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 3,帰り道


 私は階段をゆっくりと降りた。昇降口に向かうと、冴樹はそこで私を待っていた。
 私のことなどどうでもよく、もう帰ったと思っていたから驚いた。
「神野さん、一人で帰るのか?」
 首を傾げる冴樹の影が建物内に長く伸びていた。十月を過ぎると、日は驚くほど短くなっている。
「……ええ、真っ直ぐ帰るつもりだけど」
「じゃあ、一緒に帰るか。帰り道が同じなのに、別々に帰るっていうのも変じゃねぇ?」
「そうね」
 何度となく、登下校で顔を合わせることから、彼が学校裏の丘にある住宅地住んでいるらしいことは知っていた。私の家はその丘の中腹辺り。
「鬼堂君の家って、丘のどの辺りにあるの?」
 靴を履き替えながら問う私に、冴樹は答えた。
「登りきったところだよ。古いけど、大きな家があるんだが、知っているか?」
「……ああ、あの家」
 私は頷いた。坂を上るにつれて家々は疎らになる。そして、登りきったところにはポツンと建っている古い家が一つ。
 三年前にこの街に越してきたとき、探検と称して一度だけ坂を上ったことがある。用がなければ住人以外は誰も登らない坂の、その先で見つけた古い家。当時から誰も住んでいなかった。
「ご家族と住んでいるの?」
 私は答えを知りながら、冴樹に問いかけた。彼が本当に私の知っている鬼堂冴樹本人であるのか、確認するためだ。
「家族っていうか、兄貴が一人だけ」
「ご両親は?」
「うーん、まあ、訳ありってことで勘弁してくれ。それよりも神野さんは?」
 話をはぐらかすように冴樹が問い返してきた。
「私のところは、父と姉と妹の四人家族よ」
 三年前とはすっかり家族構成が変わってしまった。
 もしも、冴樹が私のことを覚えていたら、さぞかし変な顔をするだろう。そう注意深く整いすぎていると言っても過言ではない横顔を観察する。
 すると、彼は青灰色の瞳で真っ直ぐに私を見返してきた。
「神野さんのところも、訳ありって感じだな」
 妙に悟った顔つき。それが何を意味するのか? ――一瞬にして、私の家族構成を理解するには難しいと思っていた私は、冴樹の反応がわからずに首を傾げた。
「えっ?」
「お袋さん、いないみたいだから」
「……ああ。去年、病気で……」
「それは悪いことを聞いた」
「いいの……」
 申し訳なさそうな顔を見せる彼に私は笑って、首を横に振った。
 母が病気で亡くなったことは、私にとって辛かったし、心痛かった。
 でも、その現実を突きつけられて泣くほど、私は弱くない。
 ……というよりも、泣けなくなっていたのだけれど。
 我慢しているつもりなんて、何もない。でも、涙がこぼれない。
 あの夜の日、泣いてから。
 それに、治らない病気で苦しむ母親を見続けていたかもしれない可能性を思えば、母にとっても私にとっても、あの死は救いだったはずだ。
 今はそう思うようにしていた。
「じゃあ、家事とかも大変じゃねぇ? 俺も兄貴と二人暮らしをしているからわかるけど。掃除とか、面倒だよな」
「うん、まあね。でも、姉もいるから家事はそれほど大変じゃないの。うちの姉は綺麗好きだし、私は料理とか作るの、結構好きだったりするから。大変なのは妹の世話かしら」
「妹……小さいんだ?」
「うん。まだ、二つだから」
「…………そりゃ、大変だろうな」
「妹は可愛いのよ」
 私にとってはいまや、唯一、血のつながりのある家族だ。可愛くないはずがない。
 だけど同時に、家の中で中途半端な私の立場をいやおうなく自覚させる存在でもある。
「保育園に預かってもらっているんだけど、熱とか出しちゃうと引き取りに行かなければならないの。それで、小さい子って何でもないようなときにでも、熱を出しちゃうのね。そうすると、私か姉が学校を早退して迎えに行かなきゃならないの。学校側もそういう事情を理解してくれているんだけど、たまたま同じ教科の先生のときに重なったりすると、それがあらぬ疑いを持たれちゃって、面倒なんだけど」
 そっとため息を落とす私に、冴樹はふーん、と鼻先で頷いた。
 熱のこもっていないその反応に私はホッとした。
 深刻になられても困るし、かといって妹の存在をちょっとでも面倒と思ってしまった私を詰られるのも考えものだ。私だって色々と懸命にやっているつもりだ。それでも疲れてしまうときがある。愚痴をこぼしたくなるときもある。
 もちろん、こんなこと家族の前では言えない。
 だから、冴樹についついこぼしてしまったのだけれど。
 言った後で、後悔した。でも、そんな私に気付いたわけではないだろ。だが、冴樹の曖昧な態度は私にはありがたかった。
「あらぬ疑いって、さぼりとか?」
 クスリと笑って、冴樹が問う。
「うん、そう。まあ、あまり授業内容の評判がよくない先生なの。本人も自覚しているみたいだけど」
「それを認めるのはプライドが許せないって、か」
「……そうね」
 私は頷いた。
 暫く、無言のまま並んで歩く。
 校舎を回って、裏門へ。丘の上の住人は裏門から学校を出るのが近道だった。
 校舎の裏はグランドと体育館、プールなどの施設がある。そこらでは部活動にいそしむ生徒たちの活気が充満していた。
 この学校は市の外れにあって、裏に山がある以外は――山というより丘なのだけれど――周りを田園風景に囲まれているようなところだ。だけど、進学校として名を馳せているばかりか、スポーツの名門として評判が高く、田舎の高校にしては志願者が多い。
 そんななか、スポーツ特待生として入学してきた彼らは暗がりに沈むなかでも、遅くまで活動していた。
 私たちが歩く道の傍ら、グランドでは陸上部やサッカー部の面々が所狭しとグランド内を駆け回っている。
 グランドと学校外を隔てるフェンス越しに、彼らを見やって私は沈黙を破った。
 普段の私は沈黙というのが嫌いではない。静かにしろ、と言われれば、苦もなく沈黙を守り続けることができる。
 けれど、今は沈黙が苦痛だった。
 黙っていると、どうも思考がそちらに向かってしまいそうだった。
「鬼堂君は、部活動とかする気はないの?」
「え? ああ、そういうのはなぁ……」
 冴樹はグランドに目をやって、ちょっとだけ眉間に皺を寄せた。
「身体を動かすのとか、嫌い?」
「いや、それはないけど」
 スポーツ万能な冴樹なら、どんな部でも即戦力として活躍できそうだ。体育の授業での活躍を聞いていると、冴樹自身が苦手意識を持っているようでもない。興味がないだけなんだろうが。
「俺には奴らみたいに目的意識なんてないからさ。それに目立つのって嫌いなんだよな」
「目立つのが嫌いって……それって、矛盾していない?」
 十人中十人が振り返るような美貌で、目立ってしょうがない活躍を見せておいて、目立つのが嫌いというセリフはおかしい。
「まさか、こんな評判になるとは思っていなかったんだよ。それに、俺って中途半端に手を抜くってことができない性格だから」
 そういう冴樹の言葉は自然と納得できた。
 半端な付き合いができるのなら、自分に好意を寄せてくれる女の子を振ったりはしないだろう。
 誰とでも仲良くなってしまう器用さを遺憾なく発揮すればいい。でも、それをしないのは友達と恋人という区分けをキッチリとつけたいからなのだろう。中途半端が嫌いなのだ。
 昔から冴樹は、表面的には器用だった。愛想はいいし、何でもそつなくこなす。だけど、表から見えないところでは不器用だった。
 心を、内側を表現するのが下手で。だから、口が悪くて。でも、優しくて。
「……そういうところ、鬼堂君らしいわ」
「要領が悪いだけっていう気がしないでもないけどな」
 少しだけ自嘲するような響きで、冴樹は笑い声を吐き出した。
「半端が悪いってわけじゃない。でも、半端であることに甘んじるのはどうかと思うんだ。半端であることは段階の一つであって、それに満足しちゃいけない。そこで終わらせたらいけない」
「鬼堂君。さっき、あなたは自分には目的意識がないって言ったわ。だけど、話を聞いていると、そんなことないように思えるけど?」
 目的がないことに対して、面と向き合い、自分なりに目的を探そうとしている。
「うん、まあな。俺にだって理想の自分っていうのがあるよ。そうなりたいと思う自分がいる。けれど、それは例えばサッカー部の奴らが国立を目指すっていうのとは違うだろ?」
「そうね」
「俺にとって、国立なんてものは何の役にも立たないことなのさ。サッカーで有名になりたいとか、それで食っていこうとか、全くない。それは陸上やバスケに至っても同じ。そんな俺が幾ら、ちょっとばかしサッカーが上手いからって、奴らと同じ情熱を持てるはずがないし、そういう真剣にやっている奴らのなかに俺が入るのは間違っているだろ?」
 授業中でも手を抜けない。だから、実力を発揮して目立ってしまう。
 でも、サッカー部に入って同じように手を抜かずに頑張ったとしても、根本の意識が違う。
 冴樹はその意識の差異を気にするのだろう。
 真剣にサッカーと向き合っている彼らに対し、真剣ではない、ただ手を抜けないという性分だけでサッカーをしてしまう自分。
 遊びだとか、そんなひと言で笑い飛ばすような性格じゃない。
 愛想笑いで誤魔化すのは、体育の授業など。そこではやっぱり、冴樹は器用に周りの人間中になじむけれど……。
 真摯な相手に中途半端なことはできないから……。
 彼らのなかに入り込むことはできない。
 やっぱり、そんなところは不器用だと思う。
「そうかもしれないわね……」
 本当のところはどうなのか、私にはわからないけれど、冴樹の言い分は理解できた気がした。
「だから、俺は部活しない。俺にとってやることは他にはあるからさ」
「そうなの」
「神野さんは? 見たところ部活動は何もしていないみたいだけど」
「……妹の世話があるから」
「ああ、そっか。大変なんだっけ? じゃあ、それで何も出来ない?」
「……一年のときに、ちょっとだけ美術部に所属していたの。でも、絵を描くだけなら家でも出来るから」
 私は何だか、言い訳染みたことを口にした。
「そうだな。でも、部活で絵を描きたいとか思わないのか? 指導してもらった方がよいこともあるだろう?」
「別に……鬼堂君がさっき言ったみたいに、それで食べていこうだなんて思っていないから。ただ、絵を描いているのが好きなだけだし」
 そう言いながら、私は心と違うことを思っていた。
 ずっと絵を続けていこうとは思っていないけれど、誰かに指導してもらえたらと思うことはある。自分の描いている絵が納得できないとき、誰かにこうしたらいいと道筋を示してくれたらと願うことはある。
 でも、部活動をしている時間はないのだ。母が亡くなって、小さな妹が残された。私と姉は妹のために学校での時間をけずられることになった。
 姉は母が亡くなる前までは演劇部に所属していた。けれど、受験だからと引退したのは建前で、妹のことがあったからだろう。私も同じように美術部を辞めたとき、姉は自分が妹の面倒を見るから私に「部活を続けてもいいのよ」と言った。
 けれど、その好意に甘えられるはずはない。
 私は姉が好きだ。友達のような感覚で付き合える。でも、私があの家にいるかぎり、私は姉に逆らえない。
 母と再婚した父の連れ子だった姉。母が亡くなった今、私は父や姉にとって赤の他人だ。その私があの家に居座り続けること。どうしても、気兼ねなしにいられるわけない。
 勿論、父や姉がそういう姿勢を私に強要することはないけれど、私の意識がそうさせる。
「要領が悪いのはお互い様みたいだな」
 軽く肩を竦めるようにして、冴樹が笑った。
 私は何だか見透かされた気がして俯いた。
「そういうところ、神野さんらしいと思うけど」
 どこかで聞いたようなことを冴樹は言った。そうして彼は歩き出す。私は少し遅れる形で彼に続いた。しかし、直ぐに先を歩いていた彼が立ち止まったので、私との距離は直ぐに縮まった。
「……奴だろう?」
 フェンス越しにグランドを見ていた冴樹が言った。彼の視線の先には「村上先輩」がいた。
「目立つよな、存在感がある」
 口笛でも吹きそうな感じの冴樹。そういう彼も十分に目立つ存在だ。何もしていなくても、視界に入れば釘付けにされる。そんな冴樹の隣に立っていれば、私の存在も先輩の目についたのだろう。
 遠目にも、先輩が困惑の表情を浮かべるのがわかった。
 私は視線を逸らして歩き出す。直ぐに冴樹が追ってきた。
「先輩と付き合っている彼女って、神野さんのことだろ?」
 私は思わず振り返っていた。そこに見えた表情に確信を深めたらしい冴樹はやっぱりな、と小さく呟いた。
「……何で、そう思ったの?」
「出来すぎた男の彼女の噂っていうのはさ、よく出来ているか、はたまた最悪のどちらかなんだよな。自分に敵わない女だと認めれば良い噂。で、自分より劣っていると思えば悪い噂が流れる。そして、俺が聞いたところによると、今のところ良い噂しか聞こえてこない。ってことはだ、かなり良く出来た女だってことになる」
「じゃあ、私には当てはまらないんじゃなくって?」
「そうか? 神野さんって美人じゃん。んで、成績優秀、スポーツだって万能だって? 先生たちの覚えもよろしい」
「一部の教科担当には睨まれているけれど?」
 私は反論する。冴樹が思うような人間じゃないのよ、私は。
「その辺の事情はさっき聞いた。それは神野さんのせいじゃないし、それで評価が落ちているってこともないと思う。担任がさ、何かわからないことがあったら、神野さんに聞けって言うのさ。これって転校生の面倒をちゃんと見てくれると、信頼している証拠じゃないか。実際に、神野さんは出来すぎているよ。フリーだったら男が黙っていないだろう。でも、そういう浮いた話が出てこないのは、神野さんに出来た男がくっついているからに他ならない」
「……それで私が先輩の彼女だって、推理したわけ?」
「あながち外れてないだろう?」
 青灰色の瞳が見透かすように私を見つめた。
「彼女だったのは、少し前までよ」
 私は観念して白状した。冴樹は目を丸くする。
 さすがにこの展開は予測していなかったのか。
「へぇ?」
「別れたの」
「そりゃ、勿体ないことをしたもんだ」
「それはどちらに対して?」
「別れを言い出した方と、それを承諾した方に」
「別れない方が良かったと言うの? もう、心なんて繋がっていないのに」
「本当に繋がっていないって、言うのか?」
 挑戦的に笑う冴樹を私は睨み返した。
 何もかも知り尽くしたような、そんな目で。一体、私の何を知っているというのだろう。
 私は頭が熱くなるのを自覚した。
 冴樹は昔とは変わった。変わってしまった。
 それが無性に悔しかった。
 だから、反射的に言っていた。
「鬼堂君――」
 自分の声が冷たく響くのを、私は他人の声を聞くように感じていた。
「私、あなたの秘密を知っているのよ?」
 一瞬、冴樹の瞳がスッと細くなる。
 青灰色の瞳が氷のように冷たく凍えたように見えたけれど、次の瞬間には彼の唇に薄っすらと笑みが浮かんでいた。
 あまりにも美しく、だけどどこか酷薄な微笑。
「へぇ? 俺の秘密を知っているって?」
「……ええ」
 私の応える声は震えていた。
「そりゃ、凄い。で? お望みは何なのさ」
「望み?」
「秘密を知っているから、言うことを聞けとかいう脅しじゃないのか?」
 今度は私が驚いた。私はただ、冴樹を困らせたかっただけ。それだけなのに。
 ……でも。
 私は背中にあるはずのない視線を感じていた。別れた恋人に未練を残しているのは私の方だというのに、自意識過剰だ。
 でも、これはいい機会なのかもしれない。
 私は乾いた唇をそっと湿らせて、声を紡いだ。
「そう、秘密を誰にも知られたくなかったら……」
 冴樹の、私を見つめる瞳に悲しげな色が浮かんだと思ったのは、私の錯覚だろうか? 恐らくは錯覚だろう。だって、こんな脅しをする私を憎みはすれど、哀れみはしないだろう。
「私の彼氏になって」
 冴樹は小さくため息をついて、感情の見えない声で淡々と告げた。
「いいよ。今日から俺は綺羅の彼氏だ」


             *      *      *      *


「私の彼氏になって」
 彼女が何を思い、どうして俺を偽者の恋人に仕立て上げようとしているのか。詳しいことはわからない。けれど、綺羅のことだ。そうして、諦めなきゃならない事情っていうのがあるのだろう。
 まさか、こんな形で再会するとは思っていなかった。最初、名前を聞いたときは珍しい名前がここにも、という偶然に驚いた。
 姓が違っていたから、偶然だと思った。
 昔の面影は少しだけ。そうと指摘されてわかる程度。
 小学生から高校生への四年という時間は驚くほどの変化をもたらす。
 すらりと伸びた手足。髪は長く背中まで伸ばしている。そのストレートの髪はサラサラで光り輝いていて、俺は変態のエロ爺じゃないけれど、思わず触れたくなるような感じだ。肌は特別に白いというわけじゃない――むしろ、俺の方が白いかもしれない。色白の親に似て幾ら陽に当たっても焼けないのだ――健康的な肌色。血色のいい唇に頬。いかにもお年頃の魅力的な女の子に成長していた。
 端整な顔立ちは間違いなく美人部類で、ハッキリ言って見違えた。
 だから、昔の俺が知っている小さな女の子綺羅と、今俺と対峙している綺羅が同一人物だなんて思いもしなかった。
 けれど、俺の秘密を知っているということは、俺の過去を知っているということだ。それを考えれば珍しい名前から導き出される答えは一つ。
 そうすると、何となく覚えている綺羅の性格から、嘘の恋人ごっこが、決して一時の冗談じゃないだろうと推測できる。
 …………きっと、また、何か無理しているんだろうな。
 放って置けなくなった。両親の不仲に泣くことも我慢していた子供の頃の綺羅が、脳裏に浮かんでは消える。
 昔と変わらないいじらしさに保護欲をかきたてられる。これは同情なんだろうか?
 馬鹿なことをしようとしている――そんな自覚はあった。けれど、目の前の綺羅の顔を見たらさ……。
 俺は小さくため息をついて、なるだけ感情を見せないように告げた。
「いいよ。今日から俺は綺羅の彼氏だ」


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