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 8,実験室の秘密


 ルーは両耳を手の平で覆いながら廊下を歩く。徹夜で詰め込んだ知識が耳からこぼれてしまわないように。
「ふふふっ、先生の驚く顔が見えるみたいっ!」
 どうせ、覚えられないと思っているに違いない。それをわかっていて無理難題を押し付け、自分が苦しむのを楽しんでいるのだ。
「ところがどっこいっ!」
 レイテの思惑の裏をかいて、覚えてやったぜ。課題として出された全三冊。理解するのは無理だから、完全読破の丸暗記っ!
 ルーは思わずガッツポーズをとった。ややあって、慌てて耳を塞ぐ。せっかく覚えた知識が──多少、魔法でズルはしたが──こぼれてしまっては堪らない。
「さっさとテストしてもらおう」
 ルーはレイテの部屋に向かう途中、生贄の少女と出会う。こちらから声を掛けようとする前に、彼女のほうから声を掛けてきた。
「ルビィね?」
 本名を口にしてくる少女に、ルーは首を傾げた。
「そうだけど?」
「レイテ様からの伝言よ」
「伝言?」
 眉をひそめるルーに、セラは頷いた。
「あなたにこの城を譲るそうよ。住むなり売るなり好きにしなさいって。それと、城のものは全てあなたにあげるって」
「…………何だよ、それ」
 セラの口から淡々と語られた内容の、まるで遺言のような響きに、ルーは声を震わせた。
「とにかく、私はレイテ様の伝言を届けたから」
「先生は?」
「消えられたわ」
「消えた?」
「あれは魔法でしょう?」
 セラはレイテの魔法実験室での一部始終を説明した。
「魔法使って、どこに行ったんだよ、先生はっ?」
 ルーは置いていかれたと思った。そして、彼が二度とこの城に帰ってくる気がないことに絶望を覚える。
「私の街よ」
「先生は、雪竜退治はやらないって言っていたっ! ……それなのに、どうしてっ?」
「レイテ・アンドリューとしてではなく、一個人として助けてくださると、レイテ様は言ってくださったわ」
 セラは語った。でも、ルーにはそれが間違いであることを直感的に悟った。
「違う、先生は死ぬ気なんだ」
 ルーは自分が口にした言葉に愕然としながら、それを疑わなかった。弾かれるようにして身を翻し、ルーは駆け出す。その後をセラが追ってきた。
「ちょっと、どういうことなの?」
「死の咆哮だよ。ドラゴン種族が自分を殺そうとする相手にかける呪い。先生はそれを身に受けて死ぬ気なんだっ!」
 徹夜して詰め込んだ知識が、こんなところで役に立つとは思わなかった。小さく舌打ちして、ルーは十七年間入ることを禁じられていた部屋の扉を蹴破るようにして開けた。
 暗い部屋の両側を占める本棚をルーは奇妙に思った。
 レイテはルーがいつでも好きなときに本を読めるようにと、城にある全ての本を書庫に収納していた。自分の部屋にさえ、本を持ち込まないレイテが……。
 ルーは書棚に駆け寄って、そこに並んだ背表紙の文字を読んだ。
「…………【死の魔法書】」
 別の背表紙を見やると、似たようなタイトルばかりが目に付く。
「……先生」
 ルーはレイテがこの部屋に入ることを自分に禁じたのか、わかった。
 知られたくなかったのだろう。こんなにも死にたがっている自分を。
 いつだって、そんなことを感じさせない彼だったから。一千年を生きた苦しみも孤独も、具体的に見せたことがなかった彼だから。
 …………でも、本当はこんなにも弱い。
「何だよ」
 ルーは握り締めた拳を書棚にぶつけた。
「寂しいなら、寂しいって言えば、よかったじゃないかっ!」
 一人でいることが苦痛なら、自分が側にいてやるのに。いつだって、側にいるのに。どんなことがあったって。
 ルーは自分を温かく包んでくれていた、優しい温もりの消失を知る。
 風が強くて眠れない夜、優しく握ってくれた手の。
 レイテに対して覚えた、怒りや悲しみ、寂しさに喜びといった、それらルーという自分を形成する感情を教えてくれたその存在が……。
 もう手の届かないと遠いところに消えていく。ルーはその事実に混乱した。
 自分は、彼なしに生きていけるのだろうか?
 混乱した頭を冷やして考える。
 でも、答えを見つけるより、レイテが死ぬという事実に、ただ震えるだけの自分しか見つけられない。
(駄目だ。俺は一人でなんか生きられない。そりゃ、出て行こうと思っていたけどっ!)
 だけど、何かあれば帰るその場所があったから、出て行こうと決心できたのだと思う。帰れる場所があったから、外へ出て行くことを考えた。
 帰る場所がなかったら、とてもじゃないが怖くて、外の世界になんて出て行けない。何も知らないんだ、自分は。
(あの人がいたから……俺は)
 ルーは情けない、自分の弱さを見つけた。そして、そんな自分を支えてくれたレイテが自分の中に占めるその割合の大きさを。
「……まだっ!」
 ルーは遅れてやってきたセラの腕を掴む。
「何っ?」
「力を貸してくれ。アンタは先生が移動魔法を行うところを見ていたんだろう?」
「え……ええ、そうだけど。それが?」
「俺に教えてくれ」
「教えるって、できるの?」
「これでも一応は先生の弟子だ。魔法もそれなりに使える」
 ……能力の制御はままならないけれど、とルーは心の中で舌を出した。
 それを言えば、いかに素人のセラにもルーがやろうとする魔法の危険性が知れるだろう。そしたら、彼女の手助けは期待できなくなる。
「教えて、あなたはどうするつもりなの? レイテ様のところへ行って、何をするつもり?」
「ぶん殴ってやる」
 拳を作ったルーをセラは得体が知れないものを見るような顔つきになった。
「何よ、それ」
「わからせてやるんだよ。死んじゃいけないってことを」
「…………」
「だって、俺はまだ何も言っていないんだ。育ててくれた感謝の言葉も、何も」
 大事な言葉を伝えていない。
 この心を伝えていない。
 彼が死ぬとわかって、こんなに荒れている心を。
(……亡くしたくはないんだよ)
「だから、俺は行く」
 能力の制御ができないのに、移動魔法という高等魔法を使うことがどれだけ危険なことだと知っていても。
「あの人が死ぬんなら、俺も死ぬ。先生の側で」
「何言っているの? レイテ様はそんなことお望みじゃないわ。あなたには幸せになってほしい、そう思われたから、この城を譲渡されたんでしょう?」
「かもしれない。多分、そうだろう」
(……嘘つき)
 いつだって馬鹿だって貶して、イジメていたくせに。
 その心の裏では、痛いほどの愛情があった。
 魔法を教えてくれたのは、いつか役に立つはずだと信じたから。
 城を出て行けと言ったのは、自分の寂しさに付き合わせたくなかったからだろう。
 幸せに、そう願ってくれたから、彼は自分を手放すことを決意した。こんな陰気な城で過ごすことの苦痛を、彼は誰よりも知っていたから。
「でも、俺はあの人がいたから生きられたんだ」
 ルーは言葉にして、改めて確信した。
 自分の心に。疑いようのない想いに。
「だから、まだ死なせない。俺はあの人と生きたいから、だから、先生を連れ戻す」
「……自信あるの? レイテ様は相当の覚悟があったからこそ、あなたにあんな伝言を残したと思うわ。それを覆すだけの自信はあるの?」
 セラが静かに問う。ルーはニヤリと笑った。
「大丈夫。あの人は俺をむざむざ殺させるもんか。でなきゃどこの馬の骨ともわからん奴を十七年も育てたりしないよ」
 自信たっぷりのルーの物言いに、セラは呆れたように息を吐いて笑った。
「……わかったわ、協力してあげる。私だってレイテ様に死なれるのは嫌だわ。あの方は街の恩人になるお方ですもの」
 ルーは頷いて笑った。

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