5,お喋り兄貴と無口な妹 ジリジリリリリと、目覚まし時計が鳴っている。 その音は、鼓膜を盛大に震わせて俺の意識を眠りの淵から叩き起す。 俺は朦朧とした意識のままベッドサイドに手を伸ばし、目覚ましのベルスイッチをオフに解除した。 そうして、薄っすらと見開いた視界に飛び込んできたのは……。 『おはよう、誠人君』 中空に浮かんで、こちらを真正面から見下ろしてくる死人の影に、俺は顔を顰めた。 「……幾ら美形でも、目覚めの初っ端に男の面は見たくねぇ、失せろっ!」 投げつけた枕は、あっさりと秋良の身体を素通りし、天井に届く前に落下して俺の顔に落ち着いた。 「……くそ」 掛け布団を剥いで起き上がる俺の前に秋良が回りこんできた。 『不機嫌だね。もしかして、低血圧? 寝起き悪いほう?』 「うるさい! 念仏唱えるぞ」 眼力で殺す勢いで睨みつけ、秋良を黙らせる。俺は乱暴に服を脱ぎ捨て、制服に着替えた。顔を洗いに洗面所へ。歯を磨いて、顔を洗うと俺も落ち着いてきた。 「……何で、お前はここにいるわけ?」 背後霊みたいに張り付いた秋良を振り返った。 結局、昨日はこれから本題に入ろうとしたところで親父が帰ってきた。部屋を片付けるために、きりがよいところで仕事を早々に終わらせたのだという。 親父は俺の部屋にいた夏月に目を丸くした。お袋や姉貴だったら、秋良の存在に気付いて事情を察してくれたんだろうが、親父にそれを求めるのは無理だ。事情を話しても良かったのだが、肝心の事情を俺はまだ秋良から聞いていなかった。 とりあえず、友達だと紹介した夏月を親父は何を思ったのか、一緒に夕食をと誘った。 「誠人が友達を家に連れてくるなんて、初めてだね。これは記念日だ。一緒にご飯を食べよう」 夏月は困惑一つ見せることなく、無表情に首を横に振った。 「そんなこと言わないで。誠人をよろしく頼みます。コイツったら、放っておくと平気で二日ぐらいご飯を食べないんだ。高宮さんだっけ? こうして知り合えたのもご縁だし、これから誠人とご飯を食べてやって」 「何を頼み込んでいるんだ、親父は」 「だって……お前に何かあったら母さんに怒られてしまうよ。とりあえず、朝と夜は私が用意するとして昼は見張りをつけてないと抜くでしょう、誠人は」 「…………」 そんなことはない、と言いたかったが。柿崎という連れがいたんで今日は購買に寄った。でもな、あの賑わう購買で毎日パンを買うっていうのは……面倒だな。 「ホラ、やっぱり」 俺の沈黙に親父は非難がましい目で見つめてきた。 「こういう子なんだ。だから、お願いします。誠人を見捨てないで」 ヒシッと夏月の両手を掴んで、親父は頼み込む。 中年男が女子高生の手を握って離さない図は、はたから見るとヤバイだろう。 俺はスリッパを脱いで親父の頭を叩こうとしたところで、秋良が何やら夏月に耳打ちした。彼女は親父を見上げてコクンと頷いた。 「そう、有難うっ! 待っていてね、今、夕食を作るから」 親父は小躍りしながら台所へ駆け込んで行った。俺は夏月を見、秋良に視線を移して、尋ねた。 「何て言ったんだ?」 要らぬ心配だと思うが、兄貴の言葉にやたらと従順な夏月に不安を覚えなくもない。 『うん、お昼ご飯のときに話を聞いてもらえばいいね、って』 「……ああ、そう」 『迎えに来たんだよ』 俺の回想を断ち切る秋良の一言が割り込んでくる。俺は死人を見上げた。 「……夏月も?」 『うん、外で待っている。一緒に学校に行こう』 俺は慌てて玄関に向かう。ドアを開けたそこに、夏月は壁に背中を預けて待っていた。無表情で俺を振り返る。 「おはよう」 俺の挨拶に夏月はコクンと頷いた。 ……無口なんだな。昨日から一言も声を聞いていないぞ。 「あー、とりあえず、中に入って。朝飯、片付けないとお袋に密告されるから」 お袋に飯を抜いたことが知れると、小遣いがカットされる。別に物欲の薄い俺としてはそう困らない。本は図書館から借りればよいだけのことだ。新刊を買えないっていうのが辛いといえば辛いけど。 俺は夏月を家の中に入れて、台所に向かう。彼女は俺の後ろからついてきた。 『誠人君はお父さんと二人暮らし? お母さんは?』 「お袋と姉貴は向こうに残った。こっちは親父の転勤で、俺だけついてきた」 『受験生なのに?』 「俺、こっちの大学志望だから。あ、席に座りなよ」 『そうなんだ』 俺はコーヒーカップを三つ取り出して、コーヒーメーカーにセットされたコーヒーを注いだ。それを夏月と秋良の前に置く。 『どうして、僕の分も用意してくれるの? 僕、幽霊だから食べないし飲まないよ』 秋良は目の前に置かれたカップに首を傾げた。 「お供え」 俺は端的に応えた。秋良は目を丸くした後、嬉しそうに笑った。 『なんか、夏月以外に僕のことを見てくれる人が現れるなんて思わなかったよ。しかも、その見てくれる相手が誠人君みたいないい人で良かった』 「俺はそんなにいい人でもないと思うが」 『そうかな。お供えなんて発想はちゃんと死者をいたわれる心優しい人がするものだよ』 「死人は呆れるくらい見ているからな」 母親を捜して回る子供の姿が、脳裏を横切る。あの子供をどうやったらいたわれるのか、俺にはいまだにわからない。 『……見えるって大変だよね。僕はこういう身体になってから幽霊の存在を知ったよ。それからずっと夏月の側にいて、色々見てきたから……誠人君がどんな思いをしてきたか、少しはわかるつもり』 「……夏月はいつから見えてんの?」 俺の問いに秋良は夏月へ顔を向けた。 『……僕が死んだときから。僕が最初だったんだ。僕が夏月の前に現れなければ夏月はもしかしたら幽霊を見ることなんてなかったかも』 「秋良が死んでから……って、ここ二、三年?」 年の具合から見て推測する。秋良は俺に視線を戻すと、首を横に振った。 『夏月が七つのときだから、十年前だね。ちなみに、僕は十七で死んだ……殺されたんだ』 「十年前っ! お前、二十七?」 とてもそうは見えない面に絶句する。 『誠人君、間違えちゃいけないよ。僕は永遠の十七歳さ』 チチチッと指を車のワイパーのように振り、秋良は言った。 「…………ああ、そうだったな」 十年も経てば、死人も自分の死に対してこだわりがなくなるのかもしれないな。妙にさばさばしている秋良に、俺はそんなことを思う。 「殺されたって……」 ピピピピ、という音が俺の言葉を遮った。 あ、やべ、もう時間だ。俺は台所に置いた小さな目覚まし時計のベルを止めた。一人だとのんびりしてしまうから、登校時間を設定し、ベルが鳴るようにしていた。 「もうそろそろ、家を出ないと遅刻しちまう」 慌ててトーストを口の中に押し込んで、コーヒーで飲み込む。 『よく噛まないと駄目だよ〜』 お前は俺のお袋か? 説教してくる秋良を睨み、コーヒーをコクコクと無表情で飲んでいる夏月にため息を吐いた。 「夏月、行こうぜ」 黒い瞳が俺を見、秋良へと向かう。 『遅刻しちゃうんだって。行こう』 秋良の言葉に頷いて、夏月は席を立った。流しで自分が飲んだカップを洗って、秋良の後をついて玄関にやってきた。 何だか、犬みたいだな。秋良に従順で。 昨日見た、ピンと背筋を伸ばして他の誰も自分には関係ないという風に歩いていたときとは違って見える。 でも、やっぱり笑わない。秋良に対しても無表情で……せっかくの美貌も勿体ない。 『誠人君、何、ぼんやりしているの?』 俺を置いて、先に外に出た秋良と夏月がこちらを見ている。 「別に」 俺は誤魔化して靴を履いた。頭の上で、昨日の親父との約束を覚えていたのか、秋良が思い出したように言った。 『そうそう、誠人君、お昼は屋上で一緒にご飯しようね』 昨日と違って、今日は誰も近づいてこなかった。夏月と一緒に下校して、登校してきたことで俺は夏月側の人間と思われたようだ。それとも、夏月の呪いが俺を通して自分にも回ってくると恐れているのだろうか。 静かで良い、と思う反面、あまりに顕著な反応に馬鹿馬鹿しさを覚える。 何が、呪いだ。……夏月の事情も知らないで、彼女の他人を寄せ付けない無関心さと、回りに起こった事象だけで勝手に呪われているだなんて。 大体、柿崎から聞いた話を推測すると、集団で夏月を待ち伏せした先輩たちについては、秋良がその先輩に憑依してのことだと思う。 強い霊は時に人に取り憑いて支配することもままある。さすがに意識まで支配はできないようだが。でも、その他の件は偶然だ。秋良が憑依できる強い霊なら、植木鉢を落としたりロッカーを倒したりなんて回りくどい方法を取る必要はない。偶然が夏月に味方した。それを呪いだなんて。 昼休みになって、俺は席を立つ。教室を出たところで、購買に向かうらしい柿崎と出くわす。 「購買、行くの?」 声を掛けると、柿崎は俺から少し距離を取りながら頷いた。 ああ、コイツは俺に面と向かって夏月は呪われているから近づくのは止めたほうがいい、と言った奴だった。だとすれば、呪いを信じている柿崎は自分に呪いが及ぶことを真剣に心配しているんだろう。 「あ、そう。じゃあね」 俺は購買に行くのを止めて、そのまま屋上に向かった。 屋上にはもう夏月が来ていた。ぐるりと四方を囲んだフェンスに背中を預けるように座っている。その肩の付近に浮いている秋良が俺に気付いてフワフワと飛んでくる。 『誠人君、パンとか買ってきた?』 「……いや、何か、面倒で……。別に一食くらい抜いても平気だし」 『ご飯はちゃんと食べなきゃ駄目だよ〜。まあ、それはともかく、おいでおいで』 手招きする秋良についていくと、夏月が俺に向かって包みを差し出してきた。 「何、これ」 『お弁当だよ。夏月が作ったんだ』 「えっと……俺に?」 『そうだよ』 夏月に問いかけたが、俺に応えたのは秋良だった。 ……妹に喋らせろ、と俺は心に思った。 こいつが全部喋っちまうから、夏月は無口になってんじゃないか? とはいえ、秋良が会話を成立できる相手はコイツが見える俺と夏月しかいないわけだが。 夏月は俺の手に包みを乗せると、自分用に用意していた弁当を広げた。 『誠人君がいて良かったよ。夏月も自分一人だとパンで済ませちゃうんだから。パンだとどうしても栄養が偏っちゃうでしょう。今日は一緒に食べてくれる人がいるから、お弁当を作ってみようって言ったんだ』 何と応えたらよいものか、迷っている俺を余所に秋良はぺらぺらと喋っている。 『それに、お弁当作りは料理の練習になるからね。誠人君に食べてもらえれば夏月の料理の腕がどれぐらい上がったか、判断してもらえるし、誠人君はお昼を用意しなくていいから一石二鳥だよね』 ニコニコと笑って、秋良。 『とはいえ、僕は味見ができないから出来栄えについてはどうとも言えなくて、失敗していたら困るから朝は何も言えなかったんだ』 「……そう」 やたらと饒舌な死人だ。俺は口を挟むタイミングをなくして、しょうがなく夏月の隣に腰掛けた。 兄貴の一言があれば、夏月は知り合ったばかりの男に弁当を作るのか。 ……なんていうか、それでいいのか? という気がしないでもない。 手作り弁当を作る相手っていうのは、好意を持っている奴でなくていいのか? 『誠人君、食べないの?』 秋良がこちらを覗き込んできて、俺は慌てて包みを解いた。 小さな二段重ねの弁当箱。下段はえびピラフ。上段には鳥のから揚げに、卵焼き。ほうれん草のおひたしに、片抜きしたニンジンのソテー。アスパラのベーコン巻き。ミニトマトにブロッコリー。定番のおかずだ。見栄えは良い。 一口、口にする。味付けも悪くない。うん、俺はこれぐらいの塩加減の味付けが好きだな。 『……どう?』 まったくの無表情で自分の弁当を食べている夏月に対して、秋良はまるで自分が作ったもののように尋ねてくる。 「美味いよ」 『美味しいって、夏月。良かったね〜。明日は和風弁当に挑戦してみようね』 そう秋良が声を掛けると、夏月は顔を上げ、無表情で頷いた。 笑うかと思ったが、笑わなかった。ちょっと、残念。 弁当を空にすると、夏月がお茶のペットボトルを差しだしてきた。 「ありがとう」 礼を言う俺にやっぱり無表情で頷いて返す。その夏月の横で神妙な面持ちの秋良が口を開いた。 『さて、昨日の続きを話そうか』 |