14,後日談 ピクルルちゃん失踪事件 「先生、大変ですっ!」 書庫で本を読んでいたレイテの前に、駆け込んできたルーを見やって、彼は言った。 「僕から言わせて貰えば、君のほうが大変です。何なのですか、その格好は」 赤毛頭にクモの巣を被って、顔や半ズボンからむき出しの膝はススだらけ。暖炉の掃除でもしてきたのか? と疑うような汚れようだ。 ズズズイっと迫ってくるルーに、レイテはスススイっと身を引いた。純白のローブを汚されたらたまらない。 「どうしよう、先生」 「僕のほうが、どうしようですよ……」 突然、滂沱の涙を流し始めたルーにレイテは混乱する。 今まで散々、殴られ、けなされ、叩かれてもへこたれることのなかったルーが泣いているのである。 泣かすような何かをしたか、とレイテは日頃の己の行いを省みる。 昨日、具現化魔法を失敗させたルーを叱らなかったのか? と問われれば、叱った。かなり。 (ですが、それはルーのためを思って) 一昨日、ルーに迫られて昔話をしてやった。結構、怖い話で、ルーはその晩一人で眠れないとレイテのところに枕を抱えてやって来た。そんなルーを優しくなだめてやったのか? と問われれば、部屋の中に入れてやりもしなかった。 (その前の晩、新しく手に入れた本を読むのに徹夜していて。だから、ゆっくり休みたかったのですよ。ルーの寝相は悪いから……) 誰に問われたわけでもないのだが、レイテは心の中でそう言い訳を並べる。 「どうじよう〜」 わけがわからない。とりあえず、鼻水を垂らし始めたルーにレイテはハンカチを差し出す。 これが十七歳になる女の子とは、悲しすぎる気がするのは自分の気のせいだろうか? レイテはそっと息を吐いた。 「とりあえず、洟をかんで。泣き止みなさい。一体、何があったのですか?」 「ピクルルちゃんがいません」 「…………ぴ、ぴく……何ですって?」 「ピクルルちゃんですよ、ピクルルちゃんっ!」 そんなに力説されても、わからないものはわからない。 「ピクルルとは何です?」 「ピクルルちゃん、です。先生」 「……そのピクルルちゃん……とは?」 「忘れちゃったんですか? この前、先生と行った街のお祭りの屋台で買った、白トカゲですよ」 ルーに言われて、レイテは思い出した。 先月、レイテがよく出入りしている街フラリスの新年祭に──勿論、正体は隠して──ルーと二人で出かけていった。 そこの屋台の店頭で、珍しい白トカゲなるものが売られていた。 人間の片腕ぐらいの太さ。大トカゲと呼ばれる種類だろう。突然変異したらしい白い鱗のトカゲが金貨十枚の値段で売られていた。 余程の好事家でもなければトカゲ一匹に金貨十枚も出して買う馬鹿などいないでしょうに、と素通りしたレイテの後ろでルーが、何だか雪竜みたいですね、と言うから、昨年の夏にレイテは自分が殺してしまったドラゴンへの罪悪感をひしひしと思い出して、その白トカゲを買ってしまった。 しかし、トカゲなどわざわざ世話して飼うことはないと、城の菜園に野放しにした。あそこなら、ミミズなども生息しているし、昆虫も多くはないがいる。自足できるはずたが。 「ピクルルちゃん? あのトカゲにそんな名前をつけたのですか?」 「可愛いでしょう?」 「……僕には君のネーミングセンスが痛いです」 「じゃあ、先生ならどんな名前をつけるんです?」 「……そうですね。スノー・ドラゴンとか?」 「そのまんまです。なんの捻りもないじゃないですか」 「…………捻る必要なんてないでしょう?」 たかが、名前ではないか、とレイテは思う。 「考えてみてくださいよ。先生は自分に白人間なんて名前がつけられたら、どんな気持ちがしますか?」 「白……」 銀髪に雪のような白い肌。それに純白のローブをまとっているレイテは上から下まで、言われてみれば全身白尽くめだ。 「な、なるほど……」 幾ら、そのままとはいえ、白人間は酷い。そんなこと言われてしまったら、ちょっとめげそう……などと、妙に納得されかけている自分にレイテは気付いた。 「とにかく、そのトカゲがいなくなったのですか?」 「ピクルルちゃんです」 くどい、と思いながらも、レイテはルーに調子を合わせた。泣いているルーをどう扱ってよいのやら、迷う。 「はいはい、ピクルルね。ピクルル」 「ピクルルちゃん、ですってば」 「トカゲ相手に一々、敬称など必要ないでしょう?」 「先生がそう言うと思ったから、つけたんです。ピクルルちゃんって」 「……つまり、ちゃん、までが名前なのですか?」 「はいっ!」 目を丸くするレイテに、ルーはようやく笑顔を見せた。一本、取った気でいるのだろう。 弟子にその実、根性腐れと称される偉大な魔法使いは心の内、何となく面白くなくて、弟子の顔に浮かんだ笑顔を黙殺した。 「それで? ピクルルちゃんがいなくなったと、君は言いますけどね。あの菜園内を隅から隅まで探したわけじゃないでしょう?」 「先生、ピクルルちゃんは菜園でいなくなったわけじゃありません」 「は?」 「菜園にいたのを捕まえて、台所に連れて行ったんです」 「……台所? なんでまた」 「昨日はピクルルちゃんが、うちに来て三十日目のお祝いの日ですから、美味しいスープをご馳走してあげようと思いまして」 ……バカップルじゃあるまいし、と喉まで出かかった言葉を、レイテはギリギリで止めた。 ルーの真面目な顔つきを見れば、かなり本気の様子。 (世間一般の常識を学ばせようと……買ってきた本が間違っていたのでしょうね) 巷で流行っている恋愛小説やら探偵小説などを大量に買い込んだのは他ならぬレイテだった。ルーに自分が女子であることを心がけてもらおうと思って買ったのだが、思惑が外れっぱなしだ。 ある日、突然、今日から男になる、と言い出すような女の子であるから、と言ってしまえばそれまでなのだけれど。 「で、ちょうど先生特製のスープが煮込んであったんで」 「それを飲ませたのですか?」 台所には二日前から煮込んでいるスープがある。魔法で火を調整しつつ──ようするに、大した手間をかけているわけではない。 「飲ませてあげようと思ったんです。でも、ちゃんと出来上がったのを飲ませたかったんで、夕食まで待とうと思ったんですよ」 「それは懸命な判断ですね。あのスープは五十時間、じっくりことこと煮込むことにその美味しさの秘密があるのです」 レイテは意味もなく胸を張った。 人間を千年もやっていると、たまに違ったことをしたくなって始めた料理の腕は、まあ、自分で言うのも何なのだが、絶品だ。 「で、待っていたんです」 「蓋を開けてはいないでしょうね? せっかくの風味が逃げてしまいます。料理とはね、香りも大事なのですよ」 「そんなことしません。したら、先生、殴るじゃないですかっ!」 「殴るなど、人聞きの悪いことは言わないで、愛の鞭と言いなさい。駄目だと禁止されていることに手を出す、そちらが悪いのです。叱って当然でしょう」 「でも、普通は踵落としなんて、食らわせないと思う」 昔、美味しそうな匂いに釣られて蓋を開けてしまったルーの脳天に飛んできたのは拳骨ではなく、靴の踵だった。直ぐにレイテは魔法で治療してくれたけれど、そのとき味わった痛みは今でもクッキリと記憶に鮮明だ。以来、料理中のレイテには恐ろしくて近づけない。 「……人間、何事も修行です。殴られるとガードして見せたところで、それで守られる安全などないということを心優しい僕は実践して、教えてあげているのですよ。君を思って」 「本当ですか?」 「……本当ですとも」 「今、間が空きませんでしたか? 何だか、怪しい」 「怪しいことなどありません。人間、呼吸する生き物ですから、息継ぎのタイミングというものがあります。ちょうど息をするタイミングだったので、少し間が空いたに過ぎません」 レイテは言い訳に聞こえなくもない言葉を連ねて、ルーに向き直った。 「それで? どうして、ピクルルちゃんはいなくなってしまったのですか? 君は側についていたのでしょう?」 「それが、待っている間にうとうとしてしまって」 「君ね、昼間に寝てしまうから、夜眠れなくなるのですよ」 「先生が怖い話をするから眠れなくなるんですっ!」 「違います。眠ってしまえば、昼だろうが夜だろうが怖くはないのです。怖い夢を見たというならともかく、眠っているのだから」 「…………だって、怖いから目を瞑れないんじゃないですか。想像してみてくださいよ、目を瞑った後ろで包丁を持った男がいるとしたら、怖くて目を瞑れないでしょう?」 「僕ならば、後ろに包丁を持っている男がいるのなら、目を瞑るより先に逃げます。そんな男はいないから、目を瞑るのです。わかりませんか? 君は想像が先立って、現実を認識していません。最初に、現実を認識しなさい。そうすれば安心して目を瞑れます」 「目を瞑った後に包丁を持った男が忍び寄ってきたら?」 「大丈夫。目が覚めることなく、恐怖を味わうことなく、君は死んでいます」 「駄目じゃないですかっ!」 「君こそ、ちゃんと現実を認識しなさい。僕の城に住んでいるのは君と僕の二人なのですよ? 城の出入り口には仕掛けがしてありますから、侵入者が入ることはありえない。内側から開けない限りはね」 「じゃあ、ピクルルちゃんはどこに消えたんですか?」 いきなり、話が飛んだ。もう包丁男はいいのか? 「それは僕が聞きたいです。ちゃんと探したのですか?」 「探しました。使ってないかまどの中まで覗いて」 ススに汚れているはそういうわけか。レイテはローブの袖を捲り上げて、赤毛頭に取り付いたクモの巣を払ってやった。 「台所の外に出た可能性は?」 「ドアはちゃんと閉まっていました。幾ら、ピクルルちゃんが大トカゲだと言っても、ドアを開けてから外には出ませんよね?」 「そこまで賢い生き物なら、人間風情に捕まって売られてはいないでしょうね。じゃあ、食器棚の影は? 鍋の中とか? 排水溝は?」 「全部見ました。食器も一枚一枚取り出して見ましたし。鍋の蓋も開けて探しました。排水溝も詰まっているんじゃないかって覗いたけど、ピクルルちゃんの身体の大きさだったら、全然、入れないし」 「外に出られるような穴は……換気口ですか。そこから、外に出た可能性もありますね」 「外に逃げちゃったんですか?」 「元々、人間に飼われるような生き物ではありません。自分の尻尾を切ってでも逃げようとするものですから、仕方ないと言えば仕方がないです」 「外に出て捕まえたら駄目ですか?」 「どうしても、捕まえたいと言うのでしたら、捕まえなさい。でもね、自然に帰ろうとするものを無理矢理連れ戻してしまうのは、ピクルルちゃんにしてみればどうなのでしょうね?」 「……嫌、かな〜」 少し間を置いたルーは、ジワリと目元に涙を滲ませながら言った。 「どうして、そう思うのです?」 「俺、今さら自分の本当の両親が現れて、一緒に帰ろうなんて言われたら嫌だもの。俺にとっての自然は先生のところだし、やっぱり、先生と離されたら何が何でも先生のところに帰ると思うし」 そう言って、ルーはレイテのローブの袖の端を摘んだ。純白のローブがススに汚されてしまったが、まあ、それぐらいは大目に見よう、とレイテは珍しく寛大に思う。 「ピクルルちゃんも、きっと自然に帰りたかったんだね」 「そうですね。少し、寂しい気もしますが、ピクルルちゃんのためだと思って、ここは諦めましょう。ホラ、泣かないで」 「…………うん」 「そろそろ、スープができあがる頃合いです。夕食にしましょう。ピクルルちゃんの門出を祝ってあげましょう。ああ、その前に君はお風呂に入ってきなさい。食卓の準備は僕がしておきますから」 「はい」 頷いて風呂場へと向かうルーを見送って、レイテは台所へ向かった。 そこでレイテは五十時間煮詰めていたスープの中で、茹で上がった白トカゲのピクルルちゃんと対面を果たした。 レイテに怒られるのを覚悟して、鍋の中を覗く勇気はルーにはなかったのだろう。そりゃ、脳天に踵落しを決められたら、大抵の人間は自重するものだ。 慌てたレイテはピクルルちゃんを内密に菜園の脇に埋葬した。 そして、夕食のスープを啜り、今日はいつもよりよいダシが出ていますね、と笑顔をほころばせるルーに、レイテが顔を引きつらせたのは語るまでもない。 |