6,初恋の人 「綺羅ちゃん、鬼堂さんと付き合い始めたってホント?」 台所に立った私に姉が聞いてきた。 姉の薫はフワフワした印象の、いかにも可愛らしい女の子といった容姿をしている。レースやリボンがとても似合いそうな栗色の柔らかそうな髪。 その髪を指先に絡ませて、テーブルに頬杖をついた姿勢で私を見上げてきた。 夕食当番の私はコロッケの具に小麦粉、卵、パン粉を順に付けていく。 「この間も言ったと思うけど……」 偽りの恋人契約を結んだその日、私は姉に冴樹を紹介していた。 「うん。何回も聞いて、ゴメンね。でも、村上さんのこと……」 情けないことにその名前を聞くと、身体が反応してしまい、一瞬、ギクリとなる。 何でこんな反応をしてしまうんだろう。もう先輩のことは割り切ったはずなのに。 「やっぱり、まだ、村上さんのこと」 「先輩のことは終わったの。……そう、確かにそんなに日が経っていないのに新しい彼を作ったことは、姉さんには軽く見えてしまうかもしれないけれど……」 「そんな。綺羅ちゃんは真面目な子だよ。それは私、よく知っているよ。美人で、だけど全然気取ったところがなくて、ちょっと人付き合いが苦手で人見知りなところがあるの。そんな綺羅ちゃんだもの、簡単に男の子と付き合ったりしないよ。だから、鬼堂さんのこともちゃんと好きなんだろうけど……」 「冴樹とは幼馴染みなの」 「前に住んでいたところのお隣さんだったんだよね?」 先日、姉に冴樹を紹介したとき、チラッと口の端に載せたことを姉は覚えていた。 「そう、私が住んでいたお隣に――隣と言っても、田舎のことだから直ぐ隣ってわけじゃないけれど――冴樹たちが引っ越してきたの。それから私が母さんとこっちにやってくるまでの三年ぐらいの間、冴樹とは良く遊んだの」 仲が良くなかった両親の喧嘩を見るたびに、私はいたたまれなくなって、家を抜け出した。夜の道を散歩していると、冴樹と樹さんは二人連れで歩いていた。 病気で昼間、外出できない樹さんだったから、二人は夜中出歩いていたのだ。 冴樹と樹さんは一人で歩いている私を見つけると、「おいで」と優しげな笑みで手招いた。そして、静かな夜を一緒に歩いた。 夏場は河原で花火をしたり、蛍狩りをした。懐かしい思い出だ。 罵りあう両親を見ているしかなかったあの頃の記憶。それでも蓋をせずにいられるのは、二人がいてくれたから。 「鬼堂さんって綺麗な人だよね。小さい頃から、あんなに綺麗だったの?」 姉の問いに私は一瞬、ドキリとした。 「……ええ。昔と何一つ、変わっていないわ」 私は取り繕って、笑う。 白い肌も、青灰色の瞳も、闇に溶けるような漆黒の髪も。 一ミリも変わらず、揺るがず。あの日のままに、冴樹はあり続けた。恐らくは樹さんも変わっていないのだろう。 「お兄さんの樹さんの方はさらに人間離れした美貌で。だけど、冴樹も綺麗だったわ」 そして、冴樹は私の初恋の相手だった。 その恋を口にしたことはなかったけれど……まさか、こんな形で叶うとは思っていなかった。 だって……あのときの私と冴樹には大きな差がありすぎた。 もっとも、今の形が本当に恋人同士と呼べるものなのかと言えば嘘になる。 冴樹の私に対する気持ちは、昔馴染みへの義理だろうし、私はまだ少しだけ先輩に未練を残している。 その未練を断ち切るためにと……。 私は姉をチラリと見やった。 姉は女の私から見ても、可愛らしい女性だと思う。 人付き合いが苦手で、心の内を明かそうとはしない私と、姉のように穏やかで明るく、誰とでも仲良く打ち解ける性格の主。男心が揺さぶられるとしたら、それは姉のような女の子だろう。 いつの間にか、先輩の気持ちが姉のほうに移行していたとしても、不思議はなかった。そして、姉のほうも先輩のことを意識していること。 それがわかった瞬間、私は先輩との関係を続けていくことはできないと思った。 姉に勝てるはずはないし、何にも増して、心変わりした先輩を引き止める努力を無駄だと諦めてしまった私の気持ちは、完全に負けていた。 だから、先輩から別れ話を持ち出されたとき、私は何も言わずに頷いた。 両親の離婚を目の当たりにしていた私は感情をひけらかすことが醜いことだと頭のどこかで考えている節があった。 それで身を引いた――そう言ってしまえば、聞こえはいいのだけれど。 そして、先輩と姉がくっつくかと思えば、二人とも私が好きになった人たちだけあって、私の感情を考慮してか、むしろ疎遠になりつつあった。 そんなとき、冴樹が転校してきた。 冴樹を傷つけてやりたいと、一瞬の怒りから発した言葉が私にある考えを植えつけた。 冴樹を恋人にしてしまえば、先輩も姉も私に遠慮することはないだろう。そう思ったのだ。二人が付き合えば、私の中にある先輩への未練も断ち切れる。 そんな思い付きの考えは、姉のほうでもお見通しなのだろうか? 冴樹を新しい彼氏だと紹介しても、まだ信用していないみたいで、何度も確認してくる。 私は姉を見つめた。真っ直ぐに、姉を見る。 視線を逸らせば、嘘だと見抜かれてしまいそうだった。 「私……冴樹が好きよ」 「でも、綺羅ちゃん。それは小さい頃のことでしょう?」 「そうね。でも、今の彼も好きになったの。だって、冴樹は何も変わっていないんだもの」 最初は変わったと思った。 残酷な言葉を平気で口にできる、無神経な男に成り下がったのかと思った。 けれど、転校生としての鬼堂冴樹じゃなく、私が知っていた昔からの冴樹と比べたら、悲しいくらいに彼は変わっていなかった。 その美貌も、ときにぶっきらぼうになりがちな口の悪さも、そして不器用な優しさも。 本当に何も変わっていない。 少し変わったと見えるのは、私が成長してしまったからだ。 昔の冴樹は、子供に対する接しかたで私と関わっていた。だけど、今は対等な立場で私と接してくれている。 だから、あけすけな事情も口にできる。辛辣な言葉だって、昔から変わらなかったのだろう。ただ、私が小さすぎて理解できなかっただけで……。 「昔と同じだから、鬼堂さんが好きなの?」 「そう……ううん、違う。昔と変わらないから、好きになったの」 一度頷いて、それから私は言葉を改めた。 「それは同じことじゃないの?」 姉は不思議そうに首を傾げた。確かに意味するところは同じだろう。でも、同じと言う言葉じゃ、冴樹に悪いと思った。 昔の冴樹と今の冴樹は全くもって、変わらない。でも、それは同じ存在だからというわけじゃない。今の冴樹は、四年という年月が経っても、冴樹が変わることなく貫いたものなのだ。 四年という年月は、短いようで長い。その間、変わらずに在り続けること、それは大変困難なことだ。永遠を誓い合った夫婦でさえ、愛情を維持できず冷めてしまい、関係を維持することが難しくなるような時間だ。 そんな年月を、冴樹は私の知っている冴樹であり続けた。 優しさを、冴樹は失わずにいたのだ。それは凄いことだと思う。 そして、冴樹はその優しさで私の浅はかな考えを見抜きながらも、私を受け止めてくれた。冴樹がクラスの女の子に対して、「ここにいる綺羅は受け止めてくれた。あんた達と比べるのさえ、もったいない女だよ」と言ってくれた。 今度は私が同等の言葉を返すときだ。 私の存在を受け止めてくれた冴樹。彼は私にはもったいないほどの存在だ。それが偽りの恋人という存在であっても。 そんなことを考えていると、無性に冴樹に会いたくなった。 私は下準備ができたコロッケを熱した油で揚げる。急にテキパキと動き出した私につられるように、姉がテーブルにお皿を用意してくれる。 コロッケを揚げて、付け合せの野菜サラダ。そして、スープを食卓に並べて、私は余ったコロッケをタッパに詰め込む。 「姉さん、私、ちょっと出掛けてきていいかしら?」 「え、うん。それは構わないけれど」 ご飯はどうするの? と、姉は聞いてきた。 「先に食べていて。そんなに遅くならないようにするつもりだけど」 「どこに行くの?」 「冴樹のところに、コロッケを持っていこうと思って」 「鬼堂さんのところに?」 「冴樹の家、この坂を上ったところにあるのよ」 「ああ……あの家」 「そういうわけだから、後はお願いね?」 私は一端、自分の部屋に戻って上着を身に付ける。それからコロッケを詰めた入れ物を抱えるように家を出た。 坂道を静々と登る。距離はそうでもないけれど、勾配があるのでちょっとした運動になる。でも、学校帰りの坂を登り慣れているから、大したことはない。 太陽が沈み、すっかり薄暗くなった坂道を私は一歩一歩を確かめるように登っていく。やがてボンヤリと街頭に照らされた古い家が坂の上に見える。 人が長い間住んでいなかったせいか、荒廃した印象はあるけれど、家の造りはしっかりしていた。私は門を抜けて玄関へと近づく。インターホンの呼び鈴を鳴らすと、冴樹の声とは違う人の声が中から問いかけてきた。 「どちら様ですか?」 玄関ドアが開いてそこに立っている麗人に、私は息を呑んだ。 記憶に焼きついている姿、そのままにあったのは樹さんだ。冴樹よりも、ちょっと大人びいた洗練された美貌の主は、私と目が合うとふわりと微笑んだ。 「……綺羅ちゃんだね?」 甘く柔らかな声だ。私は息を詰まらせたまま、おずおずと頷いた。 私は確かにこの人の存在を知っていた。そして、今も目の前にしているというのに、樹さんの美貌を目にしていると、これは夢ではないかと思ってしまう。 それくらいに、樹さんの美貌は人並みはずれていた。おとぎ話に出てくる「美しい王子様、お姫様」というのは、樹さんのような美貌をしているに違いない。 「誰か来たのか?」 そう声がして、樹さんの背後から冴樹が現れた。私は夢から覚めたように、息をついた。 「……冴樹」 「綺羅? どうしたんだ? ……ああ、樹に会いに来たのか?」 「あの、これを作ったの」 私はコロッケの詰まった入れ物を冴樹のほうに差し出した。 「何? くれんの? サンキュー。ちょうど今から、晩飯食おうってところだったんだ。綺羅はもう飯は食ったのか?」 入れ物の蓋を開け、中身を確かめた冴樹は私を振り返って問う。 「ううん、まだ。家に帰ってから食べようと思っていたの」 「じゃあ、家の飯を食っていけよ。綺羅みたいに美味くはないけれど、食ってさ、感想を聞かせてくれねぇか?」 「……えっ?」 戸惑う私を冴樹は強引に引っ張った。そうして招かれたダイニングテーブルには、幾つかの料理が並んでいた。 樹さんが椅子を引く。冴樹が私をそこに座らせた。 何を言う間もなく、お茶碗に白いご飯が盛られて、私の前に置かれた。 「さ、冴樹?」 「いいから、いいから」 何がいいと言うのだろう? 冴樹はコロッケを皿に盛り付けると、私の向かい側に腰掛けた。樹さんは斜め向かいの席だ。 「食ってみてくれよ。俺としてはもう少し、塩を足したほうがいいかなと思うんだけど」 「冴樹ちゃんの料理は美味しいよ、食べてみて」 そうニコニコと笑って、樹さんが勧めてきた。 私は勧められるままに、箸を取る。 「食べていいぜ」 「食べてみて、美味しいから」 冴樹と樹さんに急かされるようにして、料理の一つに手を伸ばした。 こうして、私は樹さんと再会することになった。 |