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 9,明けない夜


 囁くように、冴樹は語り始めた。
「本当に樹のことが好きだったらしい、母さんは。そんな母さんの前から、樹が姿を消せば、樹の存在に心を縛られたままになるって、樹はそう感じていたらしい。実際、母さんは狂ったし」
「……えっ?」
 道路沿いの街頭の下で、冴樹は立ち止まった。ここから先は住宅が並んでいる。外の私たちの声が、家の中まで聞こえるとは思わないけれど、話している内容が内容なので、冴樹は用心したのだろう。
 私は冴樹の横に並んだ。そして、彼の横顔を見上げる。
 冴樹は半分目を伏せたまま、坂の下を見下ろす。夜の闇に沈んだ街が、静かに彼の目に映っているのだろう。
 その静寂を壊すのを厭うかのように、冴樹は声を落として語る。
「直接、会ったわけじゃない。でも、ある街角で母さんは樹や俺とすれ違ったんだよ。その途端、記憶が蘇ったんだな。それまでの記憶を……樹と別れてからの記憶を抹消してしまった」
「どういうこと?」
「樹と出会った頃に戻ってしまったんだ。綺羅で言うなら、小学生に戻ってしまうんだ。俺たちと別れた後の四年間の記憶を消して」
 私は言葉を失った。
 記憶喪失だった人が、記憶を取り戻したとき、失っていた間の記憶を失くすという話を何かで読んだ覚えがある。それが本当にありえることなのか、わからないけれど、それに似た現象が冴樹のお母さんに起こったのだと、私は混乱した頭で理解した。
「子供二人を持つおばさんが、いきなり十七、八の娘に戻ってしまったんだぜ? 周りから見れば気が狂ったと思うだろうよ」
「……子供二人って?」
「そう。俺には何と、人間の弟と妹がいるんだな。もっとも、二人は俺なんかを通り越して今頃、社会人をやっているぜ」
 自嘲気味に笑って、冴樹は肩を竦めた。
「会ったことがあるの? その……弟さんと妹さん」
「うん、偶然に。ホラ、俺たちってこういう事情だから、一つのところにいつまでも居座ってらんねぇじゃん。長く居つくとしても三年から四年が限界だ。それを過ぎると、周りも俺たちが変わらないことに気づくんだよ。そうなったら、あらぬ噂が立つものさ。いまどき、誰も吸血鬼なんて信じやしねぇだろうけど、年を取らない人間を不気味がるのは真っ当な人間の当然の反応だろ?」
 冴樹は薄く笑った。
「不老長寿の人間がいるってことになったら、どうなるかな? 実験動物よろしく、研究と称して解剖されちまうとか?」
「解剖だなんて……そんな」
「でも、冗談で済まされることでもない気がするよ。人間って、同じ人間でも簡単に差別できてしまうからさ。人間じゃないって、わかろうものなら、何だってやっちまうんじゃねぇか?」
 ……綺羅みたいに受け入れられる方が珍しいよ、と冴樹は笑った。
 だって、それは二人が優しかったから。
 両親の不仲で落ち込んでいた私を慰めてくれたのは、冴樹と樹さんだけだった。
 私を支えてくれた二人の正体が人間じゃないものだったとしても、二人の本質がとても優しいものだと私は知っているのだ。
 だから、不気味だとか、怖いだとか思わない。
 全く驚かなかったかと言えば、嘘になるけれど……などなど、私は言い訳のようなことを口にした。
 冴樹は面白いものを見るかのような目で、私を眺めては微笑んでいた。
「綺羅って、周りから変わっているとか言われないか?」
「うーん、変わっているなんて言われたことないわ。多分、心の中では変人だと思われているんじゃないかしら。あまり、喋るほうじゃないし、一人でいることを好むところがあるし、周囲からすればとっつきにくい子だと思われているとは、自覚しているけど」
「ちょっと変わっているっていうのは個性だよ。今の世の中じゃ、それは異質だって見られがちだけど、何百何千何万何億って数の人間が、日本人だけでもいるんだぜ? それが皆、同じである方がおかしいんだよ」
「中には冴樹みたいな人もいるし?」
「そうそう。だから、変だと自覚しても、それを恥じることはないと思う。……自分と違うってだけで、差別するのは間違いなんだよ。俺は綺羅みたいな人間のほうが好きだよ。まあ、世の中が綺羅みたいな人間ばっかりだと、それはそれで困りものだろうけど、な」
「そうね」
 私と冴樹は顔を見合わせ、しばらく笑い合った。
「ええっと、話を元に戻そう」
 スッと真顔に戻って、冴樹は続けた。
「俺たちは色々な町を転々としていたんだ」
「ねぇ、下世話な話になるけれど、生活費とかはどうしているの?」
「ああ、それな。さっきも話しただろ? 暗示能力のこと」
「うん」
「俺もちょっとは使えるんだ、それ。樹みたいに血を吸ってというわけじゃないんだけどな? 本格的に記憶を改ざんするとなると、俺にはとても無理だけど。ちょっと思い込ませるぐらいなら、できるんだ。催眠術みたいな感じか? 長いこと生きていると色々なことを覚えるものだな。それでまあ、住居を手に入れたりちょこまかと」
 ばつの悪そうな顔で、冴樹は言った。
「なるだけ迷惑にならないようにはしてるんだ。家だって何年もほったらかしにしているようなところだし、たまにはバイトもしている。こういう顔だからひいきにしてくれるお姉さんもいるし」
 冴樹のセリフの後半に私はギョッと目を剥いた。
「まさか、いかがわしいことをしているんじゃないでしょうね?」
 思わず詰め寄る私の剣幕に冴樹は声を上げて笑った。
「そんな自分を安売りする馬鹿なことはしねぇって。それに、この顔を自分の売りにはしねぇって、前に話したことなかったけ?」
 そう言えば、冴樹はクラスの女子に対して、言っていた。
「ひいきにしてくれてるってのは、八百屋や魚屋のオバサンたちだよ。病気の兄貴と二人暮らしをしている、ってまあ、薄幸の美少年をちょっとばかし演じれば安くおまけしてくれるんだよ」
「……そ、そういうこと」
 私はホッと胸を撫で下ろす。
 冴樹は笑いすぎて涙が浮かんできたらしい目を擦りながら、横目で私を見た。
「それに今は差し入れてくれる彼女もいるし」
「…………」
「心配してくれてんだろ? ありがとうな。けれど、そういうわけだから生活には困ってないんだ」
「……うん」
「それで、ええっと――」
 話を脱線させてばかりいる自分に気付いて、私は話の腰を折らないようにと心に決めた。
「そんなわけで――色々な町に点々としていたから――偶然に誰かと出会うことも少なくない。綺羅と再会したのだって、そうだし。……あの時も、そう。血の繋がっている兄弟がいるなんて思っていなかった。たまたま、弟と同じクラスになって、気があって、仲良くなったんだ。弟の方は俺のことを何となく察していたらしいけど」
「冴樹のことを弟さんは知っていたの?」
「そのときにはもう、母さんはさっき話した状態になっていたんだよ。それで、樹とか俺の名前を口走っていたらしくて」
 一瞬、苦々しい表情が冴樹の顔に過ぎった。
「冴樹の名前」
「俺の名前、母さんと樹の名前を合わせたんだ。母さんの名前は冴って言う。単純な名づけだろ? でも、俺は気に入っているんだ。俺の根源がそこにあるって、感じがしねぇ?」
 冴と樹の子供――冴樹。
 なるほど、これほど明快な子供の名前はないかもしれない。単純だけど、しっかりした意図が見える。
「いい名前ね」
「ああ……」
 私の言葉に、冴樹は顔を上げると穏やかに微笑んで、頷いた。確かな愛情を感じ取ってもれ出た微笑はそこはかとなく美しくて、私は見とれた。
 冴樹は母親の手の温もりを知らないのだろう。だけど、それにあまりある愛情を感じるものを名前として授かっている。
 樹さんに溺愛されて、そして母親からも愛されて、少なくとも冴樹は両親に関してはとても幸せなのだと思う。
 私はそれがちょっとだけ、羨ましかった。
「弟は母さんの発言から、過去に子供を産んだ可能性について調べたらしい。母さんの実家から、母さん自身が忘れていた――樹に記憶を消された訳だから、覚えてなくて当然なんだけどな――日記を見つけ出して、そこで樹のこと、俺のことを知ったみたいなんだ。……母さんと樹の出会いそのものが、ちょっと話題にもなっていたから」
「えっ?」
「母さんはさ、そのとき高校生で学校の遠足で樹が隠れ住んでいた山に登ったんだ。その途中で道に迷って行方不明。地元じゃ大騒ぎだった。当時の新聞にも載っていたよ」
「そこで樹さんとお母さんは出会ったの?」
「ああ。樹は母さんの血を少し貰って、山を降りた。母さんを人間たちのところに返そうとして。だけど山に帰れなくて……そして、そのまま母さんとな」
 樹さんは目の前で迷っていた冴樹のお母さんを助けてあげたくて、手を差し伸べた。その所業はとても樹さんらしいと思う。そんな優しい樹さんに冴樹のお母さんは心惹かれた。
「弟はその新聞記事なんかも見つけてた。アルバムにはしっかり、樹の写真なんかもあって……。でも、まだ確信できなかっただろうよ。だって、同姓同名の名前なんて、そうそう珍しくないじゃん。例えば、綺羅って言う名前も珍しいけど、絶対にないってわけじゃないだろ?」
「そうね」
「それに俺と樹の外見からじゃ計算は合わない。本当の俺の年なら三十近くのはずだったからな。でも、そいつの妹――俺の妹にもなるわけだけど――妹が母さんそっくりでさ、樹はそいつらの前で思わず口走ったわけだよ。――冴ちゃん、ってな。赤の他人なら知りえるはずのない名前を」
「それで、冴樹が自分の兄弟だって知られたの?」
「ああ。隠すのは無理だと樹が話した。それで向こうもそれまでの事情を話して、母さんのことも俺たちに知れたというわけだ」
 腰に片手を当て、肩をがっくりと落とした姿勢で、ハアッと冴樹は盛大なため息を吐いた。
「結局、樹がやったことは裏目に出て、母さんはおろか弟や妹、それに旦那さんまで、結果的に不幸にしてしまった。突然、母親から自分たちのことを忘れ去られたら、これは不幸だよな。……樹の選択が間違っていたとは俺は思っていない。どちらにしろ、母さんは俺たちと生きられるはずないんだ」
「……人間だから」
 私と冴樹の間にも、敷かれた溝。飛び越えるには難しい断崖。
「そう。いずれ、母さんは年を取っていく。その母さんが、変わらない俺たちを目の当たりにして一緒にいること、これは地獄だと思う。俺だったら耐えられそうにない。そして、俺たちも年老いて死んでいく母さんを見ているのは辛い」
「けど、それは人間も同じじゃない? 人間だって、親しい人間と死に別れることはあるわ」
 私は母のことを思い出した。病気で苦しんでいる母を見ているのは辛かった。
「そうだな。でも、人間は同じように死ぬことでリセットされるだろ? けど、樹は死ねないから」
「……えっ?」
「樹の両親が残した、生きろという言葉は、樹にとっては絶対に守らなければならないことなんだ。樹が死んでしまったら、二人の存在を示すものは何もなくなってしまう。殺された意味を、失ってしまう。だから、生きなければならないって思っている。二人を犠牲にして生き延びたのだから、寿命が尽きるそのときまで」
「寿命……」
「一体、何年生きるんだろうな? 樹が父親から聞いた話じゃ、千年を生きた奴もいたらしい。もっとも、そいつも人間に殺されて、天命が尽きたって訳じゃない」
 それはつまり、千年以上も生きるということになるのだろう。
 ご両親の死を背負って、千年も生きるというのは……辛い。
 私には絶対に、真似できそうにない。
 それでも樹さんは生きようとして、生きるならば当然、その間に出会う人間たちの死も見送るのならば……。
 それは本当に辛くて、苦しくて。
 だから、逃げ出したのだろう。
 一緒に生きられないのなら……綺麗な思い出だけを胸にして。
 本当はさよならなんて、言いたくはなかったに違いない。
「人間と俺たちが、一緒に生きていくことはできない。何百年、生きてきた樹はそれを知っていた。だから、母さんの記憶を封じた」
「うん」
「自分は母さんに出会えて、その思い出だけで十分だからって。だから、母さんには人としての幸せを手に入れて欲しいって、そう願ったんだと。運命って皮肉だよな。そうやって、樹が望んだ通り、母さんが手に入れた幸せの前に、たまたま偶然、俺たちがすれ違っただけで、母さんの記憶の封印は解かれちまった」
「それだけ……樹さんのことが好きだったのよ。他の何を犠牲にしても、きっと」
 そうして、冴樹のお母さんは夢を見た。
 記憶を解いて、新たに得た家族を捨てて……誰よりも愛しかった樹さんとの夢を。
『ずっとずっと。夜が明けなければいいのにね……』
 今も蘇るあの夜の、樹さんの独白は……。
 夜が明けなければ、時間が止まったままならば、何も失われることはなかった……、と。
 それは樹さんのひそやかな願い。
 あの言葉に託された思いを知って、私は切なくなった。
 あのとき、私自身もそう望んでいた。
 両親の離婚が秒読みになっていた。私はどんなに両親が仲違いをしていようと、父が好きだったし、母が好きだったのだ。
 昔のように、いつも一緒に……私も、そんな夢を見ていた。
「かもな」
 ため息をつくように言った冴樹に、私は黙って彼を見上げた。
 白い肌に落ちた長い睫の影の奥、青灰色の瞳が揺らぐ。
「どちらにしても、もう遅い。結局、母さんは……」
「どうしたの?」
「死んじまった。車道に飛び出して――その弟の話だと、俺たちの姿を見たんだと。それは母さんの妄想だったけれど――」
 私から視線を逸らすと、冴樹は唇を噛んだ。
 ……それは、良かったことなのだろうか?
 夢を見たまま、逝けたこと。
 幸せなことだったかもしれないけれど……。
「……弟さんは?」
「母さんの最後を樹に聞かせたところで、多少の意趣返しができたんだろうな。それ以降は何も。俺たちもさっさと、その町を出てきてしまったからな」
「嫌だったの?」
 知らなくてよいはずの母親の最後を残酷に聞かされて。
 私だったら幾ら、血の繋がりのある家族でも恨むかもしれない。
「違うよ。俺も樹と同じように逃げたんだと思う。あいつらが病気した、死んだなんてことを聞きたくなかったんだよ。人間のあいつらは、どうあっても間違いなく俺より先に死ぬんだから」
 冴樹は生き続けるだろう、樹さんが生き続ける限り、ずっと。
 私はそう確信していた。
 口が悪いけど、誰よりも優しい冴樹は、樹さんを一人残して、自分の命を断ち切ることなんてできやしない。
「むしろ、気があって好きだったよ、真向も実咲も」
「まさき……?」
「弟と妹の名前だよ、マサキとミサキ」
 冴樹はその二つの名前を懐かしむように口にした。
「冴樹と名前が似ているのね」
「母さんがつけた名前だって言ってた。俺のことなんて記憶になかったはずなのにな。そういう話もあけすけに話して、真向はホント、友達みたいで。樹があいつらを不幸にしたのは事実だけど、それでもあいつは俺を認めて、一緒に暮らそうって言い出すんだぜ。結構、頭は良かったんだけど、馬鹿だよなー」
 乾いた声をむなしく響かせて、冴樹は再び歩き始めた。しばらくして、私の家が見え始める。
「ねぇ、冴樹が女の子を振るのは」
「ん? ……ああ、ひと夏の恋みたいな、そんな恋愛は俺にはできないんだよ。簡単に気持ちを割り切れるほど、俺は単純じゃない。そういうところ、樹に似たんだろうな。それに寿命が寿命だからさ、引きずってしまうだろ? それってしんどいだろ」
「だから、最初から好きにならないようにしているの?」
「……まあな。それに、この世で一番大事なものを、俺はもう知っているから。これ以上、欲張ったら罰が当たりそうじゃないか」
 冴樹にとって一番大切なもの。それは樹さんだろう。
 樹さんにとって、冴樹がそうであるように。
 だから、二人は生きていけるのだ。どんなに長い時間も、ずっと変わらない感情で。
 永遠に変わらないものが、もしもこの世にあるとすれば、それは冴樹と樹さんの二人なのかもしれない。
 そして、そこに私が入り込むことなどできないのだと、痛感した。


          *      *      *      *


『オレたち、家族だろ?』
 真向はそう言った。
 樹が一枚だけ持っていた母さんの写真。そこに写る十五、六歳の少女とよく似た面影の異父弟に、俺は笑うしかなかった。
 血の繋がりがあっても、確実に生きている時間軸は違っていた。当たり前に時間を数えれば、俺は真向よりずっと年上で年の差は十歳以上になる。
 その辺りのことをちゃんと、理解しているんだろうか?
『家族なら一緒に住むのが当然だろ?』
 そんな理屈が通るのなら、樹は母さんと別れたりしなかったし、当然、真向や実咲が生まれることはなかった。
 家族という一言で、くくって。それ以外の現実を無視できるなら、どれだけ良かったか。
 でも、俺は自分が人間という人種から外れたものであることを知っている。
『……一緒になんて、住めるわけねぇよ』
 俺は突き放すように言った。
『何で、だよ?』
『…………じゃあ、お前は自分が死ぬ前に俺を殺せるか?』
『……なっ?』
 目を見張る真向に、俺は笑う。
『首を切断して、心臓を潰して、または火あぶりにして、……そうして、お前は俺を殺せるか?』
『何で……そんなことしなきゃならないんだよ?』
『お前らが死んだ後、俺はきっと何百年も生きる。お前らの死を背負ってだ。お前らと一緒に生きた時間が長ければ長いだけ――失った存在の空虚さは、俺を苦しめる』
 長い時間を一人で生きるという経験は、俺にはない。いつも、俺の側には樹がいた。
 だから、本当のところ、一人の苦しみなんて知らない。
 けれど、樹は時折、血を吐くような呻き声を上げて眠りから目を覚ます。殺された両親の夢を見ているのだろう、と思う。
 樹は、両親が殺された現場は見ていないと言う。
『でも、帰ってこない二人を待ち続けた時間の、焦燥感は今も思い出すだけで怖いよ』と、樹は苦しそうに吐く。
『……こんなことを言うと、冴樹ちゃんに怒られそうだけどね』
 そう、小さく笑って樹は本音を漏らした。
『……時々、思うんだ。父様や母様と一緒に死ねていたら、こんな苦しい思いはしなくてすんだのかな……って』
 その呟きを聞いたときから、俺は一人になることに恐れを抱いた。
 俺が死ぬには寿命が尽きる以外には、三つの方法しかない。
 首を切断すること。心臓を潰すこと。治癒再生が追いつかないように、身体を炭にする――つまり火によって焼かれること。
 そんな死を自分から実行できる度胸がなければ、俺は生きていくことを選択するしかない。
 生きていくことを選ぶ以上、背負うものは少ない方がいい。大切だと思えた人間の、短い一生の思い出なんて、辛いだけだ。
 だから、切り捨てる。切り捨てた。
 手元に残す記憶は、真向が、実咲が笑っているもの。それだけでいい。
 彼らが死んだなんて、そんな情報が聞こえないように。
 俺は大切なものから、逃げ出した。


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