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 12,決戦の場


 山の中腹に洞窟があった。その入り口からよりいっそう、身を凍えさせる冷気が流れてくる。レイテに貸して貰ったセーターの温もりも今は消えうせ、鼻水が止まらないルーだった。
「ずぇぜんぜい」
「洟をかみなさい、洟を。まったく、君も魔法使いの端くれなのですから、自分で何とかしなさいよ。……しょうがないですねぇ」
 レイテは口でブツブツと言いながら、ルーの額に指先で触れた。途端に、皮膚の一枚上といったところで冷気が遮断されたのを、ルーは実感した。
「帰ったら暖かいスープを作ってあげます。だから、もう少し辛抱していてください。行きましょう」
 レイテが促し、ルーはそれに従った。先頭を行くレイテは、膝まで積もった雪を杖で払う。杖が触れた先から雪は静かに溶けていった。
 奥に近づけば近づくだけ、洞窟内を振動させる音がする。それが雪竜の呼吸音だと知って、ルーは目を丸くした。
 お腹に響いてくる振動が、雪竜の無意識に行っている呼吸音なら、故意に放つ氷の息はどれだけの災害を引き起こすのだろう? とても想像できたものではない。
 思わずしり込みするルーを前に、レイテは立ちふさがる雪を払う。
 そうして、溶けた雪の間に人の顔を見つけて立ち止まる。氷付けになった人間は地を這う形で固まっていた。
「先生……この人」
「討伐隊の人でしょうね。命からがら逃げ出してきたけれど、ここで力尽きてしまったのでしょう」
「…………」
「今は先を急ぎましょう。ルー、結界魔法の魔法陣は記憶していますね?」
「あ、はい。多分……」
 自信のないルーの返事に、レイテは片眉を吊り上げた。
「……君が持っている杖を貸しなさい」
 ルーが持ってきた杖をぶんどったレイテは、赤い石に指で文字を書く。
「これで君の周りは絶対安全です。その杖は放してはいけませんよ?」
「はい」
 足手まといになってレイテの身に危険が及ぶようであれば、何のために彼を追いかけてきたのか。それがわかっているだけにルーは、神妙な面持ちで頷いた。
「大丈夫ですよ」
 さらりと笑って、レイテは洞窟のさらに奥へと進んだ。
 段々と、地下にもぐっていくような下り坂の、行き詰ったところは大きく開けていた。レイテの城が丸々納まるような広さ──これはルーが思ったことだが、実際のところはルー自身にもわからない。
 ルーはレイテの城を外から見たことがない。内側からの広さは、レイテが魔法で作り出した牧場や菜園を含めれば城の窓から見下ろしたガーデンの街の半分の広さはあるのだから。ルーの受け取った感じでは魔法空間を除外した城が丸々といったところが、適切か。
 それにしても……とルーは呆気にとられる。これだけの空間があって山を支えていられるのだろうか? この空間も魔法で作られたものか、支えられているのか。ドラゴン種は人間と同じような魔力を持つとレイテが言っていたし。
 その空間の入り口でレイテが立ち止まる。何事かと思ったところを、ルーの視界が真っ白に染まった。
 耳元を轟音が駆け抜ける。
 前に立ったレイテのローブが激しくはためいて広がる。それがそっと収まると二人の周囲一部を──レイテが瞬時に組み上げ施した結界部分──除いて腰までの雪が積もっていた。
 レイテは杖を前に突き出した格好から、地面に杖を突いた。熱風が立ち上がり、辺りの雪を瞬時にとかす。
 そして、レイテは顔を上げた。その視線の先には白い巨大な竜がいた。
 本で見た姿は、コウモリのような羽を持つトカゲといった感じだったが、その堂々たる体躯はとてもじゃないがトカゲなどとは比べ物にもならない。
「ルーはここで見ていなさい」
 レイテは前を見据えたまま言った。硬質な声に彼の緊張を知る。ルーは杖をしっかりと握りなおした。
「《壁よ、聖域を作れ》」
 レイテが呪文を唱えると、ルーの周りの空気が確実に変わる。目には見えないが、レイテの魔力が強固な壁を作っている。レイテはそれを確認して、雪竜の前に歩みを進めた。
 竜は首を巡らせて、侵入者を冬の夜に冴え冴えと輝く蒼い月のような瞳で一瞥した。
「何者か? ここを我の領域と知って侵したのか、否か?」
 雪竜が問いかける。
 レイテは真っ直ぐに蒼い瞳を見上げた。彼の身長の三倍から四倍はあろうかという威圧感しか感じない竜に淡々と告げた。
「お初にお目にかかります。僕はレイテ・アンドリュー、魔法使いをしているものです」
「ほう、まだあの秘術を使うものがおったのか。それで、何か? 昔のごとく、我らを退治せんとノコノコ現れたと言うのか」
 轟々と、雪竜が声を発するたびに洞窟内が振動し、雪が舞い散る。
「交渉の余地がありますのならば、僕は力を行使するつもりはありません」
 銀色の髪を風になびかせながら、レイテは揺るぎのない眼差しで雪竜から目を逸らさない。
「人間風情に何を聞けと」
「あなたのその冷気が一つの街を死滅させようとしています。慈悲の心がおありならば、どうか、この地を離れて頂けないでしょうか」
「笑止。何故、人間風情に我が動かねばならん? 滅びを厭うなら、抗うがいい。その身に剣を携えて。ほら、そこに転がる屍のように」
 蒼い瞳が見回した先には、氷付けにされた人間の像。人の形を止めているものはなく、全てが氷付けにされた後、砕かれている。
「……死にますよ、あなた」
「今の世に生きる魔法使いに何ができる?」
「確かに、今の世に生まれた魔法使いなら、昔のようにあなた方に立ち向かう術を知らないでしょうが。僕は違います」
「どう違うと言うのだ?」
 雪竜は問いかけると同時に冷気の息を吐いた。レイテは杖をかざし、それを受け止めた。
 レイテの前で冷気は分断される。洞窟内を白く凍えさせる冷気はレイテの前ではただのそよ風でしかなった。
「聞く耳を持たぬあなたはその身で知りなさい」
 そう、言い切ると同時にレイテの持つ杖から幾つもの、火の玉が放出された。それは弧を描いて、四方八方から雪竜に襲い掛かる。
 雪竜は僅かに羽を揺らした。白い巨体から立ち上る冷気が魔法の火を相殺する。
「この程度の能力で」
 雪竜は再度、大きく羽を揺らした。震える大気中に両腕で抱えてもまだ余りそうな程太い氷柱が現れた。それがレイテめがけて落ちてくる。
 レイテは水色の瞳にそれを捉えると、杖を一閃させた。風の刃が氷柱を細かく裁断する。降り注ぐ氷の礫はレイテの周りに築かれた結界魔法で全て弾かれた。
 雪竜が尻尾を持ち上げ、レイテへと振り下ろす。
 レイテはただの魔法使いとは思えない身のこなしで後方へと逃れる。と、地面を蹴って飛び上がった。魔法陣を頭の中で構成して、その身を雪竜の頭上まで待ち上げると、落下し雪竜の蒼い瞳に杖を突き立てる。
「ぐっぉををを!」
 もだえる雪竜の叫びが冷気の塊となって洞窟内を飛び回る。その一つがレイテを襲った。着地したそこに直撃して、一帯は雪で白く煙った。
「先生っ?」
 今の感じでは魔法で受け止めた様子は見受けられなかった。まさか。息を呑むルーの側で声がした。
「僕は大丈夫ですよ」
 振り返れば、レイテがいた。
 多少、雪を被っているようだが、それだけだ。あの場から移動魔法で飛んだのか。たった一瞬、杖もなしに?
「先生……杖が」
 雪竜の目に杖を突き刺してしまったレイテは、今は手ぶらだった。ルーにはその姿が心もとなく映る。
 しかし、ルーの心配など切り捨てるように彼は言った。
「杖なんて僕には必要ありません。元々、あれはセラに見せ付けるためで、僕は杖なんてなくても魔法陣を瞬時に構成できますし、本当は呪文なしに時間差発動もできるのですよ」
「……え? どういうこと? 見せ付けるって……」
「だって、いきなり目の前から人間が消えうせたら、ビックリしてしまうでしょう? 呪文も同じです。目に見えない壁を信じろと言われて、簡単にその言葉を受け入れられはしないでしょう」
「…………杖、要らないんですか?」
「僕が偉大な魔法使いと呼ばれている所以は、一介の魔法使いのように杖に頼らないからです」
「単に長生きしているからだと」
 ルーの額にレイテの指が伸びてきて、爪でおでこを弾いた。これが、けっこう痛い。
「僕への認識を改めなさい」
「……はい」
 小さく縮こまって頷くルーに、レイテは笑って、再び雪竜の前に歩み出た。
「おのれっ!」
 隻眼にレイテの姿を捉えた雪竜はゴウッと咆えた。
 洞窟だけではなく、山全体を振動させるようなそれに、ルーは思わず尻餅をついた。もしや、これが死の咆哮か? 確かに魂を砕かれるような感じがする。ルーは命綱を握るように杖を握った。
「おあいにく。呪いは効きません。あなたの魔力は封じさせてもらいましたから」
 レイテはそう言うと、左手の手の平に指で右手の指で魔法陣を書き記す。そして、その左手の平を地面に叩きつけると、雪竜の周りを炎の柱が立ち上がった。
 五本の炎の柱が地面から洞窟の天井まで。それは檻となって雪竜を閉じ込める。
「まだ、交渉はできますか?」
 ジリジリと白い巨体を焦がす炎に身動きができない雪竜を前に、レイテが問う。
「あなたがその身を引いてくださるのであれば、解放しましょう。否なら、ここで死んでもらいます」
 静かにレイテは問い、再び魔法陣を左手に書き記す。本当は瞬殺することなど、たやすい。だが、話し合う余地をなくして争うのは、人間同士の愚かな戦争と同じだ。
 世界は広い。雪竜のその翼があれば、人の立ち入らぬ地へ行き静かに暮らせるはずだ。共存はできないものか? そう願いを込めて時間を稼ぐレイテに、雪竜は告げた。
「人間相手に臆する我ではないわっ!」
 雪竜は強引に炎の柱に白い巨体をぶつけた。焦がれる身体は包囲を突き破って、レイテの前に躍り出た。
 大きな口を覗かせ、氷柱のような牙でレイテに噛み付く。レイテは雪竜の鼻先が身に迫る寸前に左手を突き出した。
「《火の海に、沈め》」
 唱えた呪文のままに辺りは一面、火の海となる。荒れ狂う波のごとく、立ち上がる炎が雪竜の身体を押し包んで飲み込む。
 一呼吸の間を置いて、やがて炎は消えた。洞窟内の全ての雪が溶かされ、雪竜は真っ黒に焼け焦げた身体を地面に横たえ、瀕死の吐息に喘いでいる。
「……今一度、問います。交渉は可能ですか?」
 雪竜の鼻先に身を屈めて、レイテは竜の蒼い瞳を覗いた。
 雪竜は抵抗するように息を吐いた。
 ヒラリと舞い散る雪の欠片。
 力尽きても、人に頭を垂れる生物ではないことをレイテは知っていた。だから、長い間、ドラゴン種と人は争ってきたのだ。
「申し訳ありません。あなたの命を奪う罪を、僕は僕自身の命でもって贖うべきなのでしょう。ですが、それはできません。僕は大切な人と約束してしまった。……生きると」
 そっとレイテは雪竜に触れた。
「今の僕にできる償いです。満足して頂けるとは思いませんけれど……」
 レイテは魔法陣を書き記す。それは死の魔法。苦しまずに死に逝く、自分自身のために学んだ魔法だったが……。
「《安らかに、眠れ》」
 雪竜は蒼い瞳を閉じた。それは二度と見開かれることはないだろう。レイテは竜の死体を前に、黙祷した。


「…………先生、終わったんですか?」
 杖にしがみ付くような格好で、ルーはレイテの元へそろそろと近づいた。
 肩越しに振り返って頷くレイテに、ルーは少し拍子抜けした。
 ドラゴンは手強いと繰り返していたレイテだったから、もっと苦戦するのではないかと思っていたからだ。
 レイテ自身は、純白のローブを少し汚しただけで、傷一つない。魔力の消費による疲労も垣間見えない。無敵か、この人は。
「ドラゴンが怖いのは、何故だと思いますか?」
 ルーの心を見透かしたように、レイテが唇の端を緩めて問いかけてきた。
「死の咆哮ですか?」
「ドラゴンが持つ魔力が厄介なのです。それは僕らの魔法を相殺してしまう力を持つ。でもね、それさえ封じてしまえば、氷の息も尻尾での攻撃も、見極めて簡単に避けられます」
 そうレイテは言うが、あの迫力のある巨体を前に、冷静に行動できる者などそう多くないだろう、とルーは思う。
「つまり、魔力を封じてしまえば、敵ではないと?」
「はい。もっとも、ドラゴンの魔力を封じるとなれば、複雑な文字を二重三重に組み込む魔法陣を構成しなくてはなりません。そこに込める魔力もね。だから、魔法使いといっても誰にでもできるわけではないのですが、僕は偉大なる魔法使いですから」
 さらりと自分の強さを強調するレイテに、ルーはハアッと息を吐いた。
「俺……心配していたんですよ。先生が大丈夫って言っても、何が起こるかわからないから」
「それは要らぬ心配をかけましたね」
「……だって、セラに失敗したらって言っていたでしょ? 先生のことだから自分が呪いを受けるつもりでも、そのまま雪竜を見逃すはずはない。相打ち覚悟だったわけですよね? でも、こんなに簡単に倒せた。……先生が心配していた失敗って何だったんですか?」
「それはあれですね。上手く呪いを受けられるかと」
 素で答えるレイテに、ルーは顔を引きつらせた。
「先生っ! もしかして、セラに自分が関わったことを内密にするようにって言ったのは、もしかして簡単にドラゴンを倒してしまう可能性があったからですか?」
「……というよりは、ドラゴンの呪いを受けて死ねるという保証がなかったからですね。それでドラゴン殺しの異名を得て、生贄と引き換えにドラゴン退治を持ち込まれるようになったら困るでしょう?」
「あ、あのですねー」
 ルーはガックリとうなだれた。レイテと話していると心配していた自分が損していた気になる。そもそも、この人が呪いなんぞで、くたばるのか?
(心配する必要なんて、なかったのかもしれない)
 待っていたら、ケロリとした顔で城に帰ってきたのではないだろうか、とルーは思う。ありえない未来ではなさそうだ。
 しかし、それでも心配してしまうのは、レイテの気持ちがまた自らの死を望む方向へ揺らいでしまうのではないかと。
「先生。……今でも死にたいですか?」
 ルーは尋ねた。答えを聞くのは怖かったが、気持ちより先に口が動いていた。レイテは横目でルーを見やり、傍らに横たわる竜の死体を眺めた。
「……結果はどうであれ、今回の一件は僕にとって良いことだったと思います」
 レイテは一言一言を確かめるように語る。
「長い間、死を望んでいましたからね。もう死を望むことしかできないと思っていたのです。でも、今回のことがあって僕は自ら意志で生きようと思いました。死ぬことだけしか考えられなかった僕が、生を選んだのです」
「…………」
「それで答えになりませんか?」
 振り返ったレイテにルーは泣き出しそうな顔で笑った。
「十分に、答えになります」
 もう心配は要らないのだと、ルーは確信する。ここに生きることをレイテが自ら選んだのだから。

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