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 11,優しさの罪


 私は先輩と付き合い始めてから、そして別れた理由。それから、冴樹に偽の恋人を演じさせた経緯を包み隠さず話した。
「綺羅はいつだって、自分より他人のことを優先させるんだ」
 冴樹はため息を吐くような調子で、言った。
「自分の願いを我慢して、いつも辛い目ばかり。昔からさ、見ていて痛々しいったらなかったぜ」
「……だから、私の馬鹿な企みにも付き合ってくれたの?」
 夜も遅くに家を出る小学生を、注意することなく迎えてくれたように……。
 問いかけた私に、冴樹は小さく笑った。
「俺が全部、承知していたこと、気づいていたのか?」
 私は首肯した。
「同情してくれたのね。冴樹は、口は悪かったけれど、優しかったもの」
 懐かしいあの夜も……。
『迷子にでもなったか』と、からかうような口調で、小さな私の手を取ってくれた。
『ちょっと、付き合え』
 そう言って、冴樹は私を河原へと導いて、
『花火を買ったんだ。大人の男二人が、花火に興じている図を見られたら、まあ、恥ずかしいよな。だから、綺羅も付き合ってくれよ』
 笑いながら冴樹は、私に花火を持たせては、火をつけた。
 小さく咲いた花火に、はしゃぐ私を見下ろしては、
『火傷には気をつけてくれよ?』
 そう言って、私の背後に回って、私が変な方向に花火を振り回さないように、手を添えてくれた。
 ぶっきらぼうに言いながら、私が怪我をしないように見守ってくれて。
 そんな冴樹を樹さんはとても眩しそうに見つめて、微笑んでいた。
 冴樹や樹さんと一緒にいると、私は両親の不仲を忘れることができた。
「同情……なのかな?」
 少し考えるような間を置いて、冴樹は首を捻った。
「違うの?」
「うーん、何か、似てんだよ。綺羅と……樹。そして、俺も」
 そっと今度はため息を吐くと、冴樹は顔を逸らして屋上から見える景色を眺めた。
「自分がどう生きたいのか、明確なビジョンはあるのに、それを実行できない。回りの思惑に敏感すぎて……傷つけたくなくて」
 私は両親に離婚して欲しくなかった。けれど、二人のことを思えばそんなことを口にできなかった。もう、お互いの顔を見るだけで罵りあう夫婦に、夫婦であることを強いるのは残酷だと子供の私でもわかってしまった。
 だから、何も言わなかった。我慢して、我慢して、そして、冴樹と樹さんの前で涙をこぼすのがやっとだった。
 冴樹も樹さんも――樹さんの場合は、冴樹のお母さん、冴さんのことだろう――大切なのに、あまりにも生きる時間軸が違いすぎて、傷つけないように、本心を偽って我慢して。
「……自分に優しくするみたいに、私に優しくしてくれたの?」
 冴樹は、私に自分自身を重ねたのだろうか? だから、優しかったの?
「そうかもしれない。勿論、俺が綺羅を好きだってこともあるけれど」
 ……俺は誰彼、構わずに優しくできるほど器用じゃねぇし、と言う冴樹の笑顔に私は胸が痛くなった。
 冴樹が何気なく発する「好き」という言葉。そこには深い意味なんてないのに、ドキリとしてしまった。直ぐにその浅はかさに自己嫌悪を覚える。
「ホントは最初、彼氏になってくれっていう話は断ろうと思ったんだ。嘘の恋人を作って、気持ちを無理矢理終わらせてもさ。そんなことをしても、傷つくのは目に見えている。だったら、未消化の気持ちを抱えて、とことん苦しんで泣いたほうがスッキリするかもしれない。どちらにしても、傷つくのなら……自分の気持ちに自分でケリをつけたほうがいいって、そう思った。でも、止むに止まれぬ事情ってのがあって、そんな風にできない場合があることを知っていたから……」
「だから、引き受けてくれたのね」
「ホント、綺羅のためにはどっちがいいのか、わからなかったんだ」
 少し前の私なら、冴樹の厚意に素直に喜んでいたかも知れない。けれど、この気持ちに気づいてしまったら、今の自分の状況を垣間見て、喜べない。
 偽りの恋人として、こんなに冴樹を身近に感じなければ、私の初恋は昔のままで終わっていた。それなのに……。
「冴樹も、我慢していることがあるの?」
 私は冴樹から視線を逸らして、屋上からの景色を眺める。先ほど、冴樹が見ていた景色と私が見ている景色は、果たして同じだろうか?
「そりゃあ、俺はさ、人とは違うわけだろ? 人と同じ願望を抱くことができないわけよ」
 苦笑交じりの冴樹の声に、私は彼を振り返った。
「まだ自分の血がどういう形で現れるのか、わからなかった頃はさ、色々と夢見ていたわけさ。大人になったら、何々になりたい、なんてさ」
 私の視線に気がついて、冴樹は軽く肩を竦めた。
「今の時代じゃ、そんな夢を見ること自体、稀かもしれないけどな。綺羅は将来の夢とかあるか?」
「……よくわからないわ。何がしたいのか、私に何ができるのか」
 首を横に振って、答えた。
「オイオイ、大丈夫かよ? 来年、受験だろ? まあ、そういう時代なのかねぇ。とりあえず、大学に入っちまえって……それから、今後を決めるって」
 冴樹は胡坐を組んだ膝の上に、片肘をついた姿勢で遠い目をした。
「……何だか、年寄りくさいわ、その言葉」
 私が笑うと、冴樹は唇の端を緩めた。
「実際に、綺羅よりずっとオッサンなんだよ、俺は」
 まるで、現実を突きつけるように冴樹は告げた。その声に笑いは一欠けらも感じられない。
 私が微かに目を見張ると、冴樹は視線を逸らした。
 ……もしかしたら、冴樹は私の気持ちに気づき始めているのではないだろうか。
 私も気まずさを覚えて、冴樹の横顔から視線を外した。
「一つ一つ年を取っていく俺を見てさ、樹は何を感じていたのかな」
 ポツリと呟くように冴樹は言った。それは独白のようで、私は口を挟めなかった。
 何と言っていいのか……。
 冴樹と樹さんが不老の存在だと知ったときから、私には二人の疎外感なんて、実際、想像しても、少ししかわからなかった。
 その答えがこんなときに、簡単にわかるはずもない。
「もしかしたら、俺は人として朽ち果てていく可能性だってあったんだ。俺が太陽光の下でも平気だってわかったときから、樹はその可能性を知っていたわけだろ?」
 問いかけられた言葉に、私は視線を逸らしたまま、頷いた。
「そうね……」
「どんな気持ちだったんだろうな。もし、俺が成人して、普通に年を取っていったら……」
 そのとき私は、冴樹と出会っていなかっただろう。
 出会っていても、冴樹に恋することもなかっただろう。
 七年前、私の家の隣に越してきたのは、高校生のお兄さん。憧れて、初恋と自覚したけれど、年の差を前に初めから諦めていた。
 でも、今は同じ年であまりにも近くに感じて……。
 これは錯覚だ。冴樹が不老故の幻。
 現実には冴樹は私よりもずっとずっと長く生きていて、彼にしてみれば、私は頼りない子供で。……昔と同じように、転ばないように、怪我をしないように、手を差し伸べただけ。
 この年の差を否定するつもりはないけれど、冴樹が普通に年を取っていて、何十という年の差の前に私は、冴樹は、あまりにも違いすぎる生活空間で互いを思いやれる優しさをもてただろうか?
 冴樹に恋ができた?
「今なら、樹のその気持ちもわかる……かな」
 盗み見た冴樹の、寂しげな表情は、昔、よく見た樹さんの表情と重なる。
 冴樹にどんな気持ちなの? ――そう問いかけることはできなかった。想像することはできても、本当に理解できるわけはない。そして、そんなことを軽々しく口にすることは、はばかられた。
 ずっと変わらない冴樹に、変わっていく私が、どんな気持ちか? なんて。
 ……あまりにも、私と冴樹の間にあるものは、大きくて、どうしようもなくて。
 冴樹が好きだと気がついた、この気持ちを伝えることは冴樹を苦しめることになるだろう。そう、わかる。
 同じ時間軸で一緒にいられるのは三年程度。その時間で終わってしまう恋かもしれない。
 永遠に続く気持ちなんて――両親や先輩とのことを省みても――私は知らない。
 だけど、初めから終わりを見据えて、恋なんてできるだろうか?
 ……きっと、できやしない。
 だって、冴樹はそんな恋を初めからしようなんて考えていないから。
 冴樹が今、私の側にいてくれているのは、昔馴染みの厚意からであって、それは好意じゃない。
 勘違いする方が間違っている。そんなこと、わかりきっていたことなのに。
 ……どうして、冴樹が好きだなんて、私は。
「チャイムだ」
 冴樹が腰を上げて呟いた。えっ? と、我に返る私の耳に予鈴が響いた。
「教室に戻ろうぜ」
 冴樹は空のお弁当箱を持ち上げて、ドアへと向かう。ドアを開けて、振り返った冴樹は、反応が遅れてその場に止まったままの私に笑いかける。
「何やってるのさ、綺羅。行こうぜ」
 戻ってきて、私の手を取ると座り込んだ私を引っ張り起こす。そして、手を繋いだまま、私たちは屋上を後にする。教室に戻るまで、私は冴樹と手を繋いでいた。
 手を離すことはできたけれど、私は手を離したくなかった。
 そっと、手に力を込めた。冴樹は無言で私の手を握り返してきた。昔は大人の大きな手だと思ったけれど、今は私よりもほんの少しだけ大きいくらいで……。
 多分、冴樹に他意はないのだろう。先輩と完全に終わってしまった恋に、私が落ち込んでいると、そう思って、私に優しくしてくれているのだろう。
 優しいから……優しすぎるから。
 気づかなかったら、良かったのに。
 冴樹を好きだなんて、気づかなければ……良かった。


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