
……私の秘密を知っていたから?
だから、皇子とメイドという、この距離をセレリアーナが望んだように、クロレンスも望んだ結果だとしたら。
まさかと、セレリアーナは心の内側で否定した。そんなことはあってはならない。
「馬鹿な話はよしましょう……。紅茶が冷めてしまうわ」
セレリアーナは店の外に目を向けた。窓の向こうは冬の頼りない陽光に灰色に染まっていた。室内は暖炉が焚かれていることもあり、外気との差で窓ガラスは少し曇り気味だ。
「……馬車の移動も寒いでしょうね」
車内に火鉢などを持ち込んで、暖をとるにしても、長時間の移動は堪えるだろう。一応、騎士団に混じって身体を鍛えているクロレンスであるが、肉体が強いからといって寒さに強いということにはならないだろう。
彼には毛皮を裏打ちした厚手のマントを持たせたが、ちゃんと身につけているだろうか。
セレリアーナはつい小姑のように、心配してしまう自分にため息を吐いた。
この感情を寂しいなどと、認めるわけにはいかない。自分はメイドで、クロレンスは帝国の皇子。それだけの関係なのだ。
「寂しさのため息 完」