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 7,レイテの遺言


 レイテはセラを伴って廊下を歩いていく。途中で、一つの部屋から何かを読み上げているルーの声が聞こえてきた。ハキハキとそれでいて鈴の音が鳴るような愛らしい声で。
「あれは?」
「あの子は黙読ってものができないのですよ。読んでいるうちに眠ってしまうのですね」
 レイテは水色の瞳を通り過ぎた部屋へと向けた。扉の鍵穴から部屋の明かりが漏れている。
「言いつけを守っているようですね。今うちに……」
 セラを促して歩き出す。セラは目の前を歩く白い背中に問いかけた。
「レイテ様、あの子……女の子ですよね?」
 この城にやって来てからずっと気になっていたことをレイテに問いただす。
 レイテからルーと呼ばれている赤毛に赤い瞳のその子は、男の子のようなパンツスタイルに、短く切りそろえた髪のせいで少年っぽい外見をしていた。レイテも男の子のように扱っていたから──何の躊躇もなく殴っていたので──男の子なのかと思いかけていたが、やはり声を聞けば女の子ではないかと疑ってしまう。柔らかな体の線は、男にはないものだろう。
「ええ、ルーは女の子ですよ」
 あっさりと言ってきたレイテにセラは一歩、距離を取った。
 この偉大なる魔法使いは、男女関係なく殴るらしい。生贄として、死は覚悟していたつもりだったが。
「ああ、僕は女の子に手を上げるような鬼畜じゃありませんから、ご心配なく」
 かなり矛盾したことを言ってくるレイテを、セラは思わず不信な目線で見上げてしまった。
 その視線に気付いたのか、レイテが言い訳するように口を開いた。
「これは僕の名誉に対して宣言しますが、僕は女の子に手は上げません。ルーはね、僕にとっては男の子なのですよ。それがルーの望みでしてね。だから、僕はあの子を男の子のように扱っています。それは僕にも都合が良かったのでね」
「都合がいい?」
「僕は男ですよ。目の前に可愛い女の子がいれば、食べてしまいたくなるじゃないですか。丁度、丹誠込めて育てた豚が丸々太るとソーセージにして食べたくなってしまうように」
「た、食べるんですか?」
「……冗談です。ルーもあなたも、どうして、僕の冗談が通じないのでしょうね? 僕はそんなに悪食に見えますか? 人間の肉なんて食べたところで美味しくないのですよ」
 まるで食べたことがあるような口ぶりに、セラはさらに一歩、距離を取った。
「冗談ですよ。あのね、女の子と意識してしまったら、手放せなくなってしまうでしょう? あの子は僕が拾って育てましたけれど、あの子の人生は僕のものじゃない。あの子には外の世界を知って、その中で人として生きて欲しい。僕はそう願っています。後三年して、この城を出るそのときまで、ルーに自分が女の子だってことを自覚させたら駄目なのです」
「どうしてですか?」
「外に出る恐怖から、城に残る言い訳に僕への恋慕を持ち出されたら、僕には拒否権はありません。この十七年間、あの子に注いできた愛情は並々ならないものなのですから。それはわが子のように、恋人のようにね。本当は手放すのさえ、惜しいのですよ」
 レイテはそう言って、ちょっと喋りすぎたと思ったのか口を塞いだ。
 コホンと体裁を整えるようにわざとらしい咳払いを一つして、続けた。
「あの子が何を思って自分を男の子と思うのかわかりませんが、大方、強くなりたいと思ってのことでしょう。僕はあの子の意思を尊重したい。だから、僕にとってルーは男の子なのです。だから、殴っても構わない。ああ、ご心配なく、殴ってもちゃんとケアをしています。でないと今頃、ルーの鼻はなかったでしょうからね」
 レイテはルーを殴る際、手加減なしと決めているようだった。それは自分の決心を鈍らせないために?
 レイテはそうして、廊下の突き当たり辿り着いた部屋の扉を鍵でもって開錠した。そこはレイテの魔法実験室でルーでさえ、この十七年、入室を許されなかった部屋だ。
「どうぞ」
 レイテはセラにそれだけ言って、部屋の奥に進んでいく。部屋はまるで廊下の続きみたいだった。両側の壁には書棚が置かれ、分厚い色とりどりの背表紙が並んでいる。でも、セラにはそこに刻まれた文字を読むことはできなかった。
(昔の文字かしら……)
 この城の主は一千年を生きているのだから、それは別段不可思議なことではない。
 部屋の奥はそれまでの空間と異なって開けていた。がらんどうの空間がとても奇妙に映った。大きな城だと思っていたが、この部屋のそれは城の容積に見合わないような。
「こちらに」
 レイテがセラを手招いた。そこには壁に大きな鏡が備え付けられていた。その前に立ったレイテはボロボロの紙を広げる。
「古い地図で恐縮なのですが」
 広げたそれは大陸地図だった。でも、そこに書かれてある境界線の半分は、セラが知っている新しい地図とは違う。
「魔法戦争以前のものなので……」
 魔法戦争は九百年前、この大陸全土を巻き込んだ大きな戦争だ。その戦争で魔法使いは前線に立ち、駒として死んでいった。この戦争を境に魔法使いは減少し、今では偉大なる魔法使いレイテ・アンドリューと後は数えるほどの人間しか残っていない。
 魔法自体は今も変わらずにあり続ける。ただ、戦争で魔法の能力を持つことを恐れた人間がその能力に恐怖し、自ら魔法を封印してしまった。
 人は学べばいつだって魔法を使える。勿論、魔法能力には個人の差があるのだが。
 セラの知識では、レイテが語る魔法戦争についてはそこまでしか、わからない。
「あなたが住む街はどの辺りですか?」
 レイテの問いかけにセラは地図を覗き込む。
「これがダスの国とグビの国の国境になる、ルードの河なのですけど」
 ダスもグビも小さく、今ではその辺り一帯を治める大国に吸収されてしまっている。だが、自分にはその大国の名前がわからない――と、レイテは申し訳なさそうに声をひそめた。
「ルードの河。……ああ、銀の河のことですね。それなら、私の街ハリスはこの辺りになると思います」
 セラが指差したそこはこの城から南西に位置する。
「わかりました、ありがとう」
 レイテは地図を閉じてそれから壁に立てかけてあった幾つかの杖を取る。中から一本、選び出したその杖の先端には赤い石がはめ込まれていた。
 レイテはその石に手をかざすと、杖の先端で床を叩いた。刹那、床から魔法陣が浮かび上がる。
 どういう仕組みなのかわからないセラを前に、レイテは魔法陣の中心に立つと杖を壁に備え付けられた鏡へと突き出す。
 鏡が突如、銀色の光を放つ。レイテはそれを確かめて、セラを振り返った。
「すみません、ルビィに伝言を頼めますか?」
「ルビィ?」
「ルーですよ。僕の可愛いルビィ・ブラッド。僕の至宝。あの子に伝言をお願いします」
「はい」
「この城をルビィ・ブラッドに譲渡します。住むなり、売るなり好きにしなさい。城にあるもの全てはルーのものです」
「……レイテ様、それは」
「伝言を頼みましたよ」
 そっと微笑むとレイテの姿は、鏡から発せられた銀の光に包まれた。眩しさに目を閉じて、再び、目を見開いたときにはもう、部屋のどこにもレイテのその美しい姿はなかった。
 がらんどうの室内。空虚な空間には魔法陣も鏡の光も、まるで何もなかったかのように消え失せていた。

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