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 13,暗闇の底


 灯台下暗しというが、普通、自分の家の庭先に死体を埋める馬鹿は、いないと思っていた。それは庭のないマンションに暮らしていた俺の勝手な思い込みだ。
 死臭を完全に閉じ込めて、ましてその庭に誰も入れさせなければこれ以上、見張りやすくて安心できる隠し場所はない。
『誠人君、こっちから庭に出られるよ』
 居間のほうから秋良の声。俺は玄関で靴を拾ってそちらに走った。
 庭に面する側にガラス戸。そして、縁側。戸を開いて、俺は靴を履き、外に出た。
 荒れ果てた庭の雑草を掻き分け、井戸に近づく。腰丈まで伸びた草が手の平に傷を作ったが、構ってられない。何度となく草に足をとられ、転びそうになりながら井戸に辿り着いた。
 コンクリートで覆われた井戸を手探りで探る。庭木の陰になるせいか、表面にコケが付着している。秋良の部屋からでなければ、井戸を見つけることはできなかったかもしれない。偶然とはいえ、運命を感じる。
 井戸は蓋の周りを、ぎっちりとコンクリートで固められていた。しかし、表面は蓋をしていたという板の上を薄くなぞった程度だ。これなら、表面のコンクリートを剥がして、蓋の木材をぶち破れば中を覗けるだろう。
「……何か、道具……」
 何があればいいだろう? スコップは駄目だろう。でかいハンマーないし、ピッケルとか? そんなものどこから調達すりゃいい? 工事現場か登山愛好者?
『倉庫に何かないかな? 古い農具があるよ。鍬とか、鋤とか、鎌とかっ!』
 クワって何だ? スキ? 鎌は駄目だろう。刃が折れて、こっちが危ない。
 普通の家にある物と言えば……金槌は? くぎ抜きがついているような奴。あれだったら、薄いコンクリートを砕くくらいはできるだろう。
「金槌ないか?」
『金槌……ああ、それも倉庫にあると思う。こっち』
 フワフワと飛んでいく秋良を追いかけた。足の痛みなんてもう関係なかった。
 秋良が言っていた通り、一軒丸々、日本家屋というわけではなく、屋根続きではあったが一部は完全な倉庫だった。古い農具はそのまま農家の歴史として、資料にできそうだ。片隅に置かれた棚の手前で秋良が大きく手を振る。
『ここに大工道具が片付けてあるよっ!』
 俺は棚から金槌とノミを見つけた。これなら、穴を開けられる。
 井戸へと踵を返す。早速、中央付近にノミをあてて、その尻を金槌で叩く。コンクリートを打つ音が響いた。
 表層のコンクリートを削ることに夢中になっていた俺と秋良は後ろに近づいてきた人影に気付かなかった。いきなり肩を掴まれてギクリとする。
 引きずり倒される俺の身体。地面に転倒して、俺は自分の失態を思い出した。
 秋良を殺してから、叔父が家から出なくなったのは、井戸の中にあると思われる秋良の死体を見つけ出されるのを何よりも恐れていたからだ。
 それこそが叔父の犯罪の証拠となりえるもの。逆に言えば、それさえ見つからなければ完全犯罪が成立する。
 だから、ずっと家にいて見張っていたんだ。
 馬乗りになってくる男の顔が逆光で見えない。襟元を絞められて息が苦しい。
「誰だ、お前はっ!」
 アルコールとタバコの臭いが鼻先に掛かる。くそ、最低人間の臭気だぞ、それは。
『誠人君っ!』
 秋良の声が聞こえたかと思ったら、首を絞める力が緩んだ。俺から離れた男は井戸に自ら頭を叩きつけ、そして失神した。
『誠人君、大丈夫だった〜?』
 男の身体から抜け出してきた秋良が心配そうにこちらを覗く。
 俺は大丈夫だが……お前、ちょっとやりすぎじゃないか? 立ち上がって、井戸の脇でのびている男を見下ろし、俺は盛大なため息をついた。
「……コイツが、お前らの叔父?」
『うん……そう。ごめんね、誠人君。僕がもっと注意していれば、痛くなかった?』
「平気だ。大したことはない。それより作業を続けよう。今ので、間違いなくここに死体があることが確信できた」
『後は警察に任せたら?』
「それは死体を確認してからだ。井戸に蓋がされている状況で、この中に死体が隠されているなんて言っても信じてはくれないだろ」
『そっか……』
「その前に……この男をどうにかしないとな。また起きだされて、井戸に叩き落されでもしたらシャレになんねぇよ」
『そうだね。夏月に言って、何か縛るものを用意するよ。誠人君はここで、叔父さんを見張っていてくれる?』
 俺は頷いて、家に戻っていく秋良を見送った。そして、井戸の淵に腰を下ろす。
 少しして、殺されていたかもしれない、ということに考えが至ると、身体が震えた。
 もし、男の手に何か凶器があったなら、背中を一突きされて死んでいただろう。
 一人の人間を既に殺している以上、叔父に殺人を躊躇する理性を求めるのは無駄だろう。
 夏月を自らの養子にして、その財産を手に入れようと──秋良がいるので、叔父はまだ夏月に対して養子縁組の話も切り出せないどころか、半径五メートル範囲に近づけないでいるとのこと。恐らく、さっきみたいなことでその場をしのいでいたんだろう──虎視眈々と狙っている男なんだ。
 それよりも問題なのは、そんな環境下で七歳の女の子が十七歳になるまでのあいだ、誰一人として自分の言葉に耳を傾けてくれなかったとしたら……そりゃ、喋ることに対して絶望してしまうのも、しょうがないだろう。もう二度と、誰かに語りかけるようなことはないかもしれない。
 肉体を殺されるのも勿論だが、心を殺されるっていうのもキツイ。
 殺されたものは決して生き返らないんだ。それを人はあまりにたやすく忘れて、己の感情だけで他人を否定し殺す。
 殺された奴は突然の死に、自分の死を理解できずに、この世に残る。または、恨みや憎しみ、未練に縛られる。
 人を殺そうと考えた奴は、人を殺せばそれで全てに片がつくと考えているのだろうか?
 確かに、俺たちみたいな人間にしか死人……幽霊の姿は見えない。けれど、もしかしたら人を殺した瞬間から、殺した相手の幽霊が見えるようになるかもしれないとは恐れないのか?
 いや、きっと誰も想像なんてしないんだろうな。だから、見える奴の気持ちなんてわかってくれない。俺たちの真実の言葉に耳を傾けてくれないんだろう。
 ……殺されていく心の悲鳴も届かない。
『誠人君』
 秋良の声に振り返ると、夏月が白いビニールの紐を手にして近づいてくる。
 夏月は、傍らに倒れた叔父を無感動な瞳で見下ろして、顔を上げると俺に紐を差し出してきた。
「うん」
 受け取るために伸ばした指先が夏月の手に触れた。そのまま細い手首を掴むと、夏月は不思議そうに小首を傾げた。サラリと揺れる漆黒の髪。
 笑顔を見せて、声を聴かせて……そうねだることすら、罪なことのように思えてきた。
「ごめん……」
『誠人君、どうしたの? 大丈夫? 具合悪いの?』
「大丈夫だ。気にするな。作業を続けるから、二人は離れていろよ。自分の死体とご対面なんてしたくねぇだろ?」
 十年の時間が過ぎていれば、死体は白骨化しているだろう。腐乱死体よりはマシだと思うが、見て気持ちがいいものではないことだけは確かだろうな。俺も覚悟を決めておこう。
 叔父の両手を縛り上げて、側にある庭木の幹に紐の先を繋いだ。
 そして、再び井戸に向き合う俺の背に、秋良と夏月はついてきた。
「離れていたほうが良くねぇか?」
『……でも、誠人君に辛い思いさせて自分だけ逃げているなんてできないよ。これは僕の問題でもあるんだ。ちゃんと見守らせて』
「わかったよ。夏月も、いいんだな?」
 問いかけた俺に、夏月は力強く頷いた。
 そして、俺は再び井戸の蓋を取り除く作業を始めた。小一時間して中を覗けるぐらいの穴ができた。俺は懐中電灯を車の中に置きっ放しにしていたことを思い出した。そういや、携帯もバッグの中に入れていた。
 ちょっと、待てて、と言い置いて車に取りに戻る。
 懐中電灯を片手に井戸を覗けば、中には予測していたとはいえ……かなりキツイ光景だった。
 鼻を突いてくる臭気に顔を背け、俺は両膝を地面についた。伸びた雑草を組み敷いて、両手をつく。そうしないと体中から力が抜けていきそうだった。
 悪寒に身体が震える。いや、身体を震わせているのは絶望だろうか。死体を見つけることで、秋良が死んでいることを再確認してしまった。
 わかっていたことだし、揺るぎない事実であったはずなのに、俺はまだどこかで秋良が死んでいることを認めたくなかった……正直に言えば、秋良が身内に殺されたと言う事実を認めたくなかったんだ。
 だって、あんまりだろう? ただ一人の身内が殺人者なんて。
 夏月に向けられるこれからの視線が好奇を孕んでしまう。
 もう止めろと言いたい。これ以上、夏月の心を殺すな、と。
 伏せた俺の背を撫でる手があった。勿論、夏月のものだ。それ以外にないだろう。
 顔を上げると、こちらを心配そうに覗いてくる、漆黒の双眸。
 初めて会ったときは、断然無表情だったのに……今では、心配してくれているとわかった。
「大丈夫……ちょっと、動揺しただけだ。警察に電話するよ」
 俺は携帯を取り出した。思えば、自分のほうから誰かに電話をかけるなんて初めてだな。それが警察への通報だなんて……最悪だ。
「すみません、人の死体を……白骨死体を見つけました。すぐに誰か、来てください。場所は……」




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