8,置き去りの時間 「またおいで」という樹さんの、優しい声と笑顔に見送られて、私と冴樹は坂道を下る。 夜の冷えた夜気が、火照った身体には気持ち良かった。 夜の冷たさは、昔から冴樹や樹さんの思い出と繋がる。 家を抜け出した私を二人は待っていて、そして連れて行ってくれた河原で始めた花火や蛍狩り。 捕まえた蛍を持って帰りたいと言った私に、冴樹は首を振って私の手を解いた。 『帰そう。また、会えるからさ』 逃げていく蛍を目で追った冴樹の、寂しげな横顔は今も覚えている。 そんな冴樹は今、路上に転がった石ころを蹴飛ばすと、その反動で二、三歩先を行った。そして、私を後ろに従えるようにして歩き出す。 私は隣に並ぼうかと迷って、結局、彼の後ろをついていくことにした。 顔を見るのがはばかられた。 身近に感じていた冴樹が、とても遠い存在に感じられた。 それは冴樹の血に連なる事情を知ったからではない。そんなことは何となく予想していたから、実際に言葉として聞いたときほどの驚きはない。 そして、そのことに対する恐ろしさもない。 樹さんが吸血鬼だとか、冴樹がそのハーフだとか、それが私の中にある二人の何かを変えるわけでもない。 そう、変わることはない。 けれど、冴樹が生きている時間軸と私が生きている時間軸に大きな隔たりがあることを私は実感した。 冴樹と再会して、彼が昔のままだと知ったとき、私は冴樹がそんなに長く生きているとは思っていなかった。ただ、高校生を続けている状況に、冴樹は外見の変化のなさを周りから隠したいのだろうと思っていた。 けれど、現実は……私が思っていた以上に、深刻で。 例えばこの先、私が年を取って大人になっても、冴樹は今のままで在り続けるのだ。 何かがあって、その命の糸を断ち切られるときまで、冴樹はずっとずっと生き続ける。 それは私がおばあちゃんになって――百歳まで生きるというのはおこがましい気がするし、そんな自分を想像もしないけれど――死んだ後も。 永遠にも似た時間を生き続けるということは、長生きができていいと単純に喜べる問題ではない。 終わらない夢を見続ける。それが幸せな夢だったらいいけれど、悪夢だった場合はどうすればいい? 私は冴樹の背中が孤独を背負っているように見えて、目を伏せた。 少なくとも冴樹は独りで生きているわけじゃない。彼には樹さんがいる。だから、孤独ではない。 でも、外に出られない樹さんと違って、冴樹は外界に身を置いている。自分と違う時間軸で動く世界を見つめ続ける冴樹は、どんな気持ちで生きているのだろう? 「よくよく考えたらさ、茹でるときに湯に塩を入れるのを忘れてたんだよ」 唐突に口を開いた冴樹に、私は彼の言わんとしている内容に思考を巡らせた。 「……ブロッコリー?」 「そう。それで塩味が足りなかったんだと思う。アレで全体的に薄味になった感じがしなかったか?」 真面目な顔で冴樹が私を振り返った。 「そうね。でも、高血圧の人にはあのくらいの味付けでいいと思うけれど」 私は冴樹の家で食べた夕食を思い出した。彼が言うように確かに薄味だったけれど、美味しくないということはなかった。一つ一つ、味がまとまっていて、料理に手馴れていることが伺えた。 「血圧に気を使う奴なんて、家にいるかよ。貧血気味の野郎なら一人いるけど」 今の私には笑えない冗談だ。けれど、それを顔に出さないようにした。 「そうだったわね」 「何? 綺羅のところは高血圧の人がいるわけ?」 「今の父が健康診断でちょっと高血圧気味だと言われたの。それで最近、うちでは味付けを薄めにしているのよ」 「へえ、評判はどうだ?」 「悪くはないんだけど……」 「うーん、薄味もさっぱりしていて悪くはないんだけどさ。あんまりあっさりしていると、ちょっと物足りないような感じがするんだよな」 同じようなことを父も言っていた。最初からそういう味付けに慣れていれば、そうでもないのだろうけれど。 「冴樹がいつも、ご飯を作っているの?」 「ああ。樹はさ、栄養を摂取していれば味はどうでもいいらしい。元々の主食は血だったわけだろ? ――いや、別に主食が血ってわけじゃねぇけど――そのせいか、味覚が鈍感なんだよ。だから、あいつに飯作りを任すと、味がない料理ばかりできあがる。味付けっていうものをしないし、味付けの基本がわかってないし、味付けしたところでそれが美味いのか不味いのかもわかりゃしねぇし」 それでも、樹さんは冴樹が作った料理を美味しいという。親馬鹿の典型的な感じだ。 「だから、物心がついたときには俺が料理を作ってた」 「冴樹のお母さんは……?」 私は聞いてよいものかどうか迷いながら、結局は尋ねていた。 「今はどうしているの?」 冴樹の実年齢からすれば、それ相応の女性と言うことになる。私の母のことを考えれば、この世にいない可能性もあった。 冴樹の年齢の話になってから、神妙になってしまった私のせいで会話は途切れてしまった。 もっと知りたいことはあったし、冴樹や樹さんにしても自分たちの事情をある程度、打ち明けていた段階だったから、問い質せば話してくれただろう。 けれど、私自身がその機会を先延ばしにしてしまった。 冴樹も中途半端で終わってしまったことに、何かを感じ取っていたのか、あっさりとした口調で言った。 「母さんはいない。樹は赤ん坊だった俺を連れて、母さんの前から姿を消したんだ」 「……どうして?」 「母さんに自分の正体を……吸血鬼だってことを――本当に、小説なんかにある吸血鬼と同じものかと言えば、疑問は残るけど――話していなかったんだよ、樹は。それでいて、好き合って、俺が生まれた。打ち明けること、隠し続けること、この二つの選択肢で樹が選んだのは母さんと周りの人間の記憶を消して逃げることだった」 「記憶を……消す? そんなことができるの?」 それこそ、小説染みていて、現実から遠い。 目を見開いた私に、冴樹は頷いた。 「相手の血を吸えば一種の催眠状態にできるらしい。多分、唾液に麻酔成分みたいなのがあるんじゃないかと思う。それで、暗示をかけやすい状態になるんだろう」 「血を吸ったら、その人も吸血鬼になるっていうのは?」 私は自分でも馬鹿げていると思う質問をした。冴樹も案の定、ハハハッと声を立てて笑う。 「そんな伝染性があるのなら、とっくに吸血鬼だらけになっていると思わないか? まあ、本物の吸血鬼ならそういうことも可能かもしれないけれど。樹にはできない。それができていれば……母さんの記憶を消さずに吸血鬼にしていたと思う」 「……そう」 そうだろうか? と、疑問が浮かぶ。優しい樹さんが、人間であった冴樹のお母さんを自分の側に引き込むとは、少し想像できない。 「記憶を消したのは、そのほうが母さんのためだと、樹は信じたんだろうな。どちらにしても、姿を消すしかないと樹は思い込んでた」 「どうして?」 「俺が樹の血を引いていたからさ。吸血鬼と人間のハーフなんて、前例があったかどうか、樹は知らないし、その吸血鬼の血がどんな形で現れるのかどうかも、樹には予測できなかったんだろう」 「……血を吸わないと、太陽の下に出られない」 「その吸血鬼の特徴が俺にも現れたら? 母さんと出会った樹は、母さんの側にいるために、多少だけど人から血を吸っていたらしい。だから、陽光に弱いことは隠せていたけれど、赤ん坊だった俺は血を吸うことなんてできない」 「病気だと言えば?」 「今でこそ、そういった病気があることは知られている」 私はそっと頷いた。テレビで陽光に当たれない病気の人が、特殊な防護服を身にまとって外に出るというのを見た記憶がある。細かいところは覚えていないけれど、そういう現実を背負った人たちも間違いなくいる。 「だから、樹が外に出られないとか、誤魔化すことはできるけれど……俺が生まれた時分は、その手の病気に対する認知度は低かったと思うぜ」 冴樹の言葉に、私はここでまた、私と冴樹が生きている世界の、時間のズレを知った。 「……樹さんは隠せないと思ったのね」 「俺に樹のような症状が出るのかどうか、それを確かめることもできない。赤ん坊の俺には少しの陽光でも危険と考えたんだろう。樹は俺を連れて、母さんの前から逃げ出した」 「記憶を消したのは捜索の手が伸びることを恐れたから?」 自分の息子を連れて逃げたという言い訳は通用しないだろう。 「それもあるけれど、樹はああいう奴だから……」 冴樹はフッと目を細めた。遠くを見つめるような眼差しは、とても優しげで、そして寂しげだった。 |