25,珍客登場 ルーは雑巾片手に空を眺めた。 どこまでも澄んだ青空が窓の外に広がっている。平和だった。今までも、平和ではあったけれど、十日前、偽者事件でレイテが一瞬でも大怪我を負ってしまったことを思えば、この平和がとてつもなく貴重なものに思える。 (ずっと……このままでありますように) そう心の底から願わずにはいられない。 自分たちの前から消えた黒の青年が、またレイテを狙ってくるかもしれない。この平和はいつまで続くのか……。 (先生のことだから、大丈夫だとは思うけど……) レイテの流血を目にしてしまった以上、不安は消えない。 「大体、何なのさ、あいつはっ!」 (上から下まで真っ黒の黒人間っ!) 「先生が白人間なら、あいつは黒人間だ」 結局、名前も名乗らないまま去ってしまった青年に、ルーは黒人間と命名付けた。 人を騙すし、魔法を悪用するし、言っていること訳わかんないし。 (恨みとか言うけど、先生のこと何で恨んでいるのか説明しろって感じっ!) 怒りに任せてルーはガラス窓を叩いた。パリン、と音を立ててガラスが割れた。雑巾を手にしていたルーには実害はなかったが、下に破片が落ちていったところで、 「ぎゃあああああっ!」 という雄叫びが響いた。 「ん? ……何だろ?」 ルーが小首を傾げたところで、レイテが現れた。あの事件以降、前にもまして書庫に入り浸りになっていたレイテは少し青い顔をし、慌てた様子だ。 「何をやっているのです、君はっ!」 ルーの顔を見るなり、眉を跳ね上げる。 「何って、先生の言いつけ通りに窓ガラスを拭いていたんです」 「どうして、拭き掃除でガラスが割れるのですか? それより、なにより、下に行ってお客様をお迎えしてきなさい」 「お客様っ? え、また、セラみたいな生贄ですか?」 「そんなことは行けばわかります、ホラ、早く。ガラスの修復は僕がしておきますから」 「はーい」 追い立てられるようにして、ルーは玄関に向かった。 去年の夏、初めてルーの前にレイテ以外の人間が現れたときのことを思い出す。 (そう言えば、セラは今頃どうしているのかな?) ぼんやりと思う。 雪竜の被害から、助けて欲しいと自ら生贄を志願した少女とはその後、連絡は取っていない。彼女は表向き、この城を訪れてはいないということになっている。だから、セラからはこの城には来られないし、レイテやルーから彼女とところに出かけることもない。 街の人間にどこで知り合ったのか? などと詮索されたら困るのだ。 「元気にしているといいなー」 そう呟いて、扉を開く。開いた隙間に飛び込んできたのは……。 「いゃゃゃゃゃっ! お化けっ!」 ルーは悲鳴を上げてそのままバタンと、勢いよく扉を閉めた。 ややあって、 「……じ、嬢さん……俺スッ」 聞き覚えがあるような声がして、ルーはソロリと扉を開けた。 視界に現れたのは、フラリスの街の自警団の若頭グレースだった。しかし、彼の異様な格好にルーはフニャリと顔を歪めた。 「いゃゃゃゃゃっ! お化けっ!」 再び、扉を閉めようとするルーに、慌ててグレースはドア枠に手を掛けた。閉め出されるのを避けるために突き出した手は扉に挟まれる。 「ぎゃゃゃゃゃっ!」 グレースの雄叫びにルーはパニックに陥った。閉じても閉まらない扉を──グレースの手が挟まっているので閉まるわけはない──閉めようとガンガンと扉を引っ張る。その度にグレースが雄叫びを上げるので、またルーは扉を閉めようと必死になる。 誰かが突っ込まない限り、延々と繰り返しそうな馬鹿を見つけて、レイテはガシッと弟子の頭を掴んだ。 「……君は何をしているのですか」 「せっ、先生っ! お化けですっ!」 振り返ったルーは泣きながら叫んだ。いつものごとく、鼻水が垂れそうだ。 誰でもいい、この子に女の子としてのあり方を教えて欲しい、とレイテは頭痛を覚えながら心の中で叫んだ。 「馬鹿なことを言わないでください。この世にお化けなんているものですか」 「だって、先生っ! 前にもったいないお化けの話をしてくれたじゃないですかっ、あれって嘘だったんですか?」 「…………もったいないお化けはいますよ、ええ」 デタラメ話を完全に忘れていたレイテはヒクリと頬を引きつらせた。記憶の端からその話を引っ張り出して、レイテは続けた。 「でも、よく考えてみなさい。もったいないお化けは、食べ物を残した人間の寝ているところに現れるお化けです。このような真っ昼間に現れるお化けはいません」 「いたら?」 「いません」 「でも、先生だって知らないことはあるでしょう?」 「それはまあ、謙虚な僕としましては、そういうこともありえると認めますよ」 「じゃあ、先生が知らないだけで、お昼に出てくるお化けがいるかもしれないっ!」 「いませんって。ああ、もうっ! その手を離しなさい」 頑なに扉を閉じようとするルーの手を何とか引き剥がすと、レイテは扉に向き直って、勢いよく開けた。当然、扉に接近していたグレースは顔面を強打してノックアウト。 レイテが外を覗くと頭にガラスの破片を突き刺して──ルーが割って落としたガラスだろう──顔を血塗れにし、背中に山のように背負った荷物のために逆えび反りの形で倒れているグレースを発見する。 その姿を一目すれば、なるほど、ルーが化け物と叫びたくなる気持ちはよくわかる。 「……見なかったことにしましょうか?」 城の周りに仕掛けた結界で、グレースの接近を感じていたレイテだったが……。 くるりと踵を返して、扉を閉めようとするレイテの背中に忍び寄ったグレースが圧し掛かる。 「そりゃないスッ、若様〜」 「大丈夫ですか?」 レイテの問いかけにグレースは頷いた。魔法によって治療したおかげで頭の出血も止まり、骨折していて何倍にも腫れ上がっていた指は元通り。握ったり開いたりと指を動かしても痛くはない。 「本当に凄いスッね、魔法って」 感嘆の吐息を吐くグレースにレイテは苦笑を返した。 「……今回は特別です。弟子の仕出かしたことは師である僕の責任ですし」 養い親としても、こんな娘に育ててしまったことを悔いる思いだ。 「本来は自然治癒で治るのを待つのが一番いいのです。あまり、魔法に頼りすぎると身体が持っている本来の治癒力が低下してしまいますから」 「そうなんスか」 「何事もほどほどです。魔法に頼りすぎたために、過去、文明が中々発展しないということがありましたし」 「そうなんスか?」 「ええ。魔法使いにとって移動するのは魔法を使えば簡単でしょう。昔は大抵の人間が魔法を使えましたからね。道とか橋とか、そういった街路の整備は全くといってよいほど、手が付けられなかったですし、今で言う鉄道ですか? あんなものを考える余地も最初からないような状態でした」 「鉄道って?」 「嬢さんは知らないんスッか。二本のレールの上を蒸気のエネルギーで走る車スよ。とはいえ、オレも見たことないんスよね。大都会に出れば見られるんでしょうが、そこでだってまだ何本かしか走っていないものなんスよ」 「ふうん」 イメージできないのか、ルーは興味なさそうに鼻を鳴らした。 「魔法はあれば便利ですけれどね。人は考える力によって、足りないものを補う、ものを作りだすことができますから」 レイテはグレースに向き直った。 「さて、グレースさん。どうして、あなたはこちらに来られたのでしょう?」 「あ、それはスッね」 思い出したようにグレースは持ってきた荷物を漁る。シャツやらズボンやら枕やらを──(何で、枕?) レイテはグレースの荷物に眉をひそめた──取り出して、やっと見つけたそれをレイテに差し出す。 「まずは、これを返すスッ」 差し出されたのは金貨が詰まった財布だ。ミーナの服の弁償代にと、グレースに預けたものだ。預けたというより、あげたつもりで、返してもらう予定などなかったレイテは目を瞬かせた。 「ミーナから伝言ス、服のことは構いませんから、また、お店に顔を出してくださいとのことスよ」 「……あの、ミーナさんは怒ってはいないのですか?」 受け取った財布をしまいながらレイテは問う。 「服一枚汚されたぐらいで、怒るなんてそんな度量の狭い人間なんていないスよ」 グレースがハハハッと笑うのに対して、ルーは首を傾げた。 「……けど、先生はぼぼるび(怒るよ)」 意味不明の音を発したルーをグレースが振り返る。すると、レイテが少女の──赤い服を着ていたときは間違いなく女の子であると実感させられたが、今の姿を見るにつけてはやっぱり男の子ではないか? と、グレースは思ってしまう──両頬を思いっきり抓っている姿が映った。 「君は黙っていなさいね」 ルーの顔を覗きこんで、レイテは艶然と微笑む。 ルーは、水色の瞳に宿った殺気に恐れをなした様子で、コクコクと頷いた。レイテが手を離したので、ルーは両頬を手で覆う。何だか、昨年の夏にも同じことがあったような気がしないでもない。 「そうですか……ミーナさんは怒ってらっしゃらない」 「むしろ、街の皆総出で若様のことを待っているんスよ」 「……やっぱり、怒っていますか」 少し怯えたように身を引かせるレイテに、グレースは間の抜けた顔をした。 「は? 何で、若様を怒るんスか」 「だって、生贄事件は全て、僕に対するあてつけみたいなものではないですか。フラリスの街の皆さんには傍迷惑な話でしたでしょう」 「あーと、それは若様が本物だって知ったら、皆もちょっとは怒るかも知れないスッけど」 「……もしかして、グレースさんは律儀に僕との約束を守ってくださったのですか?」 「内緒にするって話スか?」 「ええ、そうです」 「勿論、誰にも話してないスよ」 当然とばかりのグレースにレイテは面食らう。 「では、街の人に説明するときには困りませんでしたか?」 説明の際には省けないことだと思う。グレースが自警団の若頭としての責任を果たすなら、自分との約束は放棄されるものだとレイテは思っていた。内緒にして、と言いながらその実、あまり期待はしていなかった。 (大体、二度とフラリスの街には行かないつもりでしたから、あの言葉は単なる嫌がらせ……もとい、時間稼ぎで) そこで自分の実像がどのように歪曲されても、関係ないとレイテは思っていたから。 「あー、それスッが……偽者うんぬんなんて、関係なくなってしまったスよ」 何だか、泣きそうに顔を歪めたグレースに今度は戸惑う。ルーもそうだが、一見泣きそうにない者に泣かれると困る。 「……あのスッね、ライラが死にました」 |