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 第五章



  
,蘇った死人


 鞭のようにしなり、襲い掛かってくる木の根が、壁にぶち当たる。手のひらに押してくる力は、ビシビシと音を立てて激しく攻めてくる。攻防は俺の指先を痺れさせた。気を抜けば、壁を突き破って根は俺を絡めとるだろう。
 それとも俺の身体を串刺すのか? 奥歯を噛んで、壁に魔力を注ぎ込む。
 何だよ、これ。何だよ、この森は。
 これが[帰らずの森]の本当の正体? 森が人を襲う?
 んな、馬鹿な話はない。植物が人を襲うなんて、そんなことはありえない。
 これは別の力が働いての現象だ。アレンの変化を見れば、答えは一つ。
「失せろっ!」
 俺は叫んで、魔法呪文を唱えた。
「<火炎放射>」
 防壁の内側から飛び出した炎が木の根を焼く。森の中で火を使うなんて、言語道断の所業だが、魔法の炎は手綱を握られた馬のように、俺の意に添って動く。
 燃え尽き炭化した根が地面に落ち、焦げた匂いが辺りに充満した。煙る視界に目を凝らして、俺は切り開かれた森に立つ白い影を見つけた。
 奴は目を見開き、驚いていた。俺が魔法使いだとは思わなかったのか、それとも、あの木の根を打ち負かすことなんてできないと確信していたのか。
「お前かっ?」
 俺は大声で問いかけた。奴とは少し距離がある。だが、今は先に踏み込むのは危険すぎた。
「今のは、お前の仕業かっ! てめぇがジーナを攫ったのか?」
 俺の怒声に驚いたわけでもあるまいに、奴は再び、背中を向けて逃げ出した。
「待てっ!」
 飛び出して、追いかけそうになる自分の身体を、俺はギリギリで引きとめた。そして、アレンを振り返り問い質す。
「あいつが……邪神か?」
 ゆっくりと首を横に振って、空色の瞳は俺を見据えた。
「彼は違う」
 声を冷ややかに響かせて、キッパリと言い切る。アレンの姿をしていながら、アレンとは全く違う雰囲気を――こちらを圧迫してくる存在感――漂わせ…………俺のもう一人の契約主は白い影が消えた辺りに視線を流す。
「彼は死人だ」
「しびと……死人?」
 声が告げた単語を繰り返して、俺はギョッと目を剥く。
「じゃあ、やっぱり、幽霊っ?」
「幽霊とは違う。幽霊とは肉体を失って、魂のままこの世を彷徨う者のこと。死人とは、一度、死を迎えながら、蘇った死体。生きる屍」
「死んだ奴が蘇るなんて、あるのか?」
 呻きながら問いかけた俺に、ゆるゆると首を振って、白皙の美貌は悲しげに息を吐いた。
「そんなことは〔死の神〕の管轄化において、絶対にあってはならない。息を吹き返すというのは、厳密に言えば死んではいない。死とはね、肉体の死を〔死の神〕が認知して初めて死亡とされる。そして、一度、死を認知された死体に蘇生の術を行うことは神々の誰であれ、行うことはできない」
「でも、奴は……」
 矛盾に反論しかけて、俺はハタリと気付く。
「邪神が奴を蘇らせたんだな」
 疑いようのない事実を俺は口にした。それこそが、今、アレンの身の内に宿ったもう一人の契約主が俺の前に現れた意味。
「アール、邪神を狩って欲しい」
 整った唇から吐き出された願いに、俺は頷く。
「ああ、わかっているよ、神様」







  
,人と神の間


 フォレスト王国では信仰の対象となる神は女神メレーラ。その実体は、七百年と少し前、この大陸全土を巻き込んだ悲劇から、人々を救った祖王の妃。本来は人であった女性。
 彼女が女神に祭り上げられたのは、他でもない。その七百年前の悲劇に、人々は神という存在に絶望したからだ。
 昔、魔術によって召喚された邪神は贄と引き換えに、魔術師に絶大なる力を与えた。力を得た魔術師はさらなる力を求め、次々と国を滅ぼし、邪神に贄を捧げた。
 血と肉、死と絶望――既に伝説となった邪神を破壊の神クロウディアと、人々は呼んだ。
 魔法師と魔術師、これは混同されやすいが、その実、明確な違いがあった。
 魔法師……魔法使いは、魔力を持ち、その魔力を魔法に転化できる能力者を言う。
 魔術師は儀式を行い、力を持った存在を召喚し、契約を交わして力を得る。
 クロウディアに力を得た魔術師に、ノーウサス大陸は混乱を極めた。殺す者と殺される者、その二つに別れ、世界は暗黒に染まろうかというとき――この時代を暗黒時代と、歴史書は銘打っていた――フォレスト王国の祖王となるフォレスとその七人の臣下によって、魔術師は倒され、邪神は封印された。
 この歴史があって、フォレスト王国の人々は神を信じなくなった。
 万物に宿り、星の数ほどいるという神々を、この国の人々は知っていても、決して祈らない。何故なら、神は万能ではなく、人々の救いを求める声を聞き入れてはくれないことを知っているからだ。
 でも、生きていくということは容易くない。心の拠り所を求めたとき、メレーラが悲劇に打ちひしがれた人々に語って聞かせた言葉があった。
『悲しみに沈むのも、また打ち払うのも、他でもない自分たちである』のだと。
『自分たちの行いの全てを、自分たちの責任の下に。もしも、何かを望むのなら、それは自らの手で、足で、切り開きましょう、私たちはそれができる手と足を持っているのだから』──それがこの国の信仰、メレーラの教え。
 以来、フォレスト王国の人々は自らの行いに対して、迷いが生じたとき、女神に問う。この道が正しいのか、と。
 勿論、女神メレーラは、偶像であるのだから答えてはくれない。答えを出すのは他ならぬ、自分なのだ。
 自分の迷いに真正面から向き合うことで、一方方向でしか見られなかった問題に、別角度から光があたる。それは自然な形で、明確な答えとして出てくる。
 あの悲劇から、人はそうやって、神との距離を変えた。
 だから、神が実在することを今では知らない者も出てきた。それは別に不自然なことじゃない。
 少なくとも、この地上に、神は存在しないはずだから。
 二千年前に、神々はこの地上から去ったのだ。絶大なる力を持っていながら万能ではない神々は、人間と共存できなくなったのだという。
 神もまた心を持つなら、弱者に対する優しさもあって、百年にも満たない短い生を生きる人間に同情しては、神の力をふるおうとする。
 例えば、日照りが続く土地に雨を降らせる、そんなささやかなものなら、まだ良かった。しかし、一個の人間に肩入れして、人間社会を歪めるようになってしまうことも、多々にあったという。
 そこで、地上を人間に預け、神は天上界へと去った。地上にはその身を降ろさない、という掟を作って、神々は互いに監視しあった。
 それこそが、人間たちに対する神々の慈愛。人としての運命を歪めないように、と願った決断。
 …………だけど、神は地上に現れた。
 クロウディア然り、そして、その他にも。
 掟を破った神を、邪神と呼ぶ。
 そして、俺はアレンの中に宿ることで掟のギリギリのところから、地上へと関係を持つ神様と共に、邪神を狩ることを一年前からもう一つの仕事としていた。







  
,神子


 地上を人間に預ける際に、神々は人間の中に一世代にただ一人、特別な人間を誕生させた。それは身の内に、神格を降臨させることができる神子の存在。
 もしも、人間が道に迷い、それがどうしても人知で解決できないとき、神の知恵を授けるものとして、神子は存在した。血筋なんて関係なく、ただ、神格を受け入れる器を持って。
 その器というのが、感受能力だ。神子はこの力が抜群に優れていた。
 ここまで来たら、答えはわかるだろ?
 アレンはこの世にただ一人の、神子だった。
 本人に、神子としての自覚があるのか、確かめたことがないので、わからない。
 だけど、邪神の気配を感じ取ったとき、アレンの中に神様が降臨する。その際に、アレンの意識は強制的に眠らされているのだと思う。アレンから神様のことを聞いたことはないからな。
 姿形はアレンのままだが、立ち居振る舞いは間違いなく別人だった。
 表情さえ、違って見えてくる。
 切り開かれた森の奥を眺めるその美貌に、宿った憂いは何を思うのか。いつものアレンだったら、きっとこんな表情はこの場では見せない。
 不安そうな顔をしながら、「早く仕事を終わらせて、さっさと帰ろうよ」なんて俺をせっつくだろう。もしくは、汚れてしまった靴に嘆くか、走って腹が減ったと、不平をこぼすか。
 この上なく人間らしい、アレンの所作は影を潜め、悠然と佇むその姿に俺は声を掛けた。
「――神様」
 神様と、俺は呼ぶ。
 全てのものに、真名と呼ばれる名があるらしい。俺のアールという名前が親によってつけられ、この世に生きる俺の存在の証としてある名前なら、真名は魂に刻まれた名だという。
 その真名を知られた者は、相手に支配されるほどに、大変なものだという。人間にとって、この真名は初めから認識されていないものであるが故に、あまり効力を持たない。本人自身が知りえないし、その名を知ることができるのは、この世に生きるものだけでなく、神々の魂さえも統べる〔魂の神〕だけ。
 それほどに、大事な名だから、神様が俺に名乗った名はソフィという仮名だった。
 クロウディアの名が、また仮名だったように、その名は便宜上の名前で、俺がアレンの中に宿ったソフィという神様に対して知っていることは、彼こそが〔魂の神〕であるということ。
 神の中の神と呼ばれる〔魂の神〕。恐れ多くて、ソフィという仮名でさえ、俺は口にできずにいた。
「……神様」
 呼びかけた俺の声に、振り返る美貌は一度、空色の瞳を伏せると、暫くの間を置いて見開く。迷いを断ち切るように、透明な声を凛と響かせて、神様は告げた。
「行こう」







  
,森の女神


 神様は、切り開かれた森の陽に当たる部分に立ち、立ちふさがる木立を前に歩み寄った。俺は神様の少し後ろに従って、辺りに気を配る。
 アレンの身体を今、支配しているのは他でもない神様だ。けれど、その肉体はアレンのもの。つまり、人間の身体だ。神様が持つ、本来の身体とは違うものであるならば、簡単に傷ついてしまう脆いもの。
 さっきのような襲撃がアレンの身体を、その中身にいる神様ごと傷つける可能性もある。勿論、神様は自分の身は――アレンの身は、自分で守るから、俺には自分の安全だけを考えるように言われている。
 でも、もう二度と、誰も傷つけたくないと思う俺は、心配はないとしてもやっぱり、安心することはできない。
 神様はそっと声を響かせた。
「森に生きるもの、我が声が聞こえるなら、私を彼女の元に導け。道を与えよ」
 森の静寂に響き渡る声。その余韻が消えるや否や、声に応えるかのように森がざわめいた。
 また、さっきと同じように、襲ってくるのか?
 俺は神様の前に飛び出して、いつでも魔法を繰り出されるように、手のひらを軽く持ち上げる。
 そんな俺の肩に神様が手を置いた。
「大丈夫だ、アール。この森の願いは私の声に応えるだろう」
「願い?」
 横目に見返った俺に、神様は頷いて森の奥を視線で示した。
 つられて森を見やれば、壁のように俺たちの進路を塞いでいた木立の間に……道があった。
 俺は思わず、自分の目を疑った。
 マジで、森が生きているのか?
 いや……森は生きているんだろう。木だって生長するなら、それは生きている証だ。
 生きているものに全て、魂が宿るのなら……〔魂の神〕の声に従うのも道理。
 さっきの襲撃もまた、支配するものが命じたんだ。
 森を支配するもの……〔森の神〕か。
 神様が彼女と言った、ならば女神か。
 邪神と化した森の女神と死人、これは一体どういう関係なんだ?
 疑問が膨れ上がってきて、俺は思わず神様を振り返った。
 神様は一番近くの木の幹に手を当てて、囁く。
「ありがとう。私の願いもまた、君たちと同じだ」
 神様の願い……神様が邪神を狩るのは、他でもない。邪神を浄化することによって、再び、同胞を天上界に連れ戻すため。そして、歪んでしまった地上の秩序を取り戻すため。
 森の女神が……地上に降り、死人を蘇らせた。
 その過程で、歪んでしまったものがあるんだ。俺にはそれが何か、わかった気がした。
 この森が[帰らずの森]と呼ばれるようになった、その理由が……。







  
,優しい神様


 ザワザワとまるで俺たちを誘うように、木の葉が囁く。それは何かを語りかけるようで、神様は頬を傾けるようにして、耳を澄ます。
「……そう」
 姿勢を正した神様は、天を仰ぐ。そうして、空色の瞳を伏せた。
「……それでも、君たちは彼女を愛しているのだね?」
 神様の問いかけに応えるように木立が揺れる。嵐の日のざわめきとは違って、静かに落ちてくる優しい音に、俺は何とか、その声を聞けないものかと思う。けれど、俺の感受能力では森の意思を感じることなんて、できない。
 じゃあ、アレンはこの声すらも聞こえるのか? 少し疑問に思って、直ぐに首を振った。アレンの場合、自分に都合が悪いことには目を瞑るし、耳を塞ぐ。
 助けを求める声があったとして、それが金にならないとなると、あっさりと聞かなかったことにするんだろう。
 そういう、奴なんだ。きっと、空耳だって、一言で片付けるだろう。
 一度、それを神様の前で愚痴ったら、神様は笑った。それはアレンの優しさなんじゃないかな? と。
 アレンは神様のことを知らないが、神様はアレンのことを知っている。神様とアレンは繋がっているのだ。だから、アレンが邪神の存在を感じれば、神様はすぐさま降臨してくる。
「アレンの優しさって何さ?」と、問えば、「甘やかさないことだろうね」とクスクスと笑う。
「人に頼ることをむやみやたらと、覚えさせてしまうのも問題だと、アレンは思っているようだよ」と神様は言った。
「彼は誰にも頼らないで、生きていこうと決めている人間だから」
 ……そう寂しそうに笑う。
 アレンの人間不信がそこまで根深いのかと、驚愕した一瞬だった。
「アレンはとても優しい子だよ」と神様は微笑む。
「優しいから、皆に自分と同じ強さを求めてしまう。それがその人にとって、一番良いことだと、信じているのだよ」
 わかるようでわからない理屈だ。俺にしてみれば、神様みたいな存在が優しさを体現していると思うんだが。
 なんてことを言ったら、神様は悲しげに首を振った。
「私は駄目だよ、アール。優しいわけじゃない。私はただ、諦めきれないだけなのさ。邪神である彼らをこのまま、捨て置くことも。そのせいで歪んでしまう世界のことも。本当なら、掟の範囲に収まっているとはいえ、神々での間では私の行為はあまり歓迎されていないのだよ」
「どうして?」と、俺は問い返す。
「どうしようもなく、私が弱いから……」
 〔魂の神〕である神様が弱いはずはない。全ての魂の真名を知り、支配できるのだ。
「神様なら向かうところ、敵なしだろ?」
 反論した俺に、神様は「そうだったらいいね」と自嘲するように笑った。
 弱いのだと、断言した神様の真意がこの一年の付き合いで、わかりかけてきた。
 やっぱり、優しいと思う神様は、その優しさゆえに、沢山のことに傷ついてしまうんだ。
 切り捨てられないこと、見捨てられないこと、そして、万能の力を持ち得ないが由に全てを把握できずに、結果だけを知ってしまうことに。
「大丈夫、もう彼女に過ちは繰り返させない」
 森に向かって語りかける声は、決意に満ちていた。たくさんのことを見落としてしまうから、目の前のことだけは目を背けずにいたい。そう神様は言っていた。
 そうして、振り返った白い美貌に俺は頷いた。
 過ちはここで断ち切る。


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