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 7,夜の住人


「紅茶でいいか?」
 夕食を終えた私たちはリビングに移動した。ソファに腰を下ろした私に冴樹が尋ねてくる。
「……あ、うん」
「好みとかあるか? 家にあるのは」
 と、冴樹は紅茶の種類を口に並べた。
「特にないからお任せしていい?」
「ああ。樹はどうする?」
「僕も冴樹ちゃんにお任せするよ」
「じゃあ、少し待っててくれ」
 冴樹が部屋を出て行くと、私はまた緊張を覚え始めた。そんな自分を取り繕うように口を開く。
「……お久しぶりです」
「久しぶりだね。もう何年になるかな? 綺羅ちゃんとお別れしてから」
「四年です」
「四年か……。綺羅ちゃんは大人になったね。冴樹ちゃんから話に聞いていたけれど、実際に目にしてみると本当に変わったね。綺麗になったよ」
「そんな。樹さんこそ……」
 お変わりなく――私はそう口にしてよいものかどうか、迷った。そして、そのまま口を噤んでしまう。
「ビックリしたでしょう、全然変わっていなくて」
 樹さんは微苦笑を浮かべて、首を傾けた。さらりと音を立てる漆黒の髪は、冴樹より少し長めで頬のラインを包んでいた。
「冴樹がそうだったから……何となく予想はしていましたけど」
 四年前に別れたあの日と寸分違わぬ美貌。
 そう、四年の年月が流れたというのに、冴樹もそして樹さんも、全然変わっていなかった。彼らが私の家の近所に引っ越してきた七年前のあの頃と一つも。
 年を取っていない――それが、冴樹の秘密。
「怖くなかった?」
 長い睫の奥、冴樹と同じ青灰色の瞳が私を見つめる。
「驚かなかったかと言えば、嘘になります。でも、怖くはなかったです。だって、冴樹は昔のまま優しかったから。そして、樹さんも」
「綺羅ちゃんは正直だね」
 樹さんは柔らかに微笑む。その優しげな笑みも変わっていない。
「綺羅ちゃんは僕たちのことをどんな風に考えているのかな? それなりに推測しているでしょう。良かったら、聞かせてくれる?」
 首を傾げる樹さんに、私は確信なんてできていない、だけど恐らくはそうであろうと推測していることを口にした。
「馬鹿げたことだと思いますけど……吸血鬼……」
 不老――その事実から連想したのは「吸血鬼」だった。樹さんが日中、外に出られない病気というのも、吸血鬼の特徴に当てはまる。
「やっぱ、バレバレじゃん」
 苦笑交じりに応えた声は樹さんのものではなく、ティーセットをトレイにのせて現れた冴樹だった。
「本当に、そうなの?」
 私は半信半疑で問い返す。だって、それはあまりにも現実離れしているように思えた。
 七年前、小学生だった私の前に現れたのは高校生だった冴樹とそのお兄さん。
 そして、高校生となった私の前に現れた冴樹もまた高校生で……。
 七年という年月に二人の姿は全く変わっていない。だけど、それは二人が他の人より年齢変化が表に現れないから。冴樹が高校生を繰り返しているのは、留年しているから――そんな言い訳のほうが苦しい感じがするけれど。
 ……吸血鬼だなんて。
「綺羅は目にしたものが異常だったら、それを幻覚だとか言って、否定する性質か?」
「私は……自分の目に見たものは信じるわ」
「目に見えたものが真実かと言えば、それは違うけどな」
 私の答えに冴樹は首を振り、
「けれど、目に見えたことすら信じられないよりはマシか」
 ニヤリとまた笑う。まるで私を試しているようだ。
 私はじっと冴樹の青灰色の瞳を見つめ返した。
「やっぱり、僕は吸血鬼なのかなと思うよ」
 樹さんが小首を傾げながら、回りくどい物言いをした。
「どういうことですか?」
「あのね、僕自身もよくわからないんだ。僕には父様と母様がいたけれど、僕たちの血に連なる存在がどういう存在なのか――世間でどう呼ばれている存在なのか――教えてもらう前に死に別れたんだ。父様と母様以外の存在も、もう既に絶えていたというし」
「殺されたんだって」
 冴樹がボソリと付け加えた。私はハッと息を呑む。
「……ずっとずっと昔だよ。綺羅ちゃんの、例えばお祖父さんのそのまたお祖父さんのお祖父さんが生きていた頃のこと」
 私には祖父母はいない。養父の家系ならいないことはないけれど、私とは全く血の繋がらない人たちなので、顔を合わせたこともない。
 だから、想像だけどそれは二百年や三百年も昔ということなのだろうか。だとすれば、樹さんはそれほど長く生きてきたということになるのだろうか。
 私は頭から信じていいのか、迷った。
 目の前の樹さんの口元には穏やかな笑みがある。ご自分のご両親の死を語る表情ではないと思う。
 けれど、樹さんの目に嘘は見えなかった。
 私は冴樹の様子を伺った。
 テーブルに並べたティーカップに紅茶を注いでいる冴樹の横顔に感情はない。感情を押し殺しているようにも見える。
「確かに父様と母様は人の生き血を吸っていた。それで化け物の罵られて殺された」
 淡々と樹さんは続ける。
「二人は色々とあって、この国に流れてきたんだって言っていた。その間に、同胞を亡くしたらしい。母様はだから、人間が嫌いで……でも、父様は温厚な人だったからね。血は吸っても、人間を殺したことはなかったよ。……だけど、人間側にすると殺していようが殺していまいが、僕たちは異端の化け物だったんだね……凄い形相で、僕らが隠れ住んでいた家を取り囲んで……僕の両親を殺した」
 私はただ黙って、息を詰めていた。
「そのときは、本当に悲しかった。同時に、一緒に死なせてくれなかった二人を恨んだりもしたんだよ」
「二人はね、自分たちを囮にして僕を逃がしたんだ」と、一瞬、遠い目をして樹さんは続ける。
「そして、最後に僕に生きろと言ったんだ」
 そう囁いて、樹さんはそっと切れ長の目を伏せた。
「僕はとりあえず生きてみることにした。それが二人の望みだったからね。でも、人の生き血を吸うこと……それには積極的になれなかった。父様、母様を殺した人間という存在に怒りはあったよ。でも、姿かたちは僕らと全然変わらなくて……正直、僕は心の底から人を憎めなかったんだ。だから、暗い暗い山の奥で暮らしていたんだよ」
「血を吸わなくても大丈夫なんですか?」
 私の問いかけに、樹さんは小さく頷いた。
「うん。他に栄養分を取っていれば大丈夫。その代わり、太陽光の下には出られない。血を飲めば外にも出られるんだけどね」
 ならば、私の目の前にいる樹さんは血を吸わない吸血鬼ということになる。血を吸うから吸血鬼と呼ばれるのであって、血を吸わないのならば……。
 私はこのときになって、樹さんが自分のことをよくわからない、と言った意味がわかった。
 目を開けた樹さんは、私と視線を合わせると淡く微笑んだ。
「多分、僕たちの血に連なる種族は『吸血鬼』と呼ばれるものなんだろうね。もしかしたら、違うのかもしれないけれど……今現在、『吸血鬼』が僕の存在に一番近い、イメージだと思うよ」
「だから、年を取らない?」
 七年前と寸分変わらぬ、不変の姿。物語に出てくる吸血鬼は長い寿命を持ち、変わらない姿を維持し続けている場合が常だ。
 小説の吸血鬼と、樹さんを一緒に考えるのはどうかと思うのだけれど。
「身体が成人すると成長が止まるのは本当。長寿なのも本当。でも、不死じゃないよね。僕の父様と母様は死んだわけだから」
「ただ、人間より頑丈だよ。心臓を傷つけられても直ぐに傷が塞がるからな。殺す気ならば首を切るか、心臓を潰すか、火あぶりにするしかない」
 冴樹が感情の見えない声で注釈を加える。
「冴樹……」
 私の声は震えていた。吸血鬼という事実を目の前に突きつけられた恐怖ではない。私が怖かったのは、樹さんのご両親が今、冴樹が言ったような方法で殺されたことを想像したためだ。
 ……何て馬鹿な想像をしたのだろう。
「悪かった」
 少しばつが悪そうな顔で冴樹が謝った。私は小さく首を横に振った。
「……僕はそういう種族なんだ」
 樹さんが答えを導き出すように告げる。
「……冴樹もそうなの?」
 私は冴樹に目を向けた。冴樹が日中、外にいても平気なのは、樹さんと違って誰かの血を吸っているからなのだろうか?
 そうだとすると、それは私が知っている冴樹という人間像とはかけ離れていた。
 冴樹は、口ではどんな辛辣な言葉を吐いて、他人を退けることがあっても、誰かを肉体的に傷つけるようなそんな暴力的なことはできないと、私は信じている。
 そんな私の確信を肯定するように、樹さんは言った。
「冴樹ちゃんは、僕とは違うよ」
「……えっ?」
「冴樹ちゃんは人との間に生まれたの」
「いわゆるハーフって奴か」
「人間と……」
「吸血鬼のな」
「だから、太陽の下に出ても平気なの?」
「そういうこと。それでいて、人間より長寿だし頑丈だ。ちょっとした怪我ならたちどころに治っちまう」
 冴樹は首の骨を折る怪我をしてもピンピンしていた、という逸話を披露した。その隣で樹さんが少し困ったような顔を見せた。
「でも、ちょっと待って……」
 私はそんな樹さんを見やり、不意に頭に浮かんだ疑問に首を傾げた。
「だって、今では樹さんがただ一人の吸血鬼なんですよ……ね?」
「うん。他にいるのかも知れないけれど。少なくとも、僕は知らない」
「じゃあ、冴樹は……」
「兄弟なんて言ってるけど、樹は俺の親父だ」
「えっ?」
「冴樹ちゃんは僕の息子なの」
 私は唖然となった。
 樹さんの子供? 冴樹が?
 ……樹さんが最後の吸血鬼で、冴樹が吸血鬼と人間との間に生まれたハーフだというのなら、そこから導き出される答えは一つだけど……まだ二十歳かそこらしか見えない樹さんが、高校生になる冴樹の父親?
 もちろん、樹さんはとても長く生きている。見かけの年齢と実際の年齢に幅があるわけだから、子持ちでもおかしくはない。
 だが、冴樹の父親というのが、実感としてわかない。
「親に見えねぇだろ?」
 苦笑した冴樹に、私は無意識に頷いていた。
「まず、性格が女々しいって言うか、大人じゃねぇんだよな。いまだに俺のことを冴樹ちゃんなんて言いやがるんだぜ? 人のことを三つか四つのガキと一緒にしてんじゃねぇっての」
 青灰色の瞳で、冴樹は横目に樹さんを睨む。
「もうそこら辺から、親っぽくないじゃん。親は親でもなんて言うか、新米パパ? そういう感じでさぁ、かっこつかねぇたら」
「……冴樹ちゃん」
 しょんぼりと樹さん。その姿を目視した冴樹は慌てたように言った。
「別にお前の在り方を否定しているわけじゃない。お前はそれでいいんだと思う。樹に親父面されても、俺のほうが嫌だね」
「……うん」
 嬉しそうに樹さんは微笑む。傍から見ていると、冴樹のほうがしっかりしていて、お兄さんみたいだ。
 私もちょっと笑ってしまった。
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
 上目遣いに問いかけた私に、冴樹は警戒するような顔を見せた。
 私が尋ねようとしていることを見抜いて、嫌がっているようだ。そうわかったけれど、私は好奇心を抑え切れなかった。
「冴樹って、本当は幾つなの?」
 私の質問に冴樹は顔を顰めた。グシャグシャと漆黒の髪を掻き毟る。
「そういう質問が来るとは思ったけど。ホントに聞きたいか?」
 半眼で私を振り返る。
 ……余程、聞かれたくないのかしら?
「多分、綺羅より二十年ほど長生きしているよ」
「に、二十?」
 絶句してしまった私を前に、冴樹は片頬を膨らませ、唇を尖らせた。子供っぽい所作は、どう見てもそういう年代の人間には見えない。
「外見が変わらないと、精神年齢も成長しないんですか?」
 真面目に聞いてしまった私に樹さんは困った顔で、冴樹と目を見合わせた。
「……そういうわけじゃないと思うよ」
「多分、周りが外見に見合う年相応の役割を俺たちに押し付けるからさ」
「どういうこと?」
「人間っていうものはさ、周りに応じて成長していくものだろ? 赤ん坊が立ち上がって、そうすることによって世界は広がって、また周囲も変化して。……そして、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人――年を取っていく度に責任を背負わして、役割を割り当てて、子供から大人になっていく」
 冴樹は一息区切ると、確認するように私を見た。
 彼の言いたいことが少しだけ見えたような気がした。私は話を促すように頷いた。
「だけどさ、俺たちはこういう外見だろ? 特に俺は十七、八で身体が出来上がってしまった。どう見ても、高校生なわけだよ。そう振舞うしかないなかで、周りは俺を本当の年齢の人間として扱うわけがない」
「……だから、成長できないと言うのね」
「言い訳かもしれないけどな。まあ、人生経験は他の奴より豊富だし、色々なものを見てきたと思う。でも、社会人っていうのは経験したことがないし、その苦労もわからない。俺が見てきたものは所詮、高校生である俺が見える範囲のことさ。そこで俺の世界は収束されている。それ以上はどう求めても、手に入らないものなんだ」
 いまどきの若い人は、と言う人がいる。
 その人はそうやって、若い人はこうだ、という型を作っているに違いない。その型から少しでも外れていると、いまどきの若い人には珍しく、と今度は珍しがる。
 冴樹には目立つことが許されない事情があるから――樹さんが何百年も生きた吸血鬼という事情を公にできるはずはなく――高校生という型に収まっていなければならない。
 高校生という型に、はまり続ける冴樹は大人にはなれない。
 これから先も、冴樹と樹さんはずっと……ずっと。
 七年前に出会ったときのように……。
 ……終わらない夜に生き続けるのだ。
 不意に、私は泣きたくなった。


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