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 9,生者と死者


 膝に顔を伏せて、丸くなっている彼女の横に腰を下ろす。
 丸くなった背中が俺の気配に気がついて、ぴくりと反応した。でも、夏月は顔を上げない。無言の背中を俺は見つめた。
 ピンと背筋を伸ばして歩いていた夏月の面影は、どこにもない。
 きっと、秋良がいたから、誰のどんな視線にも耐えられたのだろう。けど、秋良がいなかったら、夏月はこの世に一人ぼっちで……。
「……ひとつ聞いていいか? お前は俺が秋良の死体を見つけることをどう思っているんだ?」
 丸くなった背中はそのままだ。
 俺に対しても心を開いてはいないわけか。今までは秋良がいたから、俺にも対応してきたってところだろう。
「別に、返事をしなくてもいい。ただ……聞いてくれ」
 俺はそっと息を吐いて続けた。
「俺は秋良の死体を見つけるよ。それが秋良のためにも夏月のためにも良いと思うから」
 サラリと黒髪が流して、夏月は顔を上げ、肩越しに俺を振り返った。初めて見たときから印象的だった双眸で、キッと睨みつけてくる。
 ……やっぱり、見つけて欲しくないんだな。
 俺は睨みつけられた視線を真っ直ぐに見つめ返した。
 秋良の死体が見つかったのなら、秋良は成仏してしまうかもしれない。それは秋良にとっては良いことだろう。でも、秋良しかいない夏月にとってみれば守護を失う、家族を失う、孤独への第一歩だ。
 誰にも媚びないというのは俺にしてみれば憧れる生き方だ。
 でも、それは一人で生きていくというのとは違う。
 一人で生きていくなんて、秋良が言うように土台無理な話だってのはわかっている。病気で倒れたら、それこそ死に直結する。群れることが生きていくことの大前提だ。人も動物も。
 だけど、俺たちみたいな異端者はその群れからはじき出される。見えないものを見て、聞こえない音を聞く。ただ、それだけのことで、異端者にされる。変わり者だと一線を引かれる。
 群れからはみ出した俺たちは群れに戻れず、孤高を気取って生きていくしかない。
 本当は孤独が好きなわけじゃない。誰も受け入れてくれないから、一人で生きていくしかないんだ。
 俺を睨み続ける夏月に俺は顔を寄せた。息がかかる距離でその双眸を覗く。
 夏月は精一杯に強がって、かたくなに俺から目を逸らさずに、ただジッと睨みつけてくる。
「……教科担任、秋良の元彼女だってな」
 俺の言葉に長い睫が震えた。唇を噛んで、夏月は顔を逸らし、俺から離れようとする。その腕を掴んで引き止める。抗おうとする力。でも、所詮は女の力だ。
「それで逃げ出してきたんだろ? 本当はわかっているはずだ。……秋良がいつまでもこちら側にいることが、奴にとってどれだけキツイものか」
 抗っていた手から力が抜ける。手を離すと、夏月はぎゅっと拳を作って、崩れそうになる身体を支えた。
「生きている人間は新しい人間関係を築いていく。恋人が行方不明になって、置いていかれた人間がずっと恋人を待ち続けるなんて……そんなことできる人間のほうが少ない。でも、死んだ人間はそれまで築いてきた人間関係を自分の中で繰り返し続けていかなければならない。延々と、終わらせようとしても終われないんだ」
 子供を亡くした母親は、引き裂かれるような心の痛みを感じただろう。子供が戻ってくることを願っただろう。
 だけど、少しずつ、何日も何週間、何ヶ月、何年という月日をかけてその死を納得する。忘れるわけではないが、どこかで区切りをつける。
 でも、死んだ子供は母親を求めて泣いて捜し続ける。ただ、母親だけを。何故なら、誰もその子供のことが見えないから。素通りしていく人間たちに絶望して、子供は唯一の味方であるはずの母親をひたすら呼ぶ。
 生きている人間と死んだ人間はすれ違うしかない。
 俺たちのように死人が見える人間だけが、生者と死者の境界線で関係を結ぶことができた。けど、それは決して救いにはならない。
 あの日、母親を捜す子供の前に立って、俺が声をかけたとして、俺はあの子に何がしてやれた?
 母親を捜して連れてきたとしても、母親には子供の声が聞こえない。自分の声が届かないことで、子供がますます絶望したら? お前は死んだんだ、と納得させるにはあの子供は小さすぎだ。
 生きている人間が死人に関わること自体が間違っているんだ。
 秋良は自分の恋人だった女が教師になって、夏月のクラスを受け持っていることを忘れていたと言った。確かに、瞬間的に忘れていたかもしれない。だけど、それはその瞬間だけだ。
 嫌いになって別れたわけじゃない。まだまだ、これから先、続いていく可能性を死というもので断ち切られただけだ。
 気持ちの整理も付かないままに、終わった関係。
 もしかしたら、と微かな希望を抱いて彼女の前に立ったかもしれない。でも、自分をすり抜ける視線に秋良は何を思った?
 そして、そんな兄貴を見続けていた夏月は?
 このままじゃいけないことを理解しつつ、秋良をなくすことを拒み、せめて秋良が傷つかないように、恋人の前にいることがないように教室を逃げ出してきたんだろう。
 俺は考えたことを口にした。
 俯いた夏月は何も言わない。笑顔を封じてしまったように、言葉も封じてしまったんだろう。
「もう……秋良を解放してやろうぜ」
 コンクリートの床に染みができた。決して泣き顔を見せない夏月の頭を俺は撫でた。
「秋良が言っていた、俺たち笑わないんだって。笑えるわけ、ないよな。人が死んでいるのに……でも、妹の笑顔も見られないなんて、兄貴としては酷だろ? 夏月が秋良のことを思って、秋良も夏月のことを思って、互いに互いを思いやってがんじがらめに縛られていたら、救えないだろ? 救われない……違うか?」
 俺はそっと夏月を抱き寄せた。泣いた女を慰める術なんて、俺は知らない。
「一人が嫌だって言うんなら……これからは俺が秋良の代わりに側についていてやるよ。だから、あいつを解放してやろう。笑ってあいつを見送ってやろうぜ、な?」
 俺の胸にしがみついて、声を殺して泣く夏月の背後に、秋良が現れた。
 呼ぶまで来るなって、言ったのにな。
 秋良は夏月の肩に手を置いた。それは触れられないけれど、気配を感じたのか夏月は肩越しに振り返った。
『あのね、僕、夏月のことが大切だよ。本当はずっと一緒にいたい。でも、それは死んでいる僕じゃなくて生きている僕でいたいんだ。ねぇ、二人は生まれ変わりって信じる?』
 唐突に言い出したそれに、俺はなんと返したらよいのかわからなかった。
 秋良は微かに笑って言った。
『人の魂って死んだら消えるわけじゃないって、幽霊になってわかったよ。だからね、生まれ変わりっていうのもあり得ることじゃないかって、僕は思うの。だとしたら、僕はまた生きて二人に会えるかもしれないよ』
「……そうだな」
 本当に? という疑問が残る。
 死んだ人間の魂がどこに行くかなんて、俺は知らない。誰だって知らない。ただ、幽霊化という現象があるのなら、転生もあっていいんじゃないかと思う。
 きっとそこには記憶なんてなくて、秋良だと確信できるものは何一つないだろう。でも、その存在を秋良の生まれ変わりだと信じたら、そいつは正しく、秋良なんだと思う。
 例え、どんな姿をしていても、全然違う性格でも、俺たちはきっと笑い合える。
 出会う人間がもしかしたら大切だった人の生まれ変わりかもしれない、そう思えたなら、人はもっと他人に優しくなれるんじゃないかって、俺はチラリと思った。
『だからね、誠人君。僕が安心して成仏できるように、僕の死体を見つけて?』
 そっと手を合わせて、おねだりしてくる秋良に俺は笑って応えた。
「任せろ」




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