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 第三章



  
,痛い出費


「三十万ゴールドです」
 無慈悲な声に、俺は思わず息を呑んだ。
「…………はい?」
 振り仰いだ俺に白衣を着た魔法医師は淡々と告げた。
「三十万ゴールドです」
 明日の生活費にも困っている俺に、そんな金はない。ない。あるわけないっ!
「えっと……」
「あなたも魔法を扱う方であるのならば、ご承知でしょう。生命魔法は決して安値で使用してはならない。簡単に安く治癒できてしまうとなれば、人はその身の脆さを弁えず、無茶してしまう。ですが、生命魔法も人が扱うものならば、万能ではなく、魔法師によって能力値も違ってきます。その辺りを考慮して、私どもを頼って頂きたい」
 ごもっともな高説に俺は俯いた。上級魔法使いの魔法を簡単に買えないように、報酬設定がされていると同様、生命魔法を操る魔法医師による治療費も安くはない。
「今回、あなたの頭蓋骨陥没の治療費は、しめて三十万ゴールド。値引きはできません」
 決定打を告げてきた魔法医師に、俺はこっそりと財布の中を覗く。初めからわかりきっていることだが、中身は空。
 俺は元凶であるアレンを振り返った。
 そう、全てはアレンのせいだった。
 俺の頭にフライパンを叩き落したアレンは家の外に待たせていた馬車に俺を放り込んで、エルマを発った。
 そして、二十四時間、八台の馬車を載り潰しての移動の末、南東区ラディスのラーナという町に入った。
 ようやく、昏倒から目覚めた俺は、止まない頭の傷みに治療を訴えた。これじゃあ、仕事なんてやってられない、と。
 頭が割れるくらいの激痛に――実際、頭蓋骨が陥没骨折していたらしい。よく、生きていたよな……まあ、ヒビが入っている程度との事だが――泣き喚く俺に、アレンはしょうがないなぁ、と近くの魔法医師の診療所に寄り道することにした。
 そして、診療と治療の結果――。
「三十万ゴールドです」
 一向に、支払う気配を見せない俺に、魔法医師は繰り返す。
 俺はアレンを見る。目が合った奴は、逃げるように踵を返す。俺は慌てて、アレンの上着の裾を引っつかんだ。
 普通、この場合、歩いていたアレンのほうがバランスを崩してコケるところだが――仕事を探して全国を歩き回っているアレンは意外とタフで――俺の身体はあっさりと引きずられ、床におでこを打ちつけてしまった。痛いっ!
「ちょっと、止めてよっ! 買ったばっかりのスーツなんだからっ!」
 アレンは悲鳴を上げて、俺の手を振り払った。そうして、上着に出来た皺を必死に延ばす。
 こいつは、怪我の治療を終えたばかりの相棒より、スーツを大事にするのか。いや、そんなことは重々、承知しているが……ここまで来ると、本当にこいつと契約を結んでいていいのかと首を傾げてしまう。
「お支払いを」
 床に寝そべった俺に、魔法医師の無慈悲かつ冷淡な声。言われなくても、わかってるって!
「アレン……金を貸してくれ」
「いいけど、返してよね。わかっていると思うけど、利子は十日で一割だよ?」
 おのれは悪徳金貸しかっ? 相棒のために自分の懐を痛めようなんて気は……アレンに限ってそれを期待するのは無駄か。
 アレンは自分自身には――もしくは他人の金なら――思いっきりよく金を使うが、一度、他人が絡むと守銭奴に徹する。報酬の支払いに際しても、そのケチぶりは徹底していて、無駄な経費を見つけると、くどくどと文句を言っては俺の報酬からその分を差し引く。
 金に対してはとにかく、がめつい。
 大体、ここの治療費はアレンが支払って当然じゃないのか?
 お前が宿泊費をケッチって強引な移動を計画し、フライパンで俺の頭を叩かなければ、この出費は必要なかったんだぞ?
「とりあえず、金」
 慰謝料の交渉は後にして、俺はアレンに金を借りた。小切手で三十万ゴールドを支払った俺に、魔法医師は頷くと、これはサービスです、と薬のビンを差し出してきた。
「酔い止めの薬です。今度からはそれを飲んでください。魔法医師だって、どんな怪我でも治せるわけではないのですから。もう少し、ご自身の身体をご自重ください」
 憤然と言い放つが、その言葉は俺を気遣ってくれているのがわかった。ああ、この人の欠片ほどの優しさがアレンに欲しいよ、全く。
「あ、……どうも。ちなみに、これの値段は?」
「八ゴールドです」
 安っ! たった八ゴールドの薬がなかったために、俺は三十万ゴールドも支払わなければならないような怪我を負ったのか?







  
,残された希望


 アレンに連れられて、俺はクロレンス家に向かった。
 この町ラーナは丘陵にあった。クロレンス家は高台のほうにある。そちらへ向かう坂道を登りながら、下方のほうに目を向けると町が森に侵食されているのがわかった――侵食というのはちょっと、違うか? 森を切り開いて出来たのだろうから――町の境界線というのが見えず――本来は町への侵入経路を限定するために、町境に塀があったりするのだが――森の中に家の屋根が点在して見える。
 地平線までも広がっていそうな、緑の絨毯。
 この森は、ラーナの町の住人の生活にどこまで――猟師やきこりと呼ばれる職業の――関わっているのだろう?
 または町の人間が散策に出掛ける範囲とは――どのくらいなんだろう?
「どうかしたの?」
 先を歩いていたアレンが手にしていた大きなトランクを置いて――着替えなどが入っているらしい。しかしその大きさは何だ? 俺なんて意識不明で運ばれたから、着替えなんて用意してないぞ? ――疑問に立ち止まった俺に気付いて、声を掛けてきた。
「ん……森のどの辺りまで、この町の人間は出入りしているのかと思ってな。なあ、行方不明になったからと言って、何もしなかったわけじゃないよな? 捜索隊も勿論、出たわけだろ?」
「あ、うん。ジーナさんが帰ってこなくなって三日後に、奥様が治安管理官に相談を持ち込んだんだって」
 治安管理官というのは王家、または七家の当主によって任命された者で、町の安全を管理する立場にある者を言う。事件が起これば、最初に捜査して、己の手に余ると判断したとき、各家が所有する騎士団に事件捜査を委託する。治安管理官の特権で町の人間によって自警団を結成することもできる。
「それで自警団の人たちで森を捜したけど、見つからなかったって」
「ライディン家の騎士団へは? 捜査応援は頼んでないのか?」
 フォレスト王国は軍隊を保有していない――たった一人の宮廷魔法師が、数万の人間を瞬殺できる能力を(一応、俺だって何万人もの人間を相手に喧嘩しても勝てる自信はある。だが、俺のようにフリーで仕事をしている魔法使いは、魔法を武器にしてはならないという決まりがあって、魔法師協会への登録の際に誓約書を書かされる。これに違反すると魔力を封印されるので、人間相手には魔法攻撃はできない)持っている故に、軍隊を持たずにも他国と渡り合えるのだ。
 そんな王国においての騎士団は、犯罪抑止と捜査の役割を担っている。
「こういう町だからね。森で行方不明になる人、そんなに少なくないんだって。それで騎士団に応援を頼んで探索してもらっても、実際に見つかることもないんだって。むしろ、二次遭難の危険性があるから……この町で暮らしている人と都会に住んでいる人じゃ、森の歩き方が違ってくるでしょう」
「……そうか」
 俺だって、森での歩き方なんて知らないぞ?
 横目に見た俺の視線に、アレンはニッコリと笑って応えた。
「だから、アールなんだよ。アールだったら、遭難の危険はないでしょう?」
 迷えば移動魔法で、[帰らずの森]から脱出できる。
 そう言葉巧みに、訴えたんだな。今回の依頼人に。
 普通の人間に、この発想はできやしない。何故なら、上級魔法使いは必ず宮廷魔法師になるものだと思っている。わざわざ、輝かしい未来を捨てて、フリーで仕事を探している上級魔法使いがいるなんて、俺を個人的に知っている人間でもなければ考えもしないだろう。
「アールだけが頼りなんだから、しっかりがんばってよね」
 ポンと背中を叩かれて、俺はこの上なく不安になった。







  
,不吉な言霊


 ジーナ・クロレンスが生きているのか、死んでいるのか、その答えが全て俺の明日に繋がっている。
 俺が報酬を手にするとき、一人の人間の生死が決定しているのだと思えば、できればこの話をなかったことにしたい。
「あのさ、ジーナが行方不明になったのって、いつだ?」
 アレンに質問しながら、本当に肝心なことは何一つ、聞いていないことに自分自身で驚く。
 こんなんで、いいのかよ?
「十日前になるよ」
「……生存の確率は低いな」
 微かに呻いた俺に、アレンは静かに頷いた。
「でも、生きているのか、死んでいるのか、わからないまま不安で待ち続けるよりも、答えを出してあげたほうがいいよ。でないと、諦めもつかないでしょう?」
 そうなのか? いや、普通はそうなんだろう。
 でも、俺は諦められずに、微かに残った希望にしがみ付いている身だから、ハッキリと答えが出るということに戸惑いを感じる。
 死体が見つからなければ、まだどこかで生きているのだと……そう夢想することは愚かだろうか?
「それにしても、本当に大きな森だよね。けど、名前は良くないと思うよ。[帰らずの森]なんて、本当に帰れなくなっちゃうみたいじゃない。もっと、違う名前にしたらいいのに……例えば、[お出かけの森]とか」
 根っからのお気楽野郎は、しんみりとした雰囲気を嫌ってか、軽口を叩くように言った。
 あのなー。
「気軽に出掛けられたら困るだろ」
「うーん、じゃあ[人喰いの森]は? 誰も近づかなくなっていいんじゃないかな」
「生々しすぎるし、[帰らずの森]より酷いだろ」
 そう返して、俺は心の中でアレンの言葉を反芻していた。
 ……人喰い?
 一つの可能性を見つけて、まさか、と思う。
 でも、さっき、アレンはこの森で行方不明になる人自体は少なくないと言った。その頻度がどれぐらいのものか、どれだけの人間がこの森で朽ちたのか……ただ、朽ちたのならよいが……。
 人の死はときに、思いがけない波紋を広げる。悲しみ、憤り、後悔などなど。負の激烈な感情は周りを巻き込む吸引力を持つ。
 そして、その思念は、声は……天まで届くほどに。
 星まで届くほどに。
 強く……強く……運命さえも変えてしまう。
 もしも、俺が危惧していることが現実となりえるのなら……ジーナはもう、生きていないかもしれない。
 俺はそっとアレンの横顔を伺った。視線に気付いたアレンが小首を傾げて尋ねてくる。
「どうかした? アール」
「……あ、いや」
 いつもと変わらないアレンに俺は首を振った。アレンに変化の兆しが見えないのなら、俺の思い過ごしか? それとも、まだ認知されていないのか。
 こう見えて、アレンは俺なんかより優れた感受能力を持つ。感受能力っていうのは、そのまま、感じる能力だ。
 俺たち魔法使いは互いの魔力を肌で感じあうことができる。何も能力を持たない普通の人間は何も感じない。
 魔力とは別に霊力という特殊能力があって、この能力を持つ者は退魔師と呼ばれ、悪霊と化した死者を浄化することができる――俺が持っているのは魔力だけなので、霊力に対しては詳しくない――アレンは魔力や霊力を持っているわけではないが、それらの能力を感じるし、また、死者を認識することができた。
 ただ、感受能力が強すぎて死者と生者の区別がつかないし、霊力を持っているわけではないので、退魔師にもなれないが、アレンの感覚能力で今まで何度となく助けられてきた。
 でも、アレン自身は魔法使いにも退魔師にもなれないその能力に執着していなかった。
「あんまり不吉すぎる名前は……言霊といって、現実になりやすいから、口にしないほうがいい」
 俺は話をそらす。
「言霊?」
「強い思いを込め口にした言葉が現実を呼び寄せると言うんだ。魔法呪文なんかも、この辺りを基本にされている」
「ふーん」
 アレンは眼下に森を眺めて、顎に指を置くと考えるような間を置いた。そうして、おもむろに、細い指を組んで祈りの言葉を口にする。
「じゃあ、アールのお仕事が上手くいきますように」
 アレンの真意がどこにあるのか、俺にはわからない。
 純粋にジーナの安否を気遣っているのか、それとも単純に仕事の報酬が欲しいだけか。
 言葉にした願いが全て、叶うというのなら、この世に悲しみや怒りが満ちることはないだろう。でも、願いを叶えようと努力することは、決して間違いではないと……あの日、決めた俺がいるんだから。
「任せとけ。依頼人の家に行こう」
 俺はアレンの肩を叩いて、先を促した。







  
,空虚な家


 そうして、訪ねたクロレンス家は館中が寝静まっているかのような、静けさに満ちていた。
 人が一人消えただけ。ただ、それだけであるはずなのに……。
 応接室へと案内される廊下で、先を歩く召使いもすれ違う他の召使いたちも、沈鬱な表情で息を殺すように、足音さえも消していた。
 物音を立てること、それすら罪だと言わんばかりの静けさが、俺だけではなく、アレンの顔からも表情を消していた。
「奥様、ジーナス様がいらっしゃいました」
 ドアをノックして、召使いは部屋の中に声を掛けた。小声で応答があって、召使いはドアを開けると、俺とアレンを室内へと促した。
 応接セットに座っていたのは四十代を少し過ぎた感じの女性。ジーナの母親なんだろう。
 俺の母親が生きていたら、こういう感じなのだろうか? 俺が十三歳のとき、両親は馬車の横転事故に巻き込まれて死んだ――その辺りのことが、俺が馬車に乗ると直ぐに酔ってしまう事情かもしれない――思い出にあるのは若かった頃の姿だから、今一つこの年代の女性に対して、母親像というのが結びつかない。
「こんにちは、奥様」
 アレンはその美貌でもって、柔らかく微笑む。目の端に止まれば、絶対的な存在感を持つ笑顔に、虚ろな目をしていた婦人に生気のようなものが見え始めた。
 それは多分……希望なのだろう。
 お手上げ状態の現状で、アレンの存在――しいては、俺の存在が状況を打破する鍵になる。
「ああ、ジーナス様。ようこそ、いらっしゃいました」
 よろよろと頼りなげな動きで婦人は立ち上がった。
「はい。前置きは省いて、奥様に紹介しますね。彼が上級魔法使いの称号を持つ、アール・メトールです。アール、こちらがジーナさんのお母様のシルバさんだよ」
「初めまして、アール・メトールです」
 俺は微かに頭を下げた。
「メトール様、どうか、お願いします。あの子を見つけてやってください」
「……出来る限り、期待に添えられるよう努力します」
 こんな約束しか、できない自分が虚しい。だが、生きているジーナを見つけてみせる、と請け負うことはできなかった。
 生存の確率が低いということもある。あの広大な森の中から、一人の人間を捜し出すという難しさもある。
 同時に、慰めになるのだとしても、嘘をつきたくはなかった。
 アレンが嘘を嫌うのは事情がある。それは他でもない、他人を信用していないことにあるのだ。
 そんなアレンの事情を知っている俺が、例え、気休めだとしても、軽々しくジーナは生きているなんて言えない。心の底で、彼の生存を疑っている俺自身が、それを口にすれば、間違いなくアレンは欺瞞だと思うだろう。
 俺はあの子を傷つけてしまったとき、もう二度と、裏切りたくないと思った。
 その思いは今も変わらずにあるから、アレンに対しても、誰に対しても、嘘をつきたくはなかった。裏切りたくなかった。
 このときでさえも……。
 うなだれる婦人に手を貸して、アレンはソファに座らせた。
「アールはがんばってくれますから、それを期待しましょう? 奥様はジーナさんが戻られたときのために、今はゆっくりお休みください」
 アレンもまた、ジーナの生死を明確な言葉にするのを控えて、婦人を慰める。
「後のことは、アールに任せて。ね?」
 穏やかなその微笑は優しく、見る者の心を癒すようだ。婦人はコクコクと何度も頷いて、涙をこぼした。
「ええ、そうですわね。ジーナが戻ってきたとき、私が臥せっていたら、優しいあの子は自分のせいだと責めてしまうでしょう。あの子は、道に迷っただけ……きっと、そうなんです。帰りたくても、帰れない状況にあるのですわ。今の私にできるのはあの子のために、メトール様を雇うこと。この契約がなされた現在、私はあの子が帰ってくることを待つ以外はないのですね」
「ジーナさんが帰ってきたら、そこからは奥様の仕事です。僕らには何もできませんから。奥様は奥様のできることをしましょう? そのためには、お身体を休めてください。先日お会いしたときより、また、お痩せになったのではありませんか? 駄目ですよ、ちゃんと食べなきゃ。ね?」
 婦人の目を覗き込んで、アレンは言った。まるで、誘導尋問のようだ。あの美貌で甘く囁かれたら、否と言える人間は男であってもいないんじゃないか?
「ええ、そうですわね」
 婦人が頷いて、アレンは満面の笑みを浮かべる。まるで後光を背負っているかのような、神々しい微笑み。その笑顔を見ていると、何も心配は要らないんじゃないかと、錯覚してしまう気がする。
「うんうん、その言葉に嘘があったら駄目ですよ? 僕、嘘つきは嫌いなんです。奥様を嫌いになりたくありませんから、ちゃんとお食事を取ってください」
「ええ」
「じゃあ、僕らは失礼します。仕事が完遂したとき、またお邪魔しますね。行こう、アール」
 アレンに促されて、俺は部屋を出た。







  
,家族の絆


「もしかして、奥様にジーナさんの話とか聞きたかった?」
 廊下に出たアレンは肩越しに俺を振り返って、問いかけてきた。
「まあ、行方不明になった当日に着ていた服装の情報は欲しいところだが」
 俺は頭を掻いて、どうしたものかと考える。
 アレンの婦人に対する対応を責める気はない。憔悴しきった彼女に、色々と問い質すのは気が引けた。
 服装の問題も、結局はジーナの顔の判別がつかなかった場合を想定してのことだ。写真を見て、顔の造作、目の色、髪の色はわかっていても、ジーナだと判定できない場合もある。それは他でもなく、ジーナが死んでいる場合……。
 狩場でもある森には様々な獣が住んでいるだろう。魔物もいるかもしれない。そんな場に十日間もいて、生存している可能性は極めて低く、また、死んでいた場合は獣に死体を荒らされている可能性もある。
 その際、顔が無事だとは限らないわけで、装飾品が身元を確認する鍵になる。
 こんな、死んでいることを前提にした質問なんて、できない。
 沈黙で俺の意図することを察したのだろうか、アレンが言ってきた。
「それだったら、治安管理官事務所に行って、管理官に話を聞いたらどう? 奥様から、相談された折に、その辺りのこと聞いているんじゃないかな? 森へ降りるにしても、その前を通るわけだし。ご飯も食べよう。移動で昨日一日食べてないよ、僕」
 それは俺も同じだろ? 自分だけみたいな顔をするなよ。もっとも、昏倒させられていたので、俺の意識はあの世近くまで彷徨っていたから……空腹なんぞ、感じる余裕もなかったわけだが。
「そうだな」
 俺たちはクロレンス家を出て、ここまで来た道を引き返し、町の中央広場へと向かう。各町の治安管理官事務所は町の中央広場付近にある。
 途中に出ていた露店で、俺たちはパンを買ってそれを食事とした。時間節約のために歩きながら、食べる。俺が一つ食う間にアレンは三つも平らげて、お腹一杯、と大して膨れていない腹部を満足そうに撫でた。ちなみに、この食事代はアレンのおごりだが、後に請求されるんだろうな。
「家族が消えちゃったから、激ヤセしちゃうくらいに心配したんだろうねぇ」
 食事を終えてから、アレンは思い出したように呟いて、小首を傾げる。
「それ以外に何があるんだよ?」
 家族が消えたら心配する、何を当たり前なことを、と言いかけて、俺は唇を結んだ。
 アレンは家族を知らない。赤ん坊のときに、孤児院の前に置かれていた捨て子だった。そして、十四歳で孤児院を出るまで、似たような環境の奴らと育ってきた。
 だから、アレンは他人を信用しない。血の絆ですら、簡単に捨てられてしまうことを、その身の生い立ちでもって証明してしまっていた。
「うーん、そういう風に思えるなんて凄いよねぇ」
 純粋に感心した風なアレンの口ぶりが、俺にはかえって痛かった。
 それが普通なんだ。家族を心配できない家庭が異常なんだ。
 そんな常識さえ、アレンは知らない。信じられない。
「凄いことじゃないんだ……家族を思うということは」
 苦さを噛み締め、俺は吐き捨てた。アレンの顔を見る勇気がなく、視線をそらす。
「そう? 僕には凄いことに思えるよ。アールに対してもね。一人の人間のために五百万ゴールドのお金を差し出せるなんてね。貴族と言っても、その家計が苦しい場合も多いんだよ。クロレンス家は比較的裕福な貴族みたいだけどね」
「金の問題じゃないさ」
 そう金の問題じゃない。俺が妹を貴族専用病棟に入院させたのは、金の問題じゃない。高い入院費用を支払うことで、贖罪になればと考えたこともあったけれど……一番は、高い入院費を要求するだけあって、介護は二十四時間体制で行われていた。
 あの子に何かあったとき、直ぐに対応してくれる体制に俺は金を払った。
 俺にはあの子の側についていてやる資格がなかったから。
 だけど、あの子が目覚めるとき、決して一人であっては欲しくなかったから。
 孤独に悩まされたあの子が、目覚めて、また一人であることを思い知らされたら……。例え、見知らぬ人間でもいいから側にいてあげて欲しい、と俺は願った。
 それで貴族専用病棟に入院させた。
 アレンには治療なんて何もできない妹に、大金を払っている俺の行動はクロレンス家の人間と同じに映っているかもしれない。







  
,誤解の少年時代


「ふーん、僕は家族なんてものを知らないから、やっぱりよくわからないよ」
 頬を傾けるアレンを横目に眺めて、俺はそっと問いかけた。
「……孤児院の奴らは、お前にとって家族じゃないのか?」
 似たような環境に育ったのなら、仲間意識、同族意識が生まれるんじゃないだろうか?
 それがアレンにとって家族に近い存在なら、誰かのために心を痛めるという感覚も、理解できないわけじゃないだろ?
 俺のために、とは言わない。……まあ、本当は言いたいが。
 せめて、相棒の体調を思いやるぐらいの優しさがアレンにあればと思う。でも、俺じゃなくてもいい。たった一人でも、思いやれる相手がいたのなら。
「えっ? 孤児院?」
 少しビックリしたように、アレンは空色の瞳を見開いた。
「冗談でしょう。家族なんて、感じじゃないよ。だって、皆ったら、僕をイジメていたような子らだよ? 院長や他の先生たちも、それを見て見ぬ振りをしてさ。あんまり好きじゃなかったな。だから、成人する十八歳まで一応、保護を受けられることになっていたけれど、さっさと院を出たの」
 ピンクの唇を尖らせて、アレンは顔を顰めた。
「イジメ……?」
「そう、酷いんだよ。僕に女の子用のドレスなんて着せてさ」
「……ああ、そりゃ、ドレスを着せられるのは嫌だな」
 アレンの美貌は幼少の頃から、人目についただろう。それは予測がつく。同年代の中で目立つ存在というのは、嫉妬の対象になりやすいのもわかる。
 そうか、イジメ。イジメを受けていたのか。アレンも結構、苦労していたんだな……。もしかして、性格がひねくれているのはそのせいか?
 密かに同情しかけた俺だったが……。
「別に女の子の服を着せられるのはいいの。だって、僕は可愛かったからね」
 断言してきたアレンの声が、耳に突き刺さる。今、なんて言った?
「でも、僕が着たドレスを他の女の子に着せて、こう言うんだ。アレンのほうが可愛いって! 僕が可愛いのは絶対的な事実だったから、いいんだけど」
 ……いいのか? 男が可愛いって言われても嬉しくないだろ?
 ナルシストなアレンは違うらしいが。
「何で女の子と比べるのかな? 僕は男の子なんだから、女の子と比べるのっておかしいじゃない。おかしいでしょう? おかげで、女の子たちからは目の敵にされて、男の子たちは僕に食事のときにデザートを押し付けてきてさ。あれって、僕を子豚のように太らせようって、魂胆だったに違いないよ。それを先生たちは笑って見ているんだよ? 助けてくれたらいいのにさ。もう、何か、すっごく嫌な思い出だよ」
 アレンは細い肩を竦めて、首を振った。
 嫌な思い出……なのか? 
 男であるアレンに惚れた哀れな少年たちのささやかな貢物――男であっても、幼年期の子供にすればデザートは最高の一品だろ? ――自ら食するのを断って、アレンに喜んで貰おうと差し出された品。
 それは微笑ましいエピソードになるはず。孤児院で子供の面倒を見ていた者たちも、俺と同じ気持ちだったのだろう。
 なのに、嫌がらせ?
 っていうか……、それもイジメになるのか?
 アレン……お前って、昔から人の気持ちを理解しない――誤解しまくっている――奴だったのか……。
 何をどうしたら、そんなひねくれた人間になれるんだ?
 悶々と悩んでいると、いつの間にか俺たちは中央広場に出ていた。治安管理官事務所が目の前にあるのを見て、俺はアレンを振り返った。
「お前はどうする?」
 アレンの仕事は俺と依頼人を仲介すること。クロレンス家での面会で、一応、アレンの仕事はこの段階で終わっている。後は俺がジーナを見つけた折に、報酬を貰いに出向く。
「そうだね、アールのお仕事が終わるまで、ここ辺りで次の仕事になるような情報を集めてみようかな。そのためには、治安管理官に顔を覚えてもらうのもいいね」
「ふと、思ったんだが……あの森から人を捜すのって、一日で終わる仕事なのか?」
「アール、夜になったら探索を打ち切って、引き上げようとか考えたりしてないよね?」
 アレンが見上げてきた視線が心なしか、冷たい。
「心細く、助けを待っている人を置いて帰ってくるの? アールってそんな、冷たい人だったのっ?」
 通りを歩く町人たちが何事か? と、俺たちを通り過ぎざま振り返る。そして、アレンの美貌に足は止まり、その憂いの表情に、非難の目は俺へと突き刺さってくる。
 何か? 俺が悪いのか?
「休む暇なんてないよっ! 夜だろうが、昼だろうが、アールはジーナさんを捜すんだよっ!」
 キッパリと言い切ってくるアレンに、俺は白旗を揚げることにした。どうせ、勝てやしないんだろ。



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