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 12,告白の行方


 季節は巡る。
 冴樹が転校してきたのは夏の名残を存分に残していた九月の半ば。でも、段々と日が短くなって、夜が長くなるにつれて季節は凍えていく。
 終業式を終えた帰り道、冴樹はコートのポケットに両手を突っ込んで歩いていく。意外に寒がりなのかもしれない。少し猫背気味に身体を丸めている。
 そんな彼の背中を一歩の距離を置いて、私はついていく。
 マフラーに半分、顔をうずめた冴樹から白い息が流れる。
「そういえば……」
「えっ?」
「サッカー、決勝で負けちまったんだってな」
 不意に投げられた話題は、もう二週間ばかり前に終わった全国高校サッカー選手権の県大会のことだろう。村上先輩が率いる我が校は決勝まで進んだが、惜しくも敗れてしまった。
 あの日、屋上で先輩とのことを吹っ切ってから、私が先輩のことで動揺することはなくなった。先輩よりも冴樹への気持ちがずっと強いことを自覚した私は、姉に対して抵抗なく先輩とのことを応援するようになっていた。
 姉は何度も、私の気持ちを確かめるようなことを聞いてきたけれど、先輩が積極的に動いてくれたことも合って、その問題も解決した。
 大会が始まってからは、姉は先輩の応援に出かけるようになっていた。
 決勝で、負けた試合の日は、姉も酷く落ち込んでいた。
 それは自分のことのように。
 私には多分、できなかったことで……やっぱり、先輩には姉のほうが似合っていると思った。
「惜しかったな」
「そうね」
 冴樹が加わっていたら、結果は変わっていただろうか?
 時折、虚しいことばかり、私は考える。冴樹が普通の人で……あったらなんて。
「じゃあ、綺羅。新学期にな」
 冴樹の声に我に返ると、そこは私の家の前だった。立ち止まった私に、冴樹は笑みを向けると、去っていこうとする。
 その背中に私は呆然と呟いた。
「新学期……」
 冬休みの約束なんて、できるはずない。私と冴樹は、私が先輩への未練を断ち切るために、結んだ恋人契約によって、一緒にいるだけなのだから。
 だから、本当はもう、姉と先輩がカップルとして成立したと見なされる現状において、冴樹が私の彼氏を演じる必要はない。
 ただ、直ぐに別れてしまえば、私の幼稚な策略が姉にもわかってしまうだろう。冴樹は何も言わずに、二ヶ月と少し茶番に付き合ってくれた。
 いつまで、続けていくのだろう。
 いつまで、続けてくれるのだろう。
 目を上げた私に、冴樹の姿が映った。半分、こちらに身をよじって見ていた。
「……あ、また、遊びに行ってもいいかしら。樹さんともまたお話したいし」
 私は小首を傾げるようにして、彼に尋ねた。
 それは恋人同士がデートの約束をするのとは違って、ただただ昔を懐かしむようなものだったけれど。
 約二週間の冬休み。何もないよりは、ただ一つの約束が欲しいと思った。
「綺羅……、いつまで続ける?」
 冴樹は俯くとマフラーに鼻先をうずめて、問いかけてきた。
「えっ?」
 問い返す私の声は震えていた。
「いや……だって、俺がいつも側にいたら、綺羅に男が近づいてこなくなるじゃん。俺としては綺羅が側にいてくれて、俺の顔目当てで近づいてくる女がいなくて助かったけどな」
 軽口を叩くように、冴樹は言った。青灰色の瞳を横に流しながら、視線を逸らす。
「だから、冬休みの間に喧嘩して別れたとか、そんな理由ならわりと、不自然じゃないだろ? クラスの奴らの手前」
「……男の人だなんて」
 だって、私は冴樹が好きなのに?
 新しい恋なんて、欲しくはないのに?
「今すぐには無理かもしんねぇけど。そうそう先輩みたいないい男は転がってないだろうけど。でも、綺羅をいいって言っている野郎は多いぜ」
 冴樹は私と違ってあっけらかんとした性格からか、同性に妬まれるということはなかった。愛想はいいけれど、だけど口の悪さを隠しはしないし、女の子に媚びるということをしないからだろう。教室の中では割と自然に他の男子生徒たちの中に溶け込んでいるところを見かける。
 もっとも、昼休みや放課後は優先的に私のために時間を割いてくれていたけれど。
 私の知らないところでは、普通の高校生として、同級生たちと普通に話しているのだろう。
「まあ、明らかに、綺羅のこと美化している奴もいるけどな?」
「美化?」
「何でも美人で、頭も良くて、何でもできて」
「……私のことじゃないみたい」
 私は笑う。自嘲気味に。
「だよな。美人は認めよう。頭もいいことは、テストでわかる。でも、何でもできるってわけじゃないよな?」
 ハハハッと声を響かせて、冴樹は続けた。
「色んなことを我慢して、いい子に見せているだけさ」
「……そうね」
 本当に、冴樹の言うとおり。
 昔は、両親にとっていい子であればと思った。困った顔をさせたくなかったし、イラつかせたくなかった。険悪だった仲をこじれさせたくなくて、泣きたいことを我慢していた。 
 今は母がいなくなった家庭に、自分の居場所求めて。
 父に姉に、気を使っているということはないけれど、困らせないようにしなければいけないという意識はいつもある。
 冴樹にしたって、この気持ちを伝えれば困らせると思うから……。
「前にも言ったけど、そんなに我慢しなくていいんだぜ? 泣きたいことがあるなら、泣いていいんだ」
 半歩距離を縮めた冴樹が、私の頭に手を乗せた。
 昔みたいに凍った髪越しに伝わってくる温もり。
 我慢しなくていいと、冴樹は言うけれど……本当に言っていいの?
 私の気持ちを伝えたら、困るのは他でもない冴樹なのに。
 私のことなんて、全く眼中にないのだろうか?
 だから、そんな簡単に私の心の戒めを解こうとするの?
「私は……ずっと、一緒にいたい」
 囁くように、私は心を吐き出した。
 頭を撫でられるままの姿勢で、俯いて。
 冴樹の表情なんて見られなくて。
「…………」
 落ちる沈黙に、耐え切れなくて。
 喉から溢れだす言葉をそのまま、声にのせた。
「冴樹が好き。冴樹とこれからも一緒にいたい。ずっと……」
 ――だから、止めるなんて言わないで欲しい、と続けようとした言葉は……。
 冴樹が伸ばしてきた腕が私の肩に触れて、彼の胸に抱きすくめられる形で遮られた。
 押し付けられた胸板の奥から響く、冴樹の鼓動は一定のリズムで、動揺なんて欠片にも感じられない。
 ドクドクドクと、その心拍音は私たちと変わらないのに、リズムが刻む時間は私たちとは違っている。
 ずっと一緒にいることなんて、無理だということは、わかりきっていること。
 それは私だってわかっていて……冴樹だって、わかっている。
 冴樹は私の気持ちなんてもう既にお見通しで……。
 だけど、聞きたくないから……私の口を塞いだの?
 ギュッと握った拳を冴樹の胸に押し当てようとしたとき、私の頬に彼の髪が触れた。絹糸のように細く艶やかな漆黒の髪を横目に見ると、冴樹は私の肩に顔を伏せる形で呻いた。
「綺羅を……俺たちの世界に連れて行けたらいいのに」
「冴樹……」
「俺と同じ時間の中に、連れて行けたらいいのに……」
 独白のように呟いて、顔を上げた冴樹は青灰色の瞳で私を見下ろした。
「でも、そんなことはできないんだ。同じ時間に生きることができないのなら……」
 トンと肩を押されて、私は突き放された。
 それは、たった一歩の距離であったけれど。
 私と冴樹の間に決定的な違いとしてある時間軸の、私には踏み込むことの許されない領域への境界線が見えた気がした。
 そんな絶対的に縮められない距離を前に、立ち尽くす私に冴樹は微かに笑う。
「俺のことは忘れろ、綺羅」
 サッと、身を翻して、冴樹は坂を登っていく。私は追いかけられずに、立ち尽くしたまま、
「…………何で」
 ――冷たくしないの?
 小さくなる冴樹の背中に、私は問いかける。もう私の声は届かない。
「他の女の子たちみたいに……」
 二度と、近づこうと思わないくらいに、冷ややかに。
 私の気持ちを否定して……しまえばいい。
 それなのに、どうして何も言わないの?
 私が冴樹たちの秘密を皆にばらすと恐れているの?
 そんなことをする人間だと、私は冴樹に思われているのだろうか?
 告白を突き返されたことが悲しかったのか、信用されていないことが苦しかったのか。
 自分でもわからないままに、私は四年ぶりに涙を流した。


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