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 10,終わらない絆


 …………ルー?
 レイテは思わず振り返っていた。ルーの、鈴を鳴らすような声が聞こえた気がしたのだ。
 ……そんなはずはないのに。
 ため息を吐いて、再び道を急ごうとしたとき、レイテは背中から抱きとめられた。
「……捕まえた」
 背後で安堵の吐息と共に、懐かしい声が聞こえた。まだ数時間と経っていないのに。
「ルー?」
 見返ったそこに、赤い瞳があった。
 初めて見たときから、宝石のようにきらきらと輝くルビー色の瞳。同時に血のようだとも思った。小さな小さな命の結晶。生きている証。
「君、どうしてここにいるのです?」
「追いかけてきたんです。先生を」
「どうして……。雪竜退治は遊びじゃないのですよ?」
「先生、死ぬつもりでしょう。ドラゴン種族の呪いを受けて」
 真っ直ぐに見上げてくるルーの視線から、レイテは瞳を逸らした。
「やっぱり」
 目を逸らすのは後ろめたいことがあるからだ。
 ルーはレイテの身体に回した腕に力を込めた。
「そんなこと、絶対に許さない。死ぬなんて」
「ルー、僕は」
「先生の孤独はわかります。だけど、死ぬこととは別です」
「……別?」
「先生は今まで俺に出て行けと言っていた。それは俺のことを考えてくれてのことでしょう? だから、俺も出て行こうと思っていた。でも、先生が寂しいのなら、一人になるのが嫌なら、俺は出て行かないよ。先生の側にいる」
「何を言い出すのです、君はっ!」
 レイテは怒声を発した。
 色々考えて、結論を出したことをあっさりと翻されては、レイテとしては黙ってはいられない。
 手放す辛さも一人になる怖さも、全て我慢して決断した。幸せになってほしい、と願ったから。
 それに……。
(ルーはわかっていない。僕は老いて死んでいくことはないけれど、ルーは時を迎えれば死に逝く。僕一人を残して……)
 だから、手放そうと思った。目の前で愛しい人が死ぬのを見るのは嫌だったから。
 それに、束縛したくはなかったのだ。ルーにはルーの人生がある。外の世界に出れば、沢山の選択肢がルーの前には広がっている。
 あの陰気な城内で、人の世と隔絶されて暮らしている自分なんかのために、明るい未来が広がっているその一生を台無しにはしてほしくなかった。
 約束の時間が来ないことを願いながら、手放すことを決意した。
(本当はずっと側に置いておきたかったけれど……)
 人として幸せになってほしかったから。
(それなのに……)
「心が伝わってくる……」
 レイテの背中に張り付いたルーがポツリと呟いた。
「先生の心の声が聞こえた」
 レイテは思わず口を覆った。動揺していたとはいえ、無意識で伝心魔法を使ってしまうなど。
「先生、俺……」
 ルーが束縛する二本の腕を緩めたので、レイテは振り返った。
「俺、先生が好きです。だから、先生が死ぬなら俺も死にます」
「ルー、言葉の意味をちゃんと理解しないで語るのはおよしなさい」
「わかっているよ、先生。だから、俺は生きたい。先生と一緒に!」
 ルーは真っ直ぐにこちらの瞳を見上げてくる。
「でも、ルー。僕は生き過ぎた。もうそろそろ、解放されてもいい、そう思いませんか?」
 一千年の時を生きてきた。ときには他者と関わって生きてきたけれど、いつだって彼らは自分を置いて死んでいった。それを繰り返すのは辛いのだ。
 特にルーは小さな赤ん坊だったときから、この手で育ててきた。自分の子供のように愛しんできた。そのルーの死を見取るのは辛い。
 置いて逝かれて、一人になる。待っていたところで迎えに来てくれる人はいない。ずっとずっと待ち続けたところで、何も変わらない。
 この心臓に刻まれた魔法陣は、レイテの肉体を永遠に生かし続ける。様々な魔法実験で、この呪いとも言える魔法を消去しようとしたが、叶わない。
 彼らが施した魔法。魔力自体はレイテのほうが優れていた。しかし、二人の力が合わさって複雑に組み込まれた魔法文字は、ナイフの傷すら受け付けない。
 肉体を殺せないのなら、ドラゴン種の呪いを受けて、内側から死ねればと思った。こんな機会はそうそうあるものではない。
「……許してください、ルー。僕はもう死にたいのです」


 レイテが自殺を望み、口にする言葉にルーは首を横に振った。
「そんなの駄目ですってば!」
 必死に訴える。どうすれば彼を説得できるのか、わからないまま。
「ルー……」
 ふわりと、レイテの手の平がルーの頬を包んだ。普段は冷たいその手が、雪竜の影響のせいで凍えるような風を遮って、優しい温もりをくれた。ルーは思わず涙ぐむ。
 彼の苦しみもわからないではない。想像できない年月の中で、ただ一人置いていかれる辛さも孤独も……わかる。
 自らの死を望んでしまうほどの痛み。
(だって、この人が死んだら俺自身がそうなるから)
 誰もいなくなったあの城で、彼をなくして、置いていかれた悲しみに。
「ルー、君は孤独になるのではなく、自由になるのですよ。外に出て色々な人と出会ってごらんなさい。僕のことなど、忘れてしまいますから。君は普通の人間だから、普通の人の中で生きることはそう難しくないはずです」
 レイテには、普通に生きるということは無理だろう。彼の変わらない容貌が、周りの人間に不安を与える。魔法の存在がまだ常識としてありえたのなら、まだ、すんなりと溶け込めただろう。でも、もうそんな時代はとっくに終えてしまった。
 生贄を捧げられるほどに、恐怖に染められた異質の存在。世間でのレイテの実情を知ったルーには、レイテの語る言葉は理解できた。
 ……けれど。
「僕にはできないけれど、君は沢山の人たちと一緒に生きていける。そうやって生きていれば、君にとって大事な人が現れる。君と同じ時を生きて、老いていくことができる人がきっと現れるから」
「そんな人、出会えませんよっ!」
 ルーは、レイテを睨み付けた。
「だって、もう遅いんだ。この気持ちに気付いてしまったんだから。この気持ちを無視して、他の誰かを大切に思うことなんてできるわけがない」
「…………ルー」
「この気持ちを無視するってことは、自分に嘘をつくことだ。俺は嘘が大っ嫌いなんです。それは先生だって知っているでしょう?」
 激情でまくし立てたルーは、ハアハアと肩で息をしながら、続けた。
「自分に嘘をついて誰かを大事に思ったって、それは結局、嘘でしかないんだ。そんなんじゃ幸せになんてなれない。だったら、俺はここで死にますよ。先生がいない世界で生きていたってしょうがないんだっ!」
 ルーは頬に置かれたレイテの手を振り払った。
「ルーっ!」
「先生、先生は俺にとって世界の全てなんですよ? だって俺はあの城の中で、あなたとだけ言葉を交わした。あなたとだけ心を交わした。先生だけなんです。俺の十七年間に存在する人は。その先生が死ぬってことは、俺の世界が終わるってことなんです。死ぬってことなんです。死んだ世界では生きていけない。だったら、俺も死にます」
「……ルー」
「先生が死ぬことを決意して俺が止められないのなら、先生も俺が死ぬのを止める権利なんてないですからっ!」
「ルー、どうしたら……」
 レイテが、ルーに問いかけてきた。
 幸せになってほしいと願うからこそ、手放すことを決意したのに――そう囁く、彼の水色の瞳を、ルーは見上げる。
「どうしたらなんて、俺にもわかりませんよ。ただ、先生がいなくなるのが辛い。怖かった。一人にされるのが。それに気付いたらわかったんだ。先生が好きだってこと」
「僕もルーのことが好きですよ。だけど、僕と君とでは生きる時間が違う。いつか、君は僕を置いていく。僕はそれが怖いのです」
 もう置いていかれるのは嫌だから――そう、伏せる水色の瞳。彼の視界からはじき出されるのを恐れて、ルーは叫んだ。
「じゃあ、俺も死なせてくださいよ。それならいいでしょう?」


「ルー……」
 自らの死を求める弟子に、レイテは喉の奥にどうしようもない、苦さを覚えた。
 どうして、この子は死を求めるのか。
 終わることのない生を生き続ける自分とは違い、人として、確実に終わる運命を背負いながら。
 まだ、十七年しか生きていないのに。
「先生がいない世界に生きていたってしょうがない。だったら俺も先生と一緒に死ぬ」
「僕は君に幸せになってほしいのですよ?」
「だったら、一緒に生きてよっ!」
 ルーの言葉がレイテの心に突き刺さった。そして、唐突に過去を思い出す。
「人間って……どこまで同じ過ちを繰り返すのでしょうね」
 微かに苦笑したレイテを、ルーは戸惑いの瞳で見上げてきた。
「先生?」
「一千年の昔、二人の魔法使いは死の病におかされた我が子に、生きてほしいと願いを込めて、子供の……子供といっても青年ですが……その心臓に不死の魔法陣を刻みました」
 レイテは前置きもなしに語りだす。
「二人の魔力が込められたその魔法陣は死の淵から子供を蘇らせましたが、子の両親は大きな魔法の負担に命を削り死にました」
「先生、それって……」
 ルーが問いかけるとレイテは頷いた。
 それは不死の魔法使いレイテ・アンドリューの誕生秘話である。
「生き残った子供は、両親の葬儀の際、こう叫びました。一人取り残されるくらいならいっそ死んだほうがよかった、と」
 レイテの水色の瞳が真っ直ぐにルーを見つめる。ルーはその視線を真正面に受け止めた。
「親は親で子供の幸せを願いました。そして、一番いいと思える方法を選んだのです。しかし、子供にはそれは最悪の結果を招いてしまった。……では、親はどうすればよかったのでしょう?」
「俺にもわかりませんよ。でも、俺は先生と生きたいよ。もっともっと先生から教えてもらいたいことが色々あるから」
「だけど、ルー。君はいつか死んで逝く。僕を置いて。そのときの僕の気持ちはどうなるのでしょう?」
「それだったら俺も同じだよ。先生が死んで俺が取り残されても、先生は俺が悲しまないと思っているんですか?」
「お互いの幸せのためには、どうすることが一番いいのでしょうか?」
「俺は先生と生きたいよ。そりゃ、俺は死んでしまうけど……」
 レイテはルーを無言で見つめた。
「でも、また帰ってくるよ」
「また?」
 返ってきた意外な答えに、レイテは目を丸くする。


「輪廻転生。生まれ変わって、先生を見つける。そして、ずっと側にいる」
 ルーは何かの本で読んだ、その言葉を口にした。
 人は死んだ後、また生まれ変わるのだという。真偽のほどは知らないし、それは奇跡に近いことを知っている。なぜなら、転生したら前世の記憶を失うという。だけど、その奇跡を実現できる、とルーは確信できた。
 ここへ来るのだって、それは奇跡だった。レイテから魔法の基礎は教えてもらっていたが、まだ魔力を魔法に転化する段階で、魔法を実行するには未熟だった。その身で移動魔法のような高等魔法を使うなど、無謀の極致だ。普通、ルーの魔力レベルでは空間に道を作れても次元の狭間で立ち往生するのが通例だ。
 レイテから身にそぐわない魔法は使うなと禁じられている。伝心魔法を使うのをことごとく注意されるのは、魔力の制御ができていないから。今はまだ、伝心魔法のように害にならない魔法だからよいものの、これが炎や氷を作り出す具現化魔法であったなら、暴走する魔力がルー自身を傷つけてしまう。
 そんな魔力の制御もままならない自分が今、レイテの前にいる。それは紛れもない奇跡で現実だった。
「先生が望んでくれたら、俺はいつだって奇跡を起こすよ」
 例え、全部を忘れ去っていたとしても、きっと思い出す。そして、彼の元に帰る。どれだけの距離が二人の間にあったとしても。
「帰ってきます。先生のところに。何度でも何度でも」
 ルーの言葉を受けて、レイテは微かに笑った。
 それが全てで、答えになる。
「では、行きましょうか」
「行くって、どこに?」
「勿論、雪竜退治です」
「…………本気ですか?」
「セラに約束しましたからね。ルーは嘘をつく人間は嫌いでしょう?」
「……嫌いですけど」
 ルーは歩き出したレイテの背中に疑るような、探るような視線を投げる。それに気付いたのか、
「安心してください。僕はもう、弱音を吐いたりしませんから」
 レイテはルーに向かって、覚悟を告げた。


 ルーの奇跡を信じてみよう、と思った。
 それが裏切られるかもしれなくても、それを支えにもう暫く生きていける。そう思えたから。
 未来を信じることで、ルーを亡くしても耐えられると思った。
 いつか帰ってくる、と言ったルーの言葉に、その未来が来ることを願う、その未来を見つめられる自分を見つけたから。
 ……もう暫く生きていよう、とレイテは思うのだ。そう、ここにいるルーと過ごせる今を。
 それは奇跡だった。生きることに絶望していたレイテに、ルーが起こした奇跡。
 生きる希望をルーはくれた。そんなルーだから、信じてみようとレイテは思った。
 悲しい死の先にある未来を。
「ホラホラ、行きますよ。置いていっていいのですか?」
 ボーッと突っ立ったままのルーを振り返り、レイテは白い手を差し伸べた。


 ルーは目の前に差し伸べられたその手を掴む。
 拒絶はない。むしろ、そこに握られた手の感触を確かめているようだった。
 レイテの手を握り返して、二度とこの手を放すまいと、ルーは心に誓った。

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