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 第四章



  
,見えない裏側


「何で? ねぇ、何で? これって、どういうこと? どうして、こうなるわけ?」
 背後から問いかけてくるその声に、俺は聞こえない振りをした。
 ただ、黙々と足を動かし、声から逃れるように先を行く。
 下草を踏み潰してできた獣道を辿り、森の奥へ。かろうじて道だとわかる道なりを歩く。もう、本当に獣道だ。人が歩いてできたものとは言いがたい、細い道筋。それでも、道であることには変わりない……と思う。
 迷った人間の心理で言えば、こんなとき、闇雲に歩き回るより何かしらの指針を持って歩くのが妥当だろう。
 それが獣の作った道であろうと。何もないところを歩くよりは、ずっと安心できる気がする。
 森が深くなるに連れて、差し込む陽光は少なくなり、下草は枯れていき、木々の落ち葉がそこらじゅうに敷き詰められていた。やがて、獣道は途絶えた。
 自然と、俺の足も止まり、背中に投げかけられていた声がもう無視なんてできないところにまで迫る。
「何で、こんなことになったわけっ?」
「俺が知るかっ」
 振り返って、一喝。これで黙ってくれたら、苦労はない。
 しかし、それを期待するのは無理だろう。相手がアレンなら、なおさらだ。一に対する返しが十になる。案の定、アレンの舌鋒は止まることを知らずに、静寂を切り裂いて、森の中に響き渡る。
「何、その冷たい言い方っ! それが仕事のパートナーに対する仕打ち? 不安になっている相棒に言う言葉? アール、君ってそんなに思いやりのない人間だったの?」
「お前が思いやりを口にするなよっ!」
 相棒の脳天に、躊躇なくフライパンを叩き下ろすような奴が、思いやりなんていう言葉を口にすること自体、間違っているだろ?
 と、俺も誰に問いかけているんだか。アレンと付き合いだすようになってから、自問自答がやたらと癖になってしまった。
「大体、アレンが管理官の誤解を解かなかったのが、問題だろ?」
「あの人が勝手に誤解したんだよ」
「だから、その誤解を解けば良かったんだ。どうせ、相手に与える心象とか、考えたんだろ」
 

 話は、治安管理官事務所を訪ねたところに舞い戻る。
 俺とアレンはラーナの治安管理官と対面した。管理官は四十ちょっと、という感じの男性だった。
 突然、飛び込んできた男二人に驚いたというより、アレンの類稀なる美貌に呆気にとられたという感じで、ポカンと口を開けた。
 アレンは自らの名を名乗り、俺を紹介し、自分たちがクロレンス家に雇われた者であるのだと説明し、これから[帰らずの森]でジーナを捜すのだと、一気にまくし立てた。
 迷って心細い思いをしているだろう、ジーナを見つけたいとか。婦人の心労を軽減したいとか……色々。
 可憐な美貌に宿る、憂いや真摯な眼差しが、まさに迫真で同情心を誘うのか、管理官や事務所にいた自警団の青年たちは、身を乗り出してアレンの話に聞き入っていた。
「そこで、行方不明時のジーナさんの情報が欲しいんですけど、良いですか?」
 アレンの問いかけに、ようやく、我に返った管理官は声を出した。
「……ああ、ああっ! もちろんだともっ!」
 夢から覚めた――というより、完全にアレンを信じ込んでいる風である。
 危険を顧みず、探索へと向かうという俺たちに――俺が上級魔法使いだということで、その辺りの問題はすんなりと――いたく感心している様子。
 情報が欲しいのは山々なんだが……いいんだろうか? ハッキリ言って、アレンはそんなにジーナや婦人のことを心配してはいないと思う。
 いや、全く心配していないというわけじゃない。何しろ、アレンは嘘をつかないのだから。
 ただ、普通の人間が考えるような心配の形ではないことだけは確かだろう。
 ジーナを気遣うのは、彼が見つからないことには、この仕事が成立しないから。
 婦人の体調を思いやるのは、婦人が依頼主だからだ。
 ……アレンの真意なんて、きっとそんなところだろ?






 
  
,探索開始


 俺は管理官から行方不明者の情報を聞き出した。
 [帰らずの森]では、年に二十名以上の人間が消えているという。
 森に迷い込んだ猟師やきこりがいれば、この森を最後の場と選んで自ら入った者。軽い気持ちで散策に出掛けて、そのままという者。
 また、犯罪者が追跡を逃れて森へと消える場合もあるとか。
 年に数回、大々的に捜索をし、実際に死体となって見つかるのはその半分にも満たない。
 捜索範囲で見つかるのなら、それは迷っているうちには入らないらしい。それほどに、森は広大だった。
「森を抜けることなんて不可能か?」
 尋ねた俺に、管理官は言った。
「ラディスからクレスへ向かうとなれば可能だろう。しかし、わざわざ、森を抜けてクレスに向かう意図がわからん。国境越えに関しては、まず、不可能だろうな。万が一、超えられたとして森を抜けても……あの国は」
 渋面を作って、管理官は押し黙った。
 隣の国は、戦争で滅んだ後いまや砂漠と化している。荒廃の度合いは酷く、そこで生まれた者たちも長く生きられずに死んでいるという。
 完全なる死者の国。森を越えてまで目指す国か?
 管理官の言いたいことはそういうことだろう。俺は頷いて、別の質問を口にする。
「ジーナ・クロレンスの失踪に事件性は?」
「そちらの方面も調べてみたが、かの御仁は実に品行方正な青年だ。貴族ということで奢ることなく、町人にも慕われていた。誰かに恨みを買うなど、考えられない。勿論、今回のライディン家の採用に関しては……」
「妬む者はいるだろうな。だが、具体的に誰がという者は上がらないということか?」
 管理官は俺の言葉に頷いた。
「迷って……出て来られない」
「頭の良い御仁だったから、意図的に森の奥に入ったとは考えられない。しかし、だからとわざわざ森に入った目的も見つけられない現状だ」
「何にしても、森に入ったことは間違いないんだな?」
「猟師の目撃談は疑う余地はない」
「人知れず、森から出てどこかへ行方をくらませたというのは?」
「そんなことをなされる御仁ではない」
 キッパリと言い切ってくる管理官に、俺は首肯した。
 母親やクロレンス家の人間たちの心痛の度合いを見れば、ジーナがどれだけ慕われていたかわかる。その信頼は、ジーナが無用に彼らを心配させるようなことはしないと、確信できるものだ。
「……森にいるとみていいんだな」
 俺は一人呟いた。今も生きているかどうか、怪しいけど。ジーナは森にいるんだろう。
「わかった。……とりあえず、森へ行ってみる」
 俺が管理官事務所を出て行こうとすると、管理官の声が背中を追ってきた。
「森まで、君たちを送ろう」
 俺はその言葉に甘えることにした。最終的に、森からの脱出は移動魔法を使うのだが、探索自体は俺の足で歩き回ることになる。余計な体力の消費は避けたい。
 そして、俺とアレンは管理官と自警団の青年の馬にそれぞれ乗せられ、丘陵を下り森へと入った。
 森の中、人の手により造られた道ではないところまで来て、俺たちは管理官が、俺のジーナ探索にアレンも同行するのだと思い込んでいることに気付いた。
「くれぐれも気をつけたまえ」
 熱心に訴えられたアレンは、微かに頬を引きつらせた。
 やがて、管理官たちに見送られる形で、俺とアレンは[帰らずの森]へと踏み込んだ。
 アレンとしては管理官に好い印象を植え付けておきたいという、下心があったのだ。
 町のトラブルを一手に引き受ける治安管理官の元には、俺の仕事になりそうな話も入ってくる。
 そんなとき、俺たちのことを思い出して貰えたら……それがアレンの計画だ。わざわざ、仕事を探して回るより、仕事を持ち込んで貰えるほうが遥かに楽だ。
 というわけで、管理官の目が届く範囲では、アレンは引き返すこともできずに、俺の後をついてきた。
 …………そうして、約三十分後、もう管理官たちも現場を去っただろうという頃になって、アレンは俺に問う。
「ねぇ、帰り道ってどっちだったっけ?」
 俺の答えは簡潔だった。
「覚えてねぇ」







  
,迷子の二人


 迷い人捜しで、森に入った俺たちが迷子になってしまった。
 笑い話にもならない、状況である。
「嘘でしょうっ!」
 目を見開き、絶叫するアレンから俺は視線をそらし、歩き始める。逃げるように、目に付いた獣道を歩き始めた。
 そして、今に至る。
「もう信じらんないっ! これってどういうこと? 僕たち、迷子っ?」
 信じられなくても、これが現実だ。
 大体、森に入った時点で既に道なき道を歩いていたわけだ。迷うのは必然さ。
 根本的に、迷っても困らないはずだった。
 だって、俺が森を出るのはジーナを見つけてからだ。そのために、森にやって来る途中で食料と水も買い込んだ次第だ。俺としては帰り道を覚えておく必要なんて、なかった。
「信じられないっ! どうしてくれるのっ?」
「ちょっと待て、俺の責任みたいな言い方は止めろっ! 俺は関係ないだろ?」
「関係ないっ? アールが歩いていた道を僕は付いてきたんだよ。だったら、アールが道を覚えているのが当然じゃないっ!」
「覚える必要なんて、ないだろうが。俺には」
「何、それ。僕が帰るのがわかっていて、僕を一人で帰すつもりだったの? この森を僕一人で、出て行けって?」
「俺には仕事があるんだよ」
 何で、探索を中止して、アレンを森の外まで送っていかなきゃならんのだ。大体、休む間もなくジーナを捜せ、と言ったのは他ならぬ、アレンだろうが。
「仕事と僕の安全、どっちが大事だっていうの」
 ……び、微妙な質問だな、それは。
 アレンほど優秀な紹介屋はいないからな……。アレンがいれば、定期的に仕事を入れてもらえる。貧困にあえぎながら、それでも妹を王立医院の貴族専用病棟に入院させることができているのは、アレンのおかげと言っても過言ではないかもしれない。
 答えに詰まった俺は、アレンに質問で返した。
「じゃあ、俺と仕事の報酬、どっちが大事だ?」
「当然、報酬に決まっているじゃない。アールの代わりなんて、幾らでもいるもの」
「…………」
 ――ああ、ああ、そうだろうさ。ここまでズケズケと言われても、俺はアレンを切り捨てられないんだよな。
「お前さ、その一言で俺の機嫌を損ねて、ここに置き去りされるとか考えないわけ?」
 俺は嘆息を吐いて、言った。
 多分、俺がアレンを切り捨てられないとわかっててのことだろう。
「何っ? アールって、そんなこと、する人なのっ! 信じられないっ!」
 上体を仰け反らせて、アレンは叫んだ。金切り声が耳をつんざく。
「例え話だろうがっ!」
 全く、そんなことできないのはアレンが一番知っているだろ?
 ……あの子を切り捨てることを拒む俺を、アレンはいつだって馬鹿だってけなしてくれるじゃないか。
 本当はわかっているんだろ?
「……とりあえず、報酬が欲しければもう、俺に付き合えよ。ここで移動魔法を使ったらろくに魔法が使えなくなるんだよ。ジーナを捜すのに時間を無駄にすることになる」
 一日に使用できる移動魔法は一往復。ここから、町へ帰るのはたやすいが、また森へ再び戻ってくる際は歩かなければならない。それは時間の無駄だし、魔法の無駄だ。
 森には魔物や獣がいる。それらと相対したとき、俺には魔法しか武器がないのだから、魔法はなるだけ温存したいんだ。
「……生存の可能性は低くても、時間は無駄にはできないだろ?」
「しょうがないね。これも報酬のためかぁ」
 アレンはやれやれ、と首を振った。
 ……どこまで、本気なんだ?
「どうでもいいけど、ちゃんと、僕のことを守ってよね? 僕、こんなところで朽ち果てる気は全然ないから」
「俺だってねぇよ。俺が死ねないこと、知ってるだろ? お前に怪我なんてさせない。絶対に守るから」
 振り返った俺にアレンは笑顔を見せた。
「その言葉が嘘だったら、慰謝料請求するからね」
「……本当に、信用しないのな」
 アレンの人間不信が根深いのは知ってるけど、相棒ぐらい信用しろと言いたいが……俺にそう言える資格はあるんだろうか?







  
,接近遭遇


「ホントのところ、どうして、ジーナさんってば森に入ったんだろうね?」
 適当に森の奥へと歩き出す俺の後に続きながら、アレンは口を開く。
「そうだな……散歩で森に入るのはよくあったって話だが、奥にまで入った理由がわからんな。意図的に入ったのが間違いなくて、でも、本人としては森の奥へ入る危険性を熟知していたとしたら……考えられる理由は」
「誰かに呼び出されたとか?」
 アレンのそれに俺は可能性を考えた。
「有り得ないことじゃないな。恨みを買うような奴ではなかったと言うが、ライディン家子息の家庭教師に採用されて、それを妬んだ奴が、ジーナを困らせようとした」
「ここまで大事になったら、犯罪だよね」
「問題はそれが立証できるか、どうか。本人を見つけないことにはな」
 俺は辺りに目を光らせて、柔らかくなった腐葉土の上を一歩一歩、歩いていく。
 森が深くなるにつれて視界が暗くなっていく。何度となく木の根に足をとられそうになる。アレンも同様らしく、バランスを崩しては俺のシャツを掴んで、体制を整える。
 俺は立ち止まって、アレンを振り返った。
「アレン、お前、手帳を持っていたよな? 貸せよ」
「どうするの?」
 受け取った手帳から紙を一枚切り離し、借りたペンで魔法陣を描くと同時に呪文を唱える。
「<光灯>」
 紙切れが光りだし、それは暗い森を明るく照らす。
「これを持っていろよ。ただし、グシャグシャにするなよ? 魔法陣が変形したら、効果がなくなるんだから」
 アレンは紙を二本の指の間に挟んで、それを透かすように掲げた。
「紙でも、魔法照明になるんだ?」
「魔法陣が魔力を固定している間はな」
「アールって魔法陣を描くし、呪文もきっちりと唱えるよね? やっぱり、魔法ってそうしたほうがいいの?」
 頬を傾けて、アレンは聞いてきた。俺は質問の趣旨をはかりかねて、眉根に皺を寄せた。
「アールと契約する前に、一緒に仕事をしていた魔法使いは呪文とか唱えなかったよ」
「あー、本当は唱えなくてもいいんだけどな。俺のは習慣になっているから」
「習慣?」
「魔法学校では基礎授業で、呪文と魔法陣について徹底的に教えられるんだよ。中級レベル以上になれば、呪文なんかなくても魔法を構成、発動することは難しくないんだ。けど、俺はもう、反射的にやってしまう。魔法学校出身者は大半がそうだと思うぜ?」
「じゃあ、あの魔法使いは?」
「魔法学校以外で、魔法使いに直接師事を受けた奴なんじゃねぇの? そういうの、珍しくないし。ただ、最終的には魔法師協会で認定書を貰わなければ、魔法使いを名乗れないけどな」
「ふーん」
 俺もまた、紙に光を宿して、それをたいまつのように掲げた。
「ハッキリ言って、無駄って言えば無駄なんだよな。でも、陣を描くときに、こう腕を動かすだろう」
 俺は胸の前で腕を横や縦にスライドさせた。
「うん」
「陣を描くっていうことは、そこに意識が集中されるわけだ。集中すると、魔法を構成するスピードが上がる。呪文は言葉を口にすることで、イメージをより具体化できる。メリットはあるんだよ……大きな魔法を使うときは」
 そんなことを話しながら、俺は歩くことを再開した。
「大きな魔法って、どの程度を言うの?」
 アレンがまだ会話を続ける。
 何だよ? やけに聞きたがるな。魔法について説明しようとすると、僕には関係ないからいいや、とか言って聞かないことのほうが多いってのに。
 怖いのだろうか? そう思って、違和感を覚えた。アレンって、好奇心が旺盛で心霊スポットと呼ばれるような場所に好んで出掛けるのだ。そんなアレンが森の暗がりを恐れるなんてことはないだろう。
「…………」
 黙った俺に、アレンの声が飛ぶ。
「アールってばっ!」
「何だよ、うるさいな」
 苛立たしげに吐き出した声に、アレンはムッと目に見えて不機嫌な顔を見せた。
「うるさいって言い草はないでしょう? うるさくしたほうが、ジーナさんにも僕たちの声が聞こえるかもしれないじゃない」
「…………」
 俺はキョトンと目を丸くする。何だ、それ?
「あ、アールってば、僕のことを無駄におしゃべりな奴だとか、思っていたんだ?」
「い、いや、そんなことは……」
「僕らの声を聞いて、向こうから反応してくれたら探す手間が省けるじゃない。それに、動物とかって騒音を嫌うんじゃなかった? 僕だって、色々考えてるんだよ?」
 眉を逆立てて、烈火の如く怒る。魔法の明かりを受けて、白く光る美貌の迫力は並みじゃない。
「な、なるほど……」
 俺は顔を引きつらせて、アレンの意図に感心してみせた。アレンはまだ不満そうな顔を見せたけれど、いきなり背後でざわめきがおきた。
 グイッと、アレンに腕をつかまれた。
「何だっ!」
「人食い熊かもっ! 僕を食べたって美味しくないよっ! 食べるなら、アールを食べてっ!」
 そう叫んだアレンは、音がした方に俺を突き出しやがった。
 何してくれるんだ、おのれはっ!
 突き出された俺の身体はバランスを崩して、腐葉土へと頭から突っ込む。泥まみれになりながらも、顔を上げた俺の視界を横切ったのは野ウサギだった。一瞬、目が合うと、ウサギは踵を返して去っていった。
 何が、人食い熊だっ?
「……アレン、お前は。俺を餌にするんじゃねぇっ! 守れるものも守れんだろうが」
 魔法で対処しようにも、こんな扱いを受けてたら集中できないだろうがっ!
 立ち上がった俺にアレンは「ごめん、ごめん」と軽い調子で謝ってきた。少しは悪いと思っているようだが、軽すぎる。もう少し、緊迫感を持てよな。
 そうしたところへ、また反対側からざわめきが起る。再び、アレンに腕を掴まれた俺は強引に引き立たされる。
「人食いワニだっ!」
 水辺もない森の中で、ワニなんかいるわけねぇだろっ?
 反論する間もなく、俺の身体は飛ばされる。どうでもいいけど、アレンの華奢な腕に飛ばされる俺ってのも、どーよ?







  
,突然の襲撃


 転ぶ寸前で、何とか体制を整えて、俺はいつでも魔法を発動できるようにした。顔を上げて、音がした場所を振り返り、息を呑んだ。
 そこにあったのは、人食い熊でもワニでもない、白い人影。
 暗がりの中に白く浮かび上がった人の形。
 その人影自体が発光しているかのような、錯覚。目を凝らすと、人物の姿が全体的に白いことがわかる。白銀の長い髪、白蝋の肌。白い衣装。
「……誰だ?」
 人なんだろう。でも、何でこんなところに人がいる? ここは猟師ですら足を踏み入れることのない森の奥。
 まさか、これが幽霊って奴か? 本来なら、霊力のない俺には見えるはずはないのだが、稀に悪霊と化した幽霊の力が強い場合は、霊力を持たない人間の目にも映ることはあるらしい。
 ……でも、冗談だろ? 幽霊なんて……悪霊なんて、そんなの相手にできる力は俺にはないぞ? だって魔力は霊力とは違うんだから、対象に作用する効果も違ってくる。
 俺は白い人影を見上げながら、ジリジリと後退した。
 とりあえず、アレンの安全を――しいては俺自身の安全確保のため、逃げる準備をする。
 そんな俺を白い影はじっと見つめ返して、静かに告げた。
「わが身が惜しくば、この場から去れ」
「……何?」
「命惜しくば、これ以上、森の奥には入ってくるな」
 命令するように言って、白い影は身を翻す。木陰に消えるその背中を見送りかけて、我に返る。
「ちょっと、待てっ!」
 だから、何でこんなところに人がいるんだっ?
 何にしても、奴ならジーナのことを知っているかもしれない。
「アレン、あの野郎を追うぞ」
 肩越しに告げると、俺は白い影を追いかけた。
「えっ? ま、待ってよ」
 慌てて、アレンが追いかけてくる音を背中に聞いて、木立の間に目を凝らす。少し向こうに、見える白い影に俺は声を張り上げる。
「ちょっと待てっ! お前っ」
 何なんだ、あいつは。こんな森の中で、何をしているんだ?
 幽霊じゃないことだけは確かだろう。幽霊なら肉体を持たないから、走って逃げるなんてマヌケすぎる。足元を見れば奴が踏み乱した腐葉土が暗がりにもわかる。
 一体……何者だ?
 どれだけの距離を追いかけたのか、わからないが、かなり走っただろう。息が切れそうになる。
 それでも白い影は速度を落とすことなく、俺たちの少し先を走って逃げる。
 俺は唇を噛んで、走る速度を上げた。そうして、森が一部途切れるところで、白い背中をハッキリと目視したとき、背後からアレンの声が飛んできた。
「下がるんだっ! それ以上、踏み込んではならないっ!」
 透明な声はいつも通りでありながら、声を涼やかに明瞭に、それでいて威厳をもって響かせるその発音は、いつものアレンとは違っていた。
 耳に届くアレンの声に、俺が足を止めたところで、切り開かれた森の中で風が吹き抜けた。
 ザワリと木の葉を散らして、吹き荒れる風が肌を打った瞬間、俺の前に迫ってきたのは――。
「――なっ?」
 現実を認識するより先に、アレンの声が俺を動かす。
「アール、守りの魔法を」
 頭で考えるより先に、腕が動く。魔法陣を描くその腕の動きに、俺の意識が何をしなければならないと理解するまでもなく、本能が冷静に魔法を構成する。
「<絶対防壁>」
 何であれ、この壁を破れるものはない、そういうイメージを魔法呪文に置き換えて、俺は声を張り上げる。
 声を合図に魔法が発動され、突き出した手のひらから、立ち上がるのは見えない壁。それが受け止めたのは生き物のようにうねり、暴れ狂う木の根だった。



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