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 第六章



  
,森の真実


「アールはもう、大体の事情を察しただろう」
 森の奥へと向かいながら、神様が問う。
 俺の把握する限りの情報を集めれば、答えはおぼろげながら見えてくる。
「この森の女神が……あの男を生き返らせた。でも、神々であれ、人を生き返らせることなんて簡単じゃないよな?」
「先程も言ったように、〔死の神〕に死を認知された肉体は、後は朽ちるだけ。その腐敗を止めるには普通に生きる以上の生気を必要とする」
「最初は女神から生命力を供給してもらっていた。だが、それは……」
「人の身体には強すぎる。逆に毒になりかねない」
 俺の言葉を受け取って、神様は続けた。
 神は人のように血と肉というような、肉体を持っているわけではない。勿論、肉体はあるんだ。でも、それは人間のようなものじゃない。いつか、朽ちてしまうようなものじゃない。
 それは強烈な大きな力を結晶化したようなもので、太陽のように遠いところから、その光で、その熱で、大地を育てるように。神々の存在の余波が、世界を作っていた。
 大地を支え、風をそよがし、雲を呼んで、雨を降らせる。太陽もまた、神々が作り出したものだと聞けば、人と神との歴然とした差は理解できるだろう。
 天にあって、あれだけの熱を地上に放射する太陽ならば、直に触れれば人間なんてひとたまりもなく灰と化す。
 そんな神の力を力として受け取れば、七百年前のように、大陸全土を巻き込む惨劇も、決して昔語りの物語ではないのだと知る。
 だが、死体を生き返らせ、生き続けさせる力は、力という形ではなく、命という形で身体の中に直接、取り込む必要がある。これは小さなコップに大量の水を注ぎ込むのとは違って、あふれ出た力はこぼれるのではなく、人の身体を蝕んで崩壊させる。
 ただでさえ、朽ちるだけの死体に、神の生命力は強すぎる。それを人間に与えるとなれば、それは少量。濃度を薄めるといった過程を踏まなければならない。そして、それが人間に適応しえるものとなったとき、その生命力の効果は長くても三ヶ月程度の延命効果しかなかった。
 つまり、女神から命を貰うというのはあまり、効率が良いとは言えないわけだ。死体を存続させるのなら、三ヶ月程度の延命効果も、一ヶ月程度にしか、ならないのだから。
 ならば、死体が生き続けるに必要な生命力を効率よく、どこから、補給するかとなったとき、浮かび上がるのは人間だ。
 同じ人間の生気ならば、身体が受け入れるのに抵抗はない。
 勿論、人の命が簡単に他人のものになりえるはずがない。そんなことができるのなら、俺は自分の命をあの子に差し出していた。奪ってしまった、あの子の未来を、この命で贖えるなら、こんなに安いものはない。
 でも……他人の命を我が物にすることなんて、できない。手に入れようとしたところで、殺人という罪を犯すだけだ。
 だが、ここに女神の力が加われば……状況は一変する。
 神の力によって、人は命を奪われ、その生気は死人へと……。
 それが、おそらくは、森で行方不明になった奴らの顛末。
 女神が森を操って、侵入者を迷わせる。そこへ、奴が登場する。話しかける言葉はなんだっていい。俺たちのときのように「来るな!」と意図するところと、反対でも。
 どっちにしろ、迷っているさなかで第三者との遭遇は、遭難者にとっては希望の光に他ならない。逃げる奴を追いかけて、そうして導かれた先で……。
 多分、ジーナもそうやって捕まった。
 生きているのか、捕獲されている段階なのか。
 俺の推理が間違っていることを願いたいが……邪神の存在を神様が認識し、降りてきたのは歪められた運命があるから。
 人は死んで、生まれ変わる。その導きをするのが〔魂の神〕である、神様の仕事。
 死んだ後、魂は余程のことがない限り、神様の元へと昇天する。だが、ときに、それができない死者たちもいる。それが幽霊だ。この世に残した未練、執着、悔恨に縛られて、昇天が叶わない者たち。
 神様としては、それらの魂を迎えに行きたいところだが、神が地上に降りることはできないという掟がある以上、アレンの身体に光臨するという形でしか、降りることはできない。
 そして、神様自身、全ての魂の所在を把握するほどに、長けてはいない。
 この世に生きる全ての魂を統べることはできるといっても、それら一つ一つの生き死にを同時に把握するなんてできない。
 何度も繰り返すが、神だって万能じゃない。
 目こぼされた魂が悪霊になっていたとしても、例えば、強すぎる風が嵐を呼んで天災を引き起こしたとしても。大地の成長に、大きな地震が人の社会を襲っても……それもまた、神々の意図したところではないんだ。
 神々はその存在自体が強大な力であっても、心を持ち、思考は人とさほど変わらない。
 人のために、己のために過ちを犯すこともあるから……邪神という許されない存在もまた、生まれる。
 






  
,女神との対峙


 森の中に作られた道の先、やがて開かれた場所に出た。しかし、先にあった場所とは違って、覆い茂った枝葉が頭上を覆っていた。
 だが、不思議と薄暗さは感じなかった。木の葉一つ一つが発光しているかのように淡い緑に輝いていた。光を透かす緑色のガラス天井のように頭上覆う。建物内部のような空間。ぐるりと周囲を取り巻く茶色の壁は樹木の幹。そのなかの一本、蔦に巻かれて幹に縛り付けられ、捕らわれている人影を見つけた。
「ジーナっ!」
 飛び出しかけた俺を神様が腕を横に突き出して、制した。
「落ち着いて、アール。……彼ならまだ、大丈夫だ」
「……生きているのかっ?」
「ああ、まだ、大丈夫。それより、私に彼女と話をさせて欲しい」
 そう言って、空色の瞳が見つめた先、空間の奥に白い花園があった。白い花弁がまた、それ自体発光しているようだ。
 頭上からの緑の光と、白い光に浮かび上がるそこは、この空間において異様であると同時に、特別な場所だとわかる。
 そこが彼女の指定席。彼女のためにあつらえられた場所。それは玉座のような感じだろうか。
 白い花弁の花たちを組み敷いて、横座りの姿勢で俺たちを向かえる女神。
 ストレートの長い髪は薄いグリーン。瞳は濃茶色で、目鼻立ちの整った顔立ちはアレンにも負けず劣らずの美貌。
 ノースリーブのワンピースというシンプルな装いが――服っていうより、身体の一部というような――女神の美貌を際立たせ、一瞬、俺は見惚れる。
 神という存在はえもいわれぬ存在感を持っている。アレンの内側に宿りながらこちらを圧倒してくる神様も同様、女神からもこちらを圧迫してくる何かがあった。
 それが神というもの。人とは別次元に存在するもの。
 女神の傍らにはあの白い衣装の男がいた。顔の造りが整った中々、ハンサムな男だ。女神との組み合わせに、違和感がない。
 女神はゆるりと立ち上がった。
 つと、神様も一歩、前に歩み出る。
「お久しぶりですわね、ソフィ」
 親しげな様子で女神は神様に声を掛けてきた。神様はアレンの顔に柔和な笑みを浮かべて、応えた。
「そうだね。久しいな。どれぐらいぶりだろう、グリーディ」
 グリーディ、と呼びかける。それが女神の名か。勿論、それは仮名だろうけど。
「もうかれこれ、三百年かと。貴方様に再び、その名を呼んでいただけるとは思いもしませんでした」
「……もう、私の前に現れる気はなかったということかい」
「掟を破ったわたくしが天上界に帰れるはずもなければ、帰る気もありません」
「覚悟の上での地上へ降りたということかい」
「覚悟がなくして、降りられましょうか。掟を破り、邪神という汚名を着るその罪の深さを知らぬ、わたくしではありません」
「邪神という――堕ちたる者の烙印は、何も地上に降りたが故に与えられるものではない。それはわかっているだろう」
「ええ」
 神様は瞳を伏せ、問いを重ねた。
「わかっていて、君は己を邪神と呼ぶのかい」
「ソフィ。聡明な貴方様なら、もう既にわたくしの罪にお気づきでしょう」
「……ああ。彼を蘇生させた。そして、君は人を喰らったね?」
 ゆっくりと瞳を見開き、神様は女神を見据えた。







  
,邪神


 人を喰らう……その意味は、他でもない。人間を殺してしまったということ。そして、その命を喰らったということ。
 ……掟を破って、地上に降りた邪神たちが犯すその罪の、もっとも最悪な行い。
 それが人間を喰らうということ。
 命を、魂を、精神を、肉を、血を――その食する形はそれぞれだが、神にとってその味は麻薬のように中毒性が高いという。
 七百年前、魔術師がクロウディアから力を得るがために、捧げたのは人の血肉。その血肉をクロウディアはさらに求め、魔術師は大陸を滅ぼす勢いで人間狩りを実行した。
 一度、その味を覚えてしまった神は、自ら神であることを捨てて血肉を求める。
 それが邪神の本当の姿。
 ただ、掟を破って地上に降りただけならば、天上界に帰ることはそう難しくない――許しがあれば帰れるらしい。
 けれど、一度、血を、肉を、人間を喰らってしまった邪神はそれへの執着のために、許しを求めなければ、神々の目から逃れようとする。
 三百年……。女神が天上界から地上に降りて、こちらの年月。その長い月日に、神様がこの女神に対して、何もしなかったのは……何もできなかったからだろう。
 意図的に姿を消されたら、神様だって追跡はできない。この世にどれだけの魂が溢れていると思う? 人間、神々、それだけじゃない。動物、魔物、植物、昆虫だってそれぞれに魂を持って、生まれては死んでいるのなら……。
 神様が導かなければならない魂の数も半端じゃない。
 本当は、こうやってアレンの身体に降りて、地上に降りてくることも大変なんだろう。それでも、優しすぎる神様は歪められる運命に気付いてしまったら、捨て置けない。
「グリーディ、君は自分の行いを罪だと言ったね」
「ええ」
「罪深きこととわかっていて、君は人を喰らったのかい?」
 抑揚を抑えて問いかける神様の厳格なる声。
「ソフィ……。わたくしは、選んでしまったのです、彼を」
 そう言って女神は、斜め後ろに佇む白い男を振り返った。
「彼のためなら、わたくしは貴方様にどのように罵られ、謗られようと、構いません」
「人を想う心を責めるつもりはない。だが、彼を想うように、他の人間に対しても思いやりを持てなかったのかい? 人の命は、決して取替えの利くものではないのだと」
 女神は神様に視線を戻し、ゆっくりと首を振った。
「君が彼を想うように、君が喰らった人々が誰かに想われていると……。彼らの死を悲しむ者たちがいるかもしれぬと、考えはしなかったのかい?」
 神様は重ねて問いかけた。
「人の悲しみなど、如何なものでしょう。人間は瞬く間に大事なことを忘れ去る愚かしい生き物……ソフィ、それは貴方様もご存知のはず」
 神様は女神の問いに答えず、空色の瞳を白い男に差し向けて言った。
「グリーディ、それは彼だって同じだろう」
「不死として生まれ変わった彼は人とは違います。わたくしと共に、永久に生きていくものです」
「他人の命を喰らって生きることを、永久と言うのかい?」
「ええ」
「そのために、多くの人の命を殺めて……運命を歪めることになっても、君は構わないとそう言うのかい?」
「貴方様の手に抱えた魂の数から言えば、わたくしが彼のために殺める人の命の数など、瑣末なものでありましょう」
「この世に生まれいずる命は、それは数え切れず、生まれてすぐに散っていく命も少なくはない。それでも、彼らの魂は生まれることを、生きることを望んだ。彼らの願いを聞き入れ、魂の輪廻を導く私は、君のその言葉を認めるわけにはいかない」
 女神を睨んで、神様は凛と声を響かせ告げた。
「最後の忠告だ、グリーディ。私と共に天へ帰ろう。ここは、君のいるべき場所ではない。君はここにいては、いけない」
 このまま女神が地上に止まれば、女神はあの男のために、人間を喰らう。それは犠牲者が増えるということに他ならない。
 人は簡単に死ぬ。あっけないほどに、あっさりと。道端の石に躓いて、転んだ拍子に死んだり――かなりマヌケな死に方だと思うが、実際にそうやって死ぬ奴もいる。
 本当に簡単に、人間は死ぬ。人の肉体はそんなに頑丈じゃない。病気をこじらせて、昨日元気だった奴も、今日も元気だという保証はない。
 だから、死者は日常的に排出される。
 今、この瞬間も、その〔死の神〕に死を認知された肉体が山ほど出ているのだろう。
 けれど、それらの死は、他人の手によって運命を捻じ曲げられた結果であってはならない。その人の肉体の限界があってのこと。
 誰も他人の命を我が物にする権利なんてないはずなんだ。
「わたくしのことは捨て置きください、ソフィ」
 差し出した神様の手を、女神は拒否した。
「……それはできない。君が帰らないと言うのであれば、私は強制的に君を連れ帰る」
「ならば、わたくしも抗いましょう。ソフィ、貴方様を、神子の器を傷つけても」
 女神がそう告げたところで、俺は神様の前に飛び出した。
 濃い茶色の、女神の瞳が険しさを湛えて、俺を睨む。
「何者です」
「あんたの敵」
 俺は端的に告げた。







  
,対決


「人間風情が、わたくしと争うと? 笑止。地に堕ちたとは言え、わたくしは神。敵うはずはないでしょう」
 俺を嘲笑する女神に、神様が言った。
「グリーディ。人は君が思うように、弱くはない。運命を切り開くためなら、どんな困難も厭わない強さを持っている」
「ソフィ、この人間が貴方様の切り札ですか?」
「そうだ。彼と戦ってもらう」
 神様の声に、辺りの空気がキンと響く。神様がこの付近一帯に結界を張ったんだろう。俺はさらに一歩、前に出た。
 神様が女神と戦うことはない。地上での人間の問題に、神様が直接手を下せば、それは地上に干渉することになり、掟を破ることになる。
 地上での[帰らずの森]での悲劇を食い止めようとするならば、それは地上に生きる俺たち人間が解決しなければならない問題だった。
 神々は二度と、地上に干渉しないと掟に定めた。例外は、人間の知恵では解決できない問題において、神子を介して助言をすること。
 神様ができることは、女神自身に天上への帰還を促すこと、説得すること。言葉でのやり取りに尽きる。
 でも、それが不発に終わったとき、地上の安寧を求めるのなら、それは人間が自らの手で勝ち取らなければならない試練。
 大体、神々が争ったら、地上にどれだけ甚大な被害が出るか。本気でぶつかり合ったら、それこそ未曾有の天災に匹敵する……に、違いない――実際にそんなことが起っていたなら、多分、地上なんてなくなっているだろう。少なくとも、神様の側ではその危険性を知っているので、手を出せない。
 真名を知り、相手を支配できる〔魂の神〕であっても、真名によって支配する際に、それなりに相手の力を削いでいないと真名を口にすることすら儘ならない。
 だから、被害が外に出ないように、神様は結界を張る。それが神様に唯一の術。そして、戦うのは俺の仕事だった。一年前に、俺が選んだ。
「人だからって馬鹿にしてんじゃねぇぞ。確かに人間は愚かさ」
 苦々しさを噛みしめて、俺は口を開いた。
 どうしようもない過ちを犯すのは、目の前の女神に限ったことじゃなく人間も同じだ。
 俺自身、どうしようもなく愚かな人間だ。
 今まで犯した間違いは、一人の人間の運命を歪めてしまった。傷つけて、追い詰めて、死を選ばせてしまった。
 それはなかったことにしたくても、できない現実。
「でもな、過ちを認めるぐらいの度量は兼ね備えている。お前と違ってなっ!」
 叩きつけるように叫んで、俺は魔法陣を胸の前、中空に指で描いた。
 魔法を構成し、呪文を唱える。
「<火炎放射>」
 飛び出た炎が女神に襲い掛かる。手のひらを開いて、握り締めるような――拡散し、収束する――動きで女神を包み込もうとする。しかし、女神は視線の一瞥で、炎をなぎ払った。
 その力は風圧となって、俺の身体を弾き飛ばそうとする。
「<絶対防壁>」
 壁を使って、押し止める。手のひらに伝わってくる半端じゃない力量。気を抜けば、そのまま押し出されるだろう。
 唇を噛んで、魔力を注ぎ、壁を強化する。
 見えない壁の向こう、女神の薄いグリーンの髪がそよいだ。
「アール、後ろっ!」
 神様の声に振り返ると、壁のないところを回り込んで、また木の根が鞭のようにしなり襲い掛かってきた。
 くそっ! 神様がいたとしても、この森は女神の領域。女神の直接的な命令に、森は従うのか。
 腕を楯にしたところで、木の根が俺を叩き伏せ、跳ね飛ばす。俺の身体は軽々と飛ばされて、この空間を取り囲む木の幹に叩きつけられた。
 身体中のあちこちで、骨のきしむ音がした。







  
,本当の痛み


 痛ってー。痛い、痛い、これはマジで痛い。
 繰り返さなくても、わかるだろうが、マジ痛い。泣きそうだ……いや、泣かないけどな、こんな状況で泣いている余裕なんてないし。
 でも、今ので、どっかの骨が折れたかも。俺の身体はそんなに頑丈じゃない。
 大体、魔法使いっていうのは精神労働者で、身体を使って仕事をする輩じゃない。戦闘能力なんて、持ち合わせてはいない。
 それこそ、宮廷魔法師がどこかの国と戦争をするとなった場合――これはまず、ありえないことだろう。戦争を回避するために、宮廷魔法師団が組織化されているんだから――ともかくも。
 俺みたいなフリーの魔法使いは魔法師協会の制約の下、魔法を武器化してはいけない。だから、戦闘能力を磨くなんて、できるはずなく。
 大体、何で俺が戦っているんだか。俺は普通の魔法使い。仕事以外で魔法を使うことなんて、あるはずなかったのに。
 愚痴をこぼせば、尽きることがない。
 ……でも、戦うことを決めたのは俺だ。
 幹に背中を預け、俺は顔を上げる。
 女神がゆっくりと近づいてくるのが見える。
「人間風情で、神に逆らうなど。覚悟はできているのでしょう、容赦はしません」
 ……覚悟か、そんなものは当にできている。
 あの子を傷つけたときから、俺の命は償いのためにある。あの子が死ねというのなら、俺は迷わずに死を選ぶだろう。……そんなこと、あの子が言うとは思えないけど。
 それくらい、取り返しのつかない過ちを俺は犯してしまった。
 だから、死ぬ覚悟なんてとっくにできているさ。大体、覚悟がなくて、邪神と戦えるか? 相手は神だぞ? 五体満足で、勝利できる相手じゃないことはわかっている。
 けれど……死ねない。死ぬわけにはいかない。
 あの子への償いのためにある俺の命は、あの子以外の奴のためにはくれてやれない。
 例え、相手が神様であっても、俺の命は俺のもの。あの子のためのもの。
 骨の一本や二本がどうしたっていうんだ。全身が砕かれようが、構うものか。
 こんな痛みも、あの子が負った傷に比べれば、かすり傷程度だ。
 俺、何、泣き言、言ってんだ? 甘いよな。
 死を選ぶほどの痛みに比べたら、身体の痛みなんて虫に刺された程度。そんなもんだ。そうだろ?
 俺は無理矢理に笑う。
 頬を引きつらせ、唇を歪めて笑う俺は、さぞかし滑稽な顔をしているだろう。女神は立ち止まり、怪訝そうな視線を投げてきた。
「何を笑っているのです? 神の力を前にして、気が触れましたか?」
「……狂気に走るほど、俺は何も投げちゃいない」
 投げやりになっているわけでもない。
「ただ、自分の甘さを笑ったんだ。泣き言を言えるような資格なんて、俺にはないのにさ」
 唇を噛んで、二本の足で身体を支える。軋む身体。痛い。ツと、唇の端から血が流れるのがわかった。肋骨でも折って、肺でも傷つけたか?
「力量の差はわかりきっていて、まだ戦うというのですか?」
 一歩、こちらへの距離を縮めながら、女神が問う。
 指先で血を拭って、俺は不敵に笑う。今度は上手く、笑えたはずだ。
「俺がすべきことはたった一つだ。あんたを倒して、ジーナを取り返す。そして、この森の因縁をここで断ち切る」
[帰らずの森]――そう呼ばれるようになった全ての元凶を。女神を倒す。
「命が惜しくないと見える」
「人の命を喰らっておいて、あんたがそれを言うなっ!」
 一歩、踏み込んで俺は指先で魔法陣を描き、呪文を叫ぶ。
「<水龍激進>」
 指先から飛び出した水の龍の顎が、女神の身体に噛み付いた。







  
,死闘


 俺の腕で抱え込んでも一周しそうにない胴回りの龍が、長い身体をうねらせながら、女神に襲い掛かる。大きな口を開けて、女神の身体に噛み付いた龍はその水圧で、女神の身体を奥の壁へと押し付けた。
 その威力は、バキバキとなぎ倒される木々を見てもわかるだろう。上級魔法使いの魔力を舐めるなよ。
 何万という軍勢と渡り合える力だ。本気になれば、神とだって戦えるさ。そりゃ、簡単に倒せるとは思ってねぇけど。
 肩で息をする俺の視界の端、倒された木々の下から這い上がる女神の影に、俺は舌打ちと同時に、口の中にたまった血を唾と一緒に吐き捨てた。
「人間風情がっ、よくもっ!」
 怒りに紅潮する女神の美貌。その壮絶な迫力を前にして、俺はまたしても笑う。
 ……笑ってしまう。
 これが神様と同族か?
 あの優しい神様と同じものか?
 怖い、恐い、強い――人を殺すこと、傷つけることを何とも思わないということはここまで、恐ろしく、強く化けるのか。
 生き物のようにうごめくグリーンの髪が地を這って、俺の足に絡みついた。強く引っ張られる。バランスを崩そうと企むのか。
「<風刃>」
 風の刃で、髪を断ち切り、俺はせわしなく指を動かす。意識するより先に、身体が反射的に動いて、本能が魔法を組み立てる。
「<流風>」
 風の流れを作り、そこに身体を乗せる。人が動くスピードの何倍もの速度で、一気に女神との距離を縮めて、腕を突き出しながら魔法を放つ。
「<烈火爆裂>」
 激しい炎が爆発しながら、女神の身体を飲み込む。
 縮れる髪、燃えるワンピース。しかし、それは肉体を焦がすというより、女神が持つ力のオーラを削ぐような形だ。
 微かに薄れる女神の気配に、やったか? と立ち上がった炎の内側に目を凝らす。
 一瞬、棒立ちになった俺の身体を横殴りに襲うのは、またしても木の根だった。
 弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた俺の身体は二度、三度とバウンドして転がった。
 脳天へと突き抜ける痛みに身体を折り曲げ、絶叫する。
「がぁぁぁぁぁっ!」
 身体中の骨が砕かれようが、構わないと言ったが、実際にそんな目に会うと、なかなかに耐えられないもんだ。激痛に転げまわるたびに、それがまた痛みを生む。
 息をするたびに、肺が、喉が、全身が電撃をくらったような痺れを発して、鈍痛は身体に残留する。
 指一本すら動かすのが苦痛で仕方がない。
 めげそうになる、泣きそうになる。
 何やってんだよ、俺。立てよ、まだ終わっていないぞ?
 自分を叱咤し、奮い立たせようとする俺の視界に女神が現れた。
 仰向けになった俺を冷たく見下してくるその美貌の半分は、俺の炎によって醜くただれていた。
「よくも、わたくしの身を焼いてくれたな」
 怒りを押し殺した声で唸る女神を、朦朧とした意識で見上げて、俺は声が出せずに息を吐いた。
「その命で、この罪を贖うがいい」
 伸びてきた女神の手が、俺の首を捉える。触れるその感触は人肌とは異なり、冷たく俺の身を凍えさせる。
「アールっ! 駄目だっ!」
 神様の声が耳朶を打って、俺は我に返った。
 女神の指先から、俺の命が吸われていくのがわかる。そうやって、女神は森に迷った奴らの命を喰った。
 俺を見下ろす女神の表情に、微かだが歓喜の色が見えた。
 自分を傷つけた俺を殺すのが楽しいとか、そんなんじゃなく、喰らう生気に酔っているかのよう。
「……っ!」
 吸われる俺の命。削られていく命に、俺の感覚が研ぎ澄まされたんだろう。
 流れ込んでくる何かがあった。


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