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 10,終幕


「鬼堂君は……いるかな?」
 いつもの如く、お昼を屋上で食べていた私と冴樹の前に現れたのは、他でもない村上先輩だった。私は思わず、箸を落としそうになった。
「――何?」
 冴樹は私と先輩を見比べて、それから身を乗り出すように先輩に問いかけた。私は冴樹の背中に隠れるように身を縮めた。
「食事中にすまない……」
 先輩は私から視線を逸らしつつ、謝った。
「でも、他に君を捕まえられる時間がなくて」
「別に構わないよ。それで、何?」
 少し尖った声で冴樹は問う。
「部活動のことだけれど」
「ああ、サッカー部に入ってくれっていう、スカウトの話か」
 冴樹の気のない反応に、先輩は困ったような顔を見せながら言った。
「もう一度、考え直してもらえないだろうか?」
「そこまで俺に執着する必要なんてあるわけ? ここのサッカー部って、部員は百人越えしているって話じゃん――その真偽はわかんねぇけど。どっちにしても、この時期、急に新規部員獲得なんてしている暇、あるわけ?」
 今の時期っていうと……ああ、冬の全国大会に出場するチームを決める、県大会が行われる頃だ。私はその事実と共に、先輩を応援するために出かけていた去年の自分を思い出した。
「レギュラーメンバーに、怪我人が出たんだ。補欠の奴も悪くはないんだけど、技量的に未熟な部分があって」
「それで、俺に白羽の矢が?」
「君のレベルは話に聞いている」
 先輩は私たちのクラスメイトの名前を挙げた。彼はサッカー部のレギュラーメンバーとして活躍しているらしい。その彼が、冴樹を即戦力として使えると、言っているのだと言う。
「俺のはあくまで体育の授業レベルだよ。それで判断するのは早計だと思うが?」
 冴樹はお弁当の中身を片付けながら言った。やがて、すっかり空になったお弁当箱を閉じると、お茶のペットボトルに手を伸ばす。しかし、中身は入っていなかった。
「悪い、ちょっと飲み物を買ってくる。綺羅の分も買ってくるよ。いつものやつでいいよな?」
 そう私に尋ねておきながら、私の返答も聞かずに、冴樹は立ち上がると先輩の横をすり抜け、屋上から姿を消した。
 先輩と二人、この場に取り残された私は頭を抱えたくなった。
 とはいえ、本当に頭を抱えるわけにもいかず、私は口を利かなくていいようにお弁当を黙々と食べ続けた。しかし、直ぐに小さなお弁当の中身は空っぽになってしまった。
 ……どうしよう。
 チラリと目を上げると、先輩の切れ長の瞳と視線がかち合った。
 私は笑顔を――作った。作ろうと、意識的に意図しなければ笑えなかった。
「彼と付き合っているんだってね」
「……はい」
「そうか」
「…………」
「…………」
「…………」
 会話が続かない。先輩と付き合っていた頃、私たちはどんな会話をしていたのだろう? 何だか、遠い出来事のようでよく覚えていない。
「……先輩は」
 私は声を絞り出す。
「えっ?」
「姉さんと連絡を取っていますか?」
 思ったより意外とすんなりと声が出た。顔も引きつることがなかったのは、私の中で先輩に対する未練が消化されつつあるからだろうか? もし、そうだとすれば、それは冴樹のおかげだろう。
 私は冴樹が消えたドアを見やって、それから先輩に視線を戻した。
 先輩は私を驚いた顔で見ると、少しの間を置いて、首を横に振った。
「……いや、そんなことは、できない」
「どうしてですか?」
「……どうしてって、それは……わかるだろう?」
「私に気を使って下さっているのでしたら、お気遣いは必要ありません。私は冴樹と付き合っていますし、先輩とのことはもう終わったことだと思っています」
「綺羅には……神野さんには、悪いことをしたと思っているよ。最初に付き合って欲しいと言ったのは、他でもない俺の方だったのに……」
「別に先輩は……悪くないと思います。姉さんは魅力的な人だもの。先輩が姉さんを好きになって当然だと思います」
「本当にそう、思っているの?」
 先輩は困ったような顔で笑った。何だか、泣き笑いのような顔だ。
「ええ、そう思いますけれど」
 私はどうして先輩がそんな顔をするのか、不思議に思いながら頷いた。
「綺羅は……何を考えているのか、わからない子だね」
 そっと息を吐き出し、先輩は言った。
「そうですか?」
「うん。付き合い始めた頃から、俺には綺羅がわからなかったよ。どうして、俺と付き合ってくれたのかも」
 先輩と付き合い始めたのは、先輩が付き合って欲しいと言って来たからだ。委員会が同じになって、そこで知り合った先輩の誠実な人柄が私には好感触だったから。
 だから、この人となら付き合ってもいいと思った。付き合っていくうちに、先輩のサッカーにかける真剣さや情熱といったものが伝わってきて、私は先輩を好きになった。
「綺羅は決して、自分の心の内を話そうとしなかっただろう。俺の話や悩みには、真剣に耳を傾けてくれたけれど、綺羅が俺に悩みを打ち明けてくれることはなかったよね」
「悩みなんて……」
「なかったなんて、言わせない」
 私の声を遮って、先輩は断定的に言った。その口調の強さに、私は取り繕う言葉を飲み込んだ。
「お母さんの病気のこととか……そんなこと、俺がどうこうできることではないってことは、わかっている。……それでも」
 私は……先輩を困らせたくなかっただけ。
 だから、何も言わなかった。言ったって、どうしようもないことを知っていたから。
「綺羅にとっての俺はその程度の男かと思ったよ。そしたら、綺羅のことがますますわからなくなった。いや、最初からわからないことばかりだったけれど」
「…………」
「ごめん、こんなことは言い訳だ」
 先輩は親指で額を掻くようにして、顔を伏せた。
「いいんです。先輩の言うとおりだと思いますから」
 私は首を振って、謝らないでください、と言い、その上で先輩の言い分を肯定した。
 また泣き笑いのような顔を先輩は見せた。
「そんなことを言われると、本当に俺は君にとってどうでもいい男だったんだと思うよ」
「そんなこと」
 ……ないです――と、そう続けようとした。
 だって、先輩に失恋して、私は酷く落ち込んだ。割り切れなかった未練だって残った。
 けれど……。
「そうだったのかも、知れません」
「…………」
「先輩とお付き合いしていた間は、楽しかったです。これは本当です。でも、今は……」
「うん、鬼堂君と付き合っているんだよね。……時々、彼と一緒に帰っている君を見かけるよ。よく笑っているね。俺と付き合っていたとき、綺羅はあんなに笑っていたかな?」
「……冴樹とは」
 何でも話せている。それは冴樹が私の事情を何でも知っているからだ。
 そして、冴樹も何もかもを私に打ち明けてくれたから、私は彼の隣で安心して笑っていられる。
 今にして思えば、私は先輩のことを心の底から、信頼してはいなかったのだろう。そんな相手と恋愛しても、きっと長くは続かない。
「お似合いだよね」
 先輩がそう言った。
 私は自嘲気味に思う。
 けれど、それは偽りなんです――と。
 冴樹は私に恋愛感情なんて持っていない。だって、冴樹は恋なんてしないと心に決めていて、恋愛感情を持って近づいてくる人間を冷たく拒絶している。
 私が拒絶されないのは、私の心の中には先輩の存在があったから。
 でも……今は。
「悪い、待たせた」
 ドアが開いて、冴樹が現れた。手にした紅茶の缶を私に差し出してくる。そして、先輩にも一缶差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
 複雑な表情で、先輩は受け取った。
「悪いけど、部活の件はなかったことにしてくれ。俺はやっぱり、部活動なんてしていられないから」
「どうしても? 何か事情があるのかな」
「ああ、人間には人それぞれの事情ってものがあるもんさ。それは人に話せば、解決できるようなものかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも、俺の事情はアンタにどうこうできるものじゃない」
「……そうか」
「俺を見込んでくれたのに、悪いとは思う。だけど、こればかりは譲れない」
「うん、わかった……」
 先輩は一つ頷くと、邪魔したね、と謝って静かに去っていく。
 私は屋上のドアが閉じられる、その瞬間に声を張り上げた。
「――先輩っ!」
 駆け寄ってきた私に、開いたドアの隙間で先輩は目を丸くした。
「姉さんに連絡を取ってください。私のことは本当に気にしないで。むしろ、私のことで先輩と姉さんが好きあっているのに、別れてしまうのは悲しいです」
 一気にまくしあげる私に、先輩は小さく笑った。
「ありがとう、綺羅」
 ドアがそっと閉じられる。閉じてしまうと、私は糸が切れたマリオネットみたいに、その場に座り込んだ。
 そんな私の頭をポンと、冴樹の手が優しく触れた。
「冴樹、もしかして、わざと……私と先輩を二人きりにしたの?」
 振り返った私に冴樹はニヤリと笑う。
「……我慢はよくないってさ、昔、俺は言っただろ? 言いたいことがあるなら、言うべきだし、泣きたいのなら泣けばいい。お前の涙を止める権利なんて、誰にもない」
 手のひらの優しい温もりは、昔のままだった。
 だけど、あの日と違って、私は涙をこぼさなかった。
 先輩への恋が完全に終わって――自分自身にもけりを付けて――悲しい気持ちはあったけれど、それよりもずっと強い気持ちに気づいてしまった。
 私、冴樹が好きだ。小さい頃からの気持ちに、再度、火がついて。
 先輩よりもずっとずっと、好きになってしまった。
 口にした途端、きっと壊れてしまうこの恋に私は気付いてしまった。


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