１７，偽者あらわる 「先生、大変ですっ！」 両手に鶏の卵を手にして、ルーが書庫で本を開いているレイテの元に駆け込んできた。 「君の大変っていうのは聞き飽きました。たまには違う言葉を使ってみなさい」 レイテはパタリと本を閉じて言った。 「先生、事件ですっ！」 ルーがそう言い換え、ズズズイっと詰め寄ってきた。レイテはスススイっと身を引いた。 手にした卵を、勢いで潰しかねないルーに、純白のローブが汚されたらたまらない。 「一体、何なのですか？ 頼んだ買い物はちゃんとしてきたようですけど」 レイテはルーの両手から卵を取ろうとするが、ルーは買い物どころじゃありません、と腕を振り回した。 やめてくれ、とレイテは心の中で悲鳴を上げる。 卵が割れたらどうしてくれるのだ？ 書庫に収めた魔法書の殆どは、今では手に入らない貴重な本だ。もうその内容は頭の中に入っているし、いまさら書物を開くことも少ないのだけれど。汚されるのだけは許せない。 ハラハラしている矢先、ルーの手から卵がすっぽ抜けた。レイテは慌てて魔法陣を構成した。中空に飛んだ卵を氷付けにして固める。凍った卵は天井に跳ね返ってルーの後頭部を直撃した。 「痛っ！」 前のめりに倒れる弟子を支えようと、手を伸ばしたレイテは、ルーがもう片方の手に握っていた卵をその絶世の美貌で受け止めた。 「────で？」 剣呑な表情で詰め寄るレイテに、ルーは壁際まで後退した。 風呂上り、銀髪から雫を垂らし、凍えるような水色の瞳を半眼にして、威圧的に見下してくる師匠に、弟子は恐怖のあまり笑ってしまった。 人間――危機的状況に陥ったときは、どういう反応をしてよいものかわからなくなる。現在のルーもまた、そうなのだろう。 そこに躊躇なく師匠が叩き落すのは、手刀の一撃。 弟子の心情に思いやる間もない一撃だった。 「何を笑っているのですか、君は」 「…………わ、わらっでまぜん」 頭を抱えたルーは半泣きで答えた。 「君、最近、涙腺が弱いですよ。女の子だからって泣いて許されるなんて、甘ったれた根性でいるのなら、認識を改めなさい。僕は養い親として、君を立派な人間に育てると心に決めているのですから、女の子だからと容赦するつもりはありません」 過去、女の子に手を上げるほど鬼畜じゃないと語ったその口で、レイテは平然と矛盾することを言っていた。 「別に泣いて許してもらおうなんて考えていません。ただ、痛かったから」 「…………」 レイテは自分の右手を見た。ルーの頭を叩いた手がこちらもまた腫れている。 ハアッと息を吐いて、レイテは痛みを魔法で取り除き、ついでにルーの頭を撫でることで治療してやった。 「ううう、ごめんなさい」 「素直に謝ればいいのです。まあ、許してあげましょう」 「本当に、ごめんなさい」 ルーは正座をし、土下座までしてきた。床に額を押し付けんばかりの勢いである。 そこまでするほどに、自分は怖かったのか？ と、レイテはちょっとだけ傷ついた。 「……もういいですから、本題に入りなさい。僕の顔に卵を叩きつけるほど、慌てる用件とは何です？」 レイテはタオルで濡れた銀髪を拭いた。ローブも卵の黄身で汚れてしまったために、今は白いシャツに黒のズボンというシンプルないでたちだ。その立ち姿だけ見れば、貴公子然としている。 ローブを身にまとっていないだけで、レイテは魔法使いというより童話に出てくる容姿端麗な王子様みたいである。 「ルー、本題を」 歪みのないラインの横顔に見とれていたルーを、レイテが促す。 「あ、はい、実は買い物に出かけた先で──」 移動魔法が使えるようになった──とはいえ、まだ一回だけなのだが──ルーはそれを完全にマスターするように、とレイテから言われた。それにはどうすれば、というルーの問いかけにレイテはあっさりと一言。 「とにかく、魔法を使いなさい。使うことによって、魔力の消費量に身体が耐えられなくなったら、身体が自然と魔力をコントロールしてくれるようになるでしょう。君の場合は意志の力で魔力をコントロールしようと訓練するより、そちらのほうが良いみたいです」 「魔法を使うって言っても……」 「とりあえず、買い物でもしてきたらどうですか？」 と、ルーがレイテに頼まれたのは卵の買出しだった。 城の地下にレイテの魔法で作られた空間に広がる牧場では、様々な家畜が飼われている。勿論、鶏もいたが、今日は珍しく卵を産んでいなかったのですよ、とレイテは財布を片手に言った。 「外に出て行くんですか、俺一人で？」 十七年間、城の中でレイテと二人で暮らしてきたルーには初めてのお使いだった。今年の初め、レイテがよく出入りしている街フラリスの新年祭に出掛けて、レイテ以外の人間を目の当たりにしたという経験をしたばかりである。 「君に本などで世間一般の常識を学ばせることについて、僕は限界を知りました。君は頭で覚えるより、身体で覚えるタイプのようですから、少し他の人の中に混じって常識を身に付けなさい」 「……常識？」 「ええ、まあ」 「俺、何か間違っていますか？」 「……個性と言ってしまえばそれまでなのでしょうけれど。普通、女の子は「俺」とは言いませんし……その他、もろもろ」 「はあ」 手の平に載せられた財布を見て、ルーは小首を傾げながら、フラリスの街に買出しに出かけたわけである。 「────先生の偽者ですっ！」 ルーがもう焦れったいと言いたげに、結論だけを告げてきた。 間の部分が省略されているので、いきなり偽者と言われてもわけがわからない。 「偽者？」 レイテは眉根に皺を寄せ、床に正座したままの弟子を見下ろした。 「そうなんです、それで大変なんですっ！」 両腕をぐるぐると回して、大騒ぎする弟子を前に、レイテは戸惑う。 「いや……別に、僕は大変じゃないのですけど？」 「どうしてですかっ！ 偽者なんですよ。偽者っ！」 「ええ、でも、それは偽者なのでしょう？ 偽者と最初からわかりきっている偽者なら、本物の僕にはなり得ないわけですから、偽者がいたところで僕には関係ない。わかりますか？」 最初から、偽者だとわかっているものが現れたところで、本物の存在は揺らぎやしない。第一に、レイテ・アンドリューの名前を騙って何の得があるのだろう？ 世間に知られているレイテ・アンドリューは偉大な魔法使いではあるが、一千年の時を生きた不死者だ。その年衰えることのない絶世の美貌で、一千年を生きてきたレイテは吸血鬼と呼ばれる人外の種族と間違えられ、人間の人肉を食らい生き血を啜る化け物と勘違いされてきた。 彼が住む城がそびえ建つ丘の麓の街ガーデンでは、レイテの怒りを買うと街を滅ぼされると五十年に一度、または天災が起こるたびに生贄を差し出してくる始末だ。 レイテの名は人々に恐怖を与えはすれど、得することなんてないと思う。 （まあ、悪鬼と恐れられている僕を退治したとでも騙れば、英雄と持ち上げられることはあってもねぇ） 下手にその名を騙り悪行に走れば、我こそ勇者だと名乗り上げる輩が現れてその身が危ないと思う。 「でも、偽者が本物なんですっ！」 ルーは相変わらず両手をばたつかせて力説した。まったくもって、要領を得ない説明だ。 「ルー、君ね。もっと、わかるように説明してくれませんか？」 「えっーと、だから、それは先生の偽者なんですけど、でも、フラリスの街の皆は本物と思っていて」 「はあ……まあ、それは珍しくないですよ。誰も本当の僕なんて知らないでしょう。知っているとすれば、今まで僕に生贄として捧げられた子達と君ぐらいですから」 「だから、大変なんです」 「それを説明しなさいと、さっきから言っているでしょうが」 ぺしり、と額を叩かれて、ルーは唸った。 「ほら、説明」 いまだに正座したままのルーの前に椅子を持ってきて、レイテは腰掛けた。両腕を組んで偉そうに促す。 「えっと、あの、だから……先生の偽者が現れたんです」 「それは聞きました。皆がそれを本物の僕だと思っていると」 「うん。だからね、街の美人さん百人が生贄にされるんです」 「……ひゃ、百人？」 レイテは百人の生贄が一度に押しかけてきたら、城の金庫に貯め込んでいる金貨など消えてしまう、という事実に青ざめた。 いや、それ以前に、足りるのか？ 一人頭、金貨百枚とすれば一万枚……何とか用意できるだろうか？ と、そこまで考えて我に返る。 （僕のところに差し出されるわけではないのでしたね……） 思わず動転してしまった。これではルーのことを、とやかく言えた義理ではない。しかし、弟子の手前、平然を装う。 「それはまた……凄い要求をしたものですね。美人を百人ですか」 「で、街は大騒ぎなんですよっ！」 「……まさか、本気で生贄を差し出すつもりじゃないでしょう？ 僕はいまだかって自分から生贄を要求したことなどありませんよ。まあ、ガーデンの街はもう生贄を差し出さないと駄目だってガチガチに凝り固まっていますから、要求されたら真に受けてもしょうがないとしても。フラリスの街は、幾ら僕の悪名が通っているとしても過去の例から見て真に受けるなんて思いませんが」 「それがっ！ 本気になっているんですっ！」 「何でっ？」 珍しくレイテは慌てた。 「最初は皆、誰かが先生の名前を騙った奴の仕業だろうって思っていたんです。でも、町長さんの家が突然、燃えちゃって。で、焼け落ちた後に、生贄を差し出さないとこの何倍もの業火が街を灰にする、っていう脅迫状が置かれてあって」 「……ただの火事に、誰かが悪戯で便乗した可能性は？」 「ちょうど、俺が買い出しに出ていたところで火事が起こって、一部始終を見ていたんですけど……あれ、多分、魔法の火です」 スッとレイテの目が細くなった。ルーは、魔法使いとしてはまだ半人前と呼べるレベルだが、魔法の知識に関しては一人前と言ってよい。そのルーが本物の火と魔法によって編み出された火を区別できないということはない。 「……沢山の人が消火にあたって、水をかけたんですけど消えませんでした。それで、街の人たちもただの火事じゃないって気付いたんですよ」 「……それで、美人を百人……。期日はいつなのですか？」 「今日の夜だって言っていました。先生がお世話になっている雑貨屋のお姉さんも生贄にされちゃうって。大変でしょうっ？」 「……ええ、もう、本当に大変ですね。どこのどいつでしょうか、僕の名前を汚す馬鹿は。しかも、魔法を使って？ フフフっ」 薄くしのび笑うレイテに、ルーは思わず目をパチクリと見開いた。 笑うようなことかな？ と思うのだが……。 「……それはそれは、是非ともその馬鹿の顔を拝まなければ。僕の名前を騙る以上、僕並みに美麗で華麗で秀麗、鮮麗かつ優麗、さらに艶麗で端麗な美貌の持ち主なのでしょう」 そう微笑むレイテの背後に、不穏なオーラをルーは見た気がした。 「……先生、怒っているの？」 偽者が現れたと聞いても泰然としていたのに、突然のこの変貌ぶりはなんだ？ 目を見張るルーを前に、レイテは薄笑いを浮かべながら、続けた。 「魔法を使うとあってはね……これは見逃せませんよ。今まで僕の名前を騙る者が全くいなかったというわけじゃありません。でも、彼らは魔法を使えなかったから、直ぐに偽者と判明した。でも、ここに至って魔法を使う偽者が現れたとあっては見過ごせません。それに、美女百人ですって？ 誤解を解かなければ僕は女好きと世間に見られてしまう」 既に吸血鬼だとか誤解されているのだが、女好きという誤解は人間性に関わってくる。 「ルー、僕は出かけてきます」 「俺も行きますっ！」 身を翻したレイテの後をルーも追いかけた。 |