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 5,放課後


「ねェ、神野さん。あなた、鬼堂君と付き合っているの?」
 不意に声を掛けられて、私はビックリした。
 顔を上げると同じクラスの、だけどあまり話をしたことのない女の子が二人、私の顔を覗いていた。
「……そう……だけど」
 私は答えてから、訝しげに二人を見やった。
 私はどちらかと言えば、人付き合いがいいほうじゃない。好き嫌いが激しいのかといえば、そうではなくて。誰とでも一定の距離を保って付き合いはするものの、特別親しい人を作るということに無関心なのだ。
 両親の離婚を経験したからなのか、いまひとつ、他人というものを信用できないでいる。
 だけど、だからと全ての人を否定するように、一人で生きていけるわ、などと言うつもりはない。私はそんなに強い人間じゃないのだから。
 だから、この人は信用しても大丈夫そうだ、とある程度の信頼関係を築いてから友達や恋人と言う関係を結んでいく。そんな私の性格をクラスメイトたちも気づいているのだろう。特に用がなければ、私に話しかけてくる子なんていなかった。
「でも、神野さんは三年の村上先輩と付き合っていたんじゃなくって?」
 気の強そうな感じの女の子が――名前は何と言っただろうか? ――ツンと顎を上向かせながら問いかけてきた。
「先輩とは……もう、付き合ってはいないの」
「それで今度は鬼堂君に乗り換えたって言うの?」
 声に棘を感じる。
 憧れだった先輩を占有して、そしてまた、いまやアイドルとなりつつある冴樹の恋人として名乗りを上げた私に、周りの女の子たちが黙ってはいないだろうとは思っていた。
 それは覚悟の上だったけれど……。
「ちょっと美人だからって、いい気になっているんじゃないの?」
「……そんなつもりはないけれど」
 早く冴樹が戻ってきてくれたらいいのに、と私は心の底から思った。
 冴樹は今現在、職員室に呼ばれている。一緒に帰るつもりだったので、私は教室で先を待つことにしたのだけれど、こんなことになるなんて。
 冴樹の人気を改めて思い知らされた気がする。
 まだ、彼がこの学校にやって来てひと月が過ぎたばかりなのに。
「じゃあどうして、鬼堂君や先輩みたいな人とばかり付き合うわけ? 神野さんなら、告ってくる男子なんて掃いて捨てるほどいるでしょ」
 女の子は決め付けるように言った。
 それはひどい誤解だ。私が告白されたのはただの一度きり、先輩のそれが最初で最後なのに。
 私はそっと唇を噛んだ。反論したい気持ちは山ほどあったけれど、私が何を言っても頭に血が上っているであろう彼女たちには、通じそうにないと思えた。
「何、その目」
 私はどんな目つきをしていたのだろう? 鏡を見ることができる状況ではないので、わからない。けれど、目の前の女の子たちを苛立たせる視線だったらしい。私はそんなつもりなんてこれっぽっちもないのに、彼女はバンと平手で机の天板を叩いた。
「そりゃ、ワタシたちはアンタに比べりゃ美人でも才女でもないけどさっ!」
 彼女の荒げた声が私の鼓膜を激しく震わせる。
 私は思わず身を縮めた。
 怖いと思った。
 人を想う感情はこんなに強烈なのかと知ると怖かった。
 強い想いだけに、対象を失うとそのエネルギーは様々なものを壊し、傷つけてしまう。他人だけではなく、自分自身でさえも。
 今、私の前にいる女の子たちは、私と変わらない普通の女の子だ。でも、私が彼女たちの恋の相手を奪い取ってしまったがために、その想いは暴走して普通の女の子をヒステリー女に変えてしまう。
 その感情は間違いなく、私の中にもあった。
 ただ、私はその感情と向き合うのが怖くて、逃げてしまったのだけれど。
「――自分で自分を卑下している女なんて、最低じゃねぇ?」
 感情を低く押し殺した声が、私たちの間に割り込んできた。
 そちらに目をやると、教室の戸枠に背を預ける格好で冴樹が立っていた。
 私と目が合うと、ツカツカと歩み寄ってくる。ピンと背筋を伸ばし、猫のようなしなやかな動きで、あっという間に距離を縮める。
「自分の程度を知るっていうのは大事なことだと思うけど。それをわざわざ他人と比べて、それで自分を卑下するっていうのは、何か、違うんじゃねぇの?」
 女の子たちと私との間に、壁のように立ち塞がって、冴樹は言った。
「それに自分の価値を自分から下げといて、それで綺羅に文句を言うのはどういうつもりさ? つまんねぇ女と綺羅だったら、余程の物好きでもない限り、綺羅を選ぶのは当然じゃねぇの? 俺は自分のことをつまんねぇ女だって、見下げている奴に付き合うほど暇じゃない。失せろ、と言いたいね」
 辛辣な物言いの冴樹に、女の子たちは顔を引きつらせた。
「何よ、少しくらい顔がいいからって」
「顔がいいのは自覚しているけど。俺はそれを自分の売りだとは思っちゃいない。全く、あんた達が勝手に俺を理想化するのもうんざりするぜ。俺は、理想ばかり押し付けてくる女相手に愛想を配る気はこれっぽっちもないから」
 そう言って冴樹はニヤリと笑った。悪魔的なあの笑みだ。美貌が美貌だけに、その笑みには凄みがあった。私の位置からはその横顔しか見えないけれど。
 真正面に見据えられた彼女たちは、冴樹の笑顔に一片の優しさもないことに気づいたのか、絶句した。
 彼女たちがアイドルとして理想化していた冴樹の実像は、辛辣で容赦がない。
「今、口が悪いとか、性格が悪いとか、思ったんじゃねぇの? 言っとくけど、そんなのとっくに自覚済みで、俺はこの性格を改めるつもりなんて一つもないから。そんな俺をここにいる綺羅は受け止めてくれた。あんた達と比べるのさえ、もったいない女だよ、綺羅は」
 スッと目を細めて、冴樹は女の子たちを冷ややかに見据えた。
「だから、綺羅に喧嘩を売るつもりなら俺を通してからにしてくれねぇか」
 グイッと身を乗り出しながら、冴樹は言う。
「俺は自分の女が傷つけられるのを黙ってみていられるほど、寛容じゃないんだ。それと、女だからって性別を武器にする女も嫌いなの。武力行使でやろうってんなら、俺も同じように返すよ。それが反性差別主義って奴だろ?」
 バンと先ほどの女の子同様に、平手で机の天板を叩いた。女の子の真似をしただけだが、男と女の力の差をまざまざと感じさせる音が響いた。窓際の窓ガラスが振動で震えたんじゃないかと一瞬、思ったほどだ。
 女の子たちは教室から逃げていった。室内には私と冴樹だけが取り残される。
 長いのか短いのか、わからない間を置いて、冴樹はくるりと身をこちらに翻した。
「さ、帰ろうか?」
 さっきまでの剣幕はどこへ行ったのか? 涼しげな笑顔の彼に私は思わず呆れてしまう。
「……今の、ちょっと酷かったんじゃない?」
「そうか? 綺羅もあのくらい言われてたんじゃねぇのか?」
 その口ぶりからするに、冴樹は私と彼女たちとのやり取りを途中からしか耳にしていないようだ。
 私はちょっとだけ困った顔を作って、言った。
「言われそうな雰囲気だったけれど。その前に冴樹が割り込んでくれたから、未遂って感じかしら」
「ありゃりゃ、それじゃあ、ちょっとやり過ぎたか」
 漆黒の髪を掻いて、唇をへの字に結ぶ。しかし、悔恨は一瞬だけだった。
「まっ、いっか」
 直ぐに開き直ったような笑みを浮かべる。
「……いいの? さっきの冴樹の印象、かなり最悪だと思うわよ。きっと、明日にはクラス中に広がっているわ」
「ああ、んなことは気にしない、気にしない」
 ヒラヒラと手のひらを顔の前でそよがせて、冴樹は言いきった。
「転校生は、最初は猫かぶりなものさ。本性が現れ始めたところで、そんなに驚くことじゃないと思うぜ?」
 そうだろうか? 冴樹の豹変振りは充分に驚かされると思うのだけど。
 私自身、冴樹の性格は知っているつもりだった。それでも、驚いた。
 あんな辛辣な言葉を吐くことが出来る人間だったなんて。
 口が悪いのはわかっていたけれど……それは言葉遣いがぞんざいだと。
 今しがたの冴樹は口が悪いという、問題とは違っていた。確実に相手に対してダメージを与えることを計算して放たれた言葉は、口が悪いとひと言で片付けられるものではないだろう。
「それに、こんな俺がいいと言う奴もいるぜ? だったら、俺はそいつらと付き合っていくさ。万人と仲良くなんて理想だけど、上辺だけで付き合う理想なら、俺は要らないね」
 冴樹は自分の席からショルダーバックを手に取り、肩に掛けた。私も鞄を片手に席を立つ。
 冴樹が私に対して本音を言っているのはわかる。本性をありのままに見せてくれるのは、冴樹が私を認めてくれるということなのだろうか?
「冴樹」
 私はそっと呼びかけた。彼は肩越しに私を振り返った。
「さっきは私を庇ってくれてありがとう」
 礼を言う私に彼は柔らかに微笑んだ。
「綺羅は、今は俺の彼女だからな」
 それは偽りの恋人だろう。私が脅迫して、冴樹を恋人役に仕立てた。
 冴樹はそんな私の望みを忠実に叶えようとしてくれているけれど、それはやっぱり、恋人という役に対しての演技でしかないのだろうか?
 冴樹はわたしのことをどう思っているのだろう?
 それを考えると、私は少しだけ胸に痛みを感じた。


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