31,眠りの淵で 目覚めたグレースは、いつもとは違う部屋の光景に自分の居場所を一瞬、見失った。暫くして、ここは偉大なる不死の魔法使いレイテ・アンドリューの居城の一室であることを思い出した。 ベッドから起き上がって、服を着替える。今日から、レイテに本格的に魔法を習う。正直言って、自分に魔法が使いこなせるのかどうか、わからない。 けれど、ここまで来たらやるしかない。 気合を込めるようにグレースは自分の頬をパンと叩いた。そうして、部屋を出たところを目の前をスキップしながら人影が駆け抜けていく。レイテであるはずがないから、答えは一つ。 「お、おはようスッ。嬢さん」 声を掛けたグレースに、かなり行過ぎたところで立ち止まったルーは、トコトコとこちらに舞い戻ってきた。 「おはよう、グレースさん。早いね?」 「それは嬢さんも……あっと、具合とか大丈夫スか?」 グレースは昨夜のルーの酒乱を思い出し、問いかけた。二日酔いで体調が悪いと……いうことはないだろう。何しろ、スキップをしていたのだから。 案の定、何でそんなことを聞くのかと不思議そうに小首を傾げる。 「えっと、昨日のこと、覚えているスか?」 「昨日……昨日? ああ、お酒って美味しいね。今度、先生にお願いして作ってもらおうかな」 「酒は……素人じゃ作れないと思うスよ」 「そうなんだ? 残念。でも、いいんだ、今度街に行ったとき、買ってもらうから」 (多分、若様は買ってくれないと思うスよ……) 心ではそう思うが、本人に言えやしない。言ったら、何で? と問われるだろう。どうやら、ルーの記憶からは昨日の醜態は完全に消されている。あの馬鹿騒ぎを語って見せたところで、信じてはくれないだろう。 (嬢さんの前で酒の話をするのは止めといたほうがいいスね) 「あー、嬢さん。顔を洗いたいスッが、どこに行けば」 「あっちの角を曲がったところにお風呂場があるよ。その脇に洗面所があるから」 「ありがとうスよ」 グレースはそそくさとルーの前から立ち去る。洗面所へと向かう彼の背中に、ルーの陽気な歌が聞こえてきた。 「〈ルビィと先生はラブラブなのさぁ〜♪〉」 また魔法が襲ってくるのではと身構えつつ、振り返ったグレースは再びスキップで廊下を走り抜けていくルーのその向こうに花畑を見た気がした。 (オレ、確か……酒は一杯しか飲んでなかったような……) しかも、酒には強いと自負していたが……自分も年なのだろうか? グレースはハアとため息を吐いて、洗面所へと向かう。その前にフラフラで現れたのは他でもないレイテだ。 「あ、おはようスッ、若様」 「おはようございます、グレースさん。……昨日はよく眠れましたか?」 「はい、一応……っていうか、若様は? 何だか、寝てないっていうのが丸わかりの形相スよ」 乱れた銀髪。目元を縁取ったクマに、青ざめた顔色。憔悴しきったその姿にグレースは思わず問いかける。レイテは「ああ」と言うと、右へと流れていき、壁に身体をぶつけたところで立ち止まった。 「あの後……僕はルーを部屋へと運びました」 レイテは壁に顔を寄せてブツブツと口の中だけで発音する。くぐもったその声にグレースはじっと耳を傾ける。 「ベッドに寝かしつけ、これで一安心と思ったところに……あの子は突然、目を覚ましました」 「……覚めたんスか? 酔いは?」 「…………当然のごとく、さめてはいません。それで、あの子は何をしたと思います?」 「な、何スか? やっぱり、何か……」 「いきなり起き上がったかと思うと、部屋の窓を開け放ちまして、空飛ぶ豚を探しに行くのだ、と叫んで飛び出したのですよっ!」 「──はあっ?」 ルーの部屋はグレースと同じ三階にある。落ちたらタダでは済まない高さだ。 「よりにもよって、浮遊魔法ですよ? 一番、慎重かつ繊細な魔力のコントロールを必要される魔法をあの子が操れると思いますか? 夕食の席で、あれだけの魔法を操っていても浮遊魔法は魔力の持続が必要不可欠。突発的に炎を具現化させるのとは違いますよ。当然、真っ逆さまに……」 「落ちたスッか?」 「寸前で、僕が受け止めましたっ!」 声を荒げてレイテはグレースを振り返った。今にも泣き出しそうに歪んだ絶世の美貌。 レイテは精神を落ち着けるように、息を吸っては吐いて、グレースに問いかけた。 「……グレースさん、不死の魔法陣を刻んだ僕の心臓はナイフの刃でさえ受け止めます。しかし……心臓麻痺には耐えられるでしょうか?」 不安げに見上げてくる水色の瞳にグレースは絶句した。 (不死の若様を嬢さんはショック死させるスか?) 「その後、ルーを部屋に引っ張り上げまた寝かしつけ、今度こそ大丈夫だと部屋を出て行こうとしたら、今度は寝ながらダンスですよ」 途方に暮れたような声でレイテは続けた。 「寝ながら?」 「あの子の寝相の悪さはきっと世界一です。しかも、昨日はその動きの恐ろしいこと……。立ち上がり、飛び跳ね、踊るのですよ……。しかも頭から床にダイブです。首の骨でも折ったらと、気が気じゃありませんでした。寝ているので、眠りの魔法なんてかけても同じですし……もったいないお化けより、僕はあの子の方がずっと怖いと思いましたよ」 「…………」 「それで、申し訳ないのですが、僕はこれから休ませてもらいます」 「ああ、それはどうぞスよ」 心から同情して、グレースは言った。 「ありがとう。グレースさん、今日からのあなたの魔法修行ですがね。ルーに魔力を魔法に転化する方法を教えてもらってください。これは簡単ですから、直ぐに覚えますよ」 「じ、嬢さんにスか?」 「大丈夫、この行程ならルーにも教えられます。不本意ですが、あの子が正真正銘の魔法使いであることは、あなたも昨日のアレでわかったでしょう?」 「……ああ……まあ」 グレースは視線が泳ぐのを自覚する。レイテも深々とため息をついた。認めたくない気持ちは二人とも同じだった。 「……まずは自分の中にある魔力を知ること、これは必須です。これができなければ、幾ら魔法文字や魔法陣の構成の仕方を覚えても無駄です」 「はあ……」 「そういうわけで、ルーにはグレースさんから話してください。食堂に朝食を用意しておきましたから、二人で食べてください。僕は寝ます」 ポンとグレースの肩を叩くと、レイテは右へフラフラ、左へフラフラと揺れながら歩いていった。 グレースは顔を洗って食堂に向かう。昨日の惨状はどこにもなく、食器棚の皿が減っている以外には、変わったところはなかった。水浸しだった床も、竜巻によって吹き飛ばされ折れた椅子の足も、全ては元通りだ。レイテが片付けたのだろう。 既に食卓についていたルーに、グレースはレイテが朝食の席にやってこないことを告げた。 「どうして?」 「今日は体調が優れないってことで、オレの魔法修行は嬢さんに任せるってことスよ。えっと、魔力を魔法に変える? それを嬢さんに教えてもらえとのことス」 「そう。先生、大丈夫かな? 側についてなくて、平気かな」 陽気だったルーの表情が陰る。 「あ……、ただの二日酔いだと思うスよ」 「二日酔い?」 「酒は飲みすぎると翌日に響くこともあるスよ。若様はそれで具合が悪いスッよ、きっと。病気ってわけじゃないスッから、あまり心配することないスよ」 ルーがレイテの寝床をうろつくことになっては、安眠妨害になるだろうとグレースは先手を打つ。 「そうなんだ? 先生、お酒が好きそうだったけど」 「好きだから……大丈夫というわけでもないスよ」 「ふーん」 ルーは蜂蜜をたっぷりぬったホットケーキをもぐもぐと食べて頷く。その食欲を見ればやはり、二日酔いとは無縁そうだ。グレースも山積みにされたホットケーキを一枚ずつ皿にとってはぺろりと平らげる。 「ああ……それと、嬢さん。あの歌は歌わないほうがいいと思うスよ」 「歌?」 「えっと、今日の朝、歌っていたでしょ。あれ、街の新年祭の喉自慢大会でギャビンが歌った歌スよね、少し歌詞が違うスッけど」 「ギャビンさんっていうの、あの人?」 ルーは舞台の上でノリノリに熱唱していた青年の姿を思い出す。 そのとき、ルーは初めて歌というものを知った。レイテに読んでもらった童話の中には歌を歌うという、表現があったが、レイテは歌を歌ってはくれなかった。 だから、新年祭の喉自慢大会でリズムに合わせて言葉を口にすることが、歌だと知って、そして、楽しそうな青年の姿に、ルーは感動を覚えた。以来、楽しい気持ちになるとあの歌が口をついて出てくるのだと、少女は説明した。 「はあ。一応、うちの自警団の団員なんスが、あの歌をきっかけに恋人と別れまして」 「ええっ? どうして?」 「…………や、それは……よくわからないスが」 あの歌を片方が歌うことによって、二人の間の見解の違いをまざまざと認識してしまうのだろう、とグレースは考える。 恥を知る者と、恥知らず。 対極に位置する性格の二人が付き合うには苦労がいる。どこまで、相手を受け止められるかとなったとき、ギャビンの恋人は恥ずかしい歌を平気な顔して歌う彼氏に愛想をつかした、つまりはそういうことなのだろう。 「それ以来、あの歌は百年の恋も冷ます不吉な歌と言われているスよ」 「……そ、そうなの」 「はい。だから、悪いことは言わないス。あの歌を少なくとも、若様の前では歌わないほうがいいスよ」 その歌を聴くたびに、レイテは酒乱で暴走するルーの姿をまぶたの裏によみがえらせて、少女と自分の間にある断崖を実感してしまうだろう。 嫌われたら、また好きになってもらえばいいと、ルーには言ったものの、やはり別れずに済むのならそれに越したことはない。 「若様と嬢さんの恋が、ギャビンと同じようになってしまったら、嫌スよね?」 「う、うん」 「じゃあ、歌わないほうがいいスよ」 ついでに、二度と酒も飲むなと言いたかったが、グレースはギリギリで止めた。本人に自覚がないことを言ってもしょうがない。 「わかった、気をつけるよ」 「そうしたほうがいいス」 グレースは頷いて、また一枚、ホットケーキを平らげた。 レイテが朝、一時間掛けて焼いた五十枚のホットケーキが二人の胃袋に納まってしまうのにはさほど、時間が掛からなかった。 「ごちそうさま。じゃあ、グレースさん、修行しようか」 「そうスね」 「疲れた……」 ベッドに横になったレイテはそっと息を吐き出しながら、呟いた。 寝ながらダンスをするルーを一晩監視して、ようやくその動きが収まったと一息つく頃には窓の外は明るくなり始めていた。 慌てて、食堂に向かい悲惨な室内を片付ける。椅子や食器棚などの壊れたものは魔法で修復し、割れた皿については欠片を集めて、捨てた。水浸しの床は熱で水分を蒸発させ、ホウキで一掃きした。 それから朝食の準備を始めたが、これもまた大変だった。普通なら、ホットケーキを自分とルーの二枚焼けば十分なのだが、グレースがいた。彼の胃袋を考えると何枚焼いても足りない気がして、結局、五十枚も焼いてしまった。さすがに、グレースも食べきれないかもしれない。 (残っているようでしたら……昼食に回しましょう) などと考えるが、それは要らぬ心配だった。 「…………それにしても」 (ルーには……驚かされますね) 出会いからして、そう。 十七年前のあの日、城に近づく人の気配を察して、またガーデンの街の人間が生贄を差し出しに来たのかと思った。 五十年周期の生贄ではなかったから、天災をレイテの怒りと信じてのことかと。その夏は嵐が立て続けに二つばかり、麓の街を襲っていた。規模自体はそう大きなものではなかったが、疑心暗鬼に取り付かれている街の人間には少しの長雨でもレイテの仕業と思い込む。 やれやれと、玄関へ向かってみればそこには産着に包まれた赤ん坊がゆりかごに入れられ置かれていた。驚いたのは言うまでもない。 年端の行かない赤ん坊なら、生贄に差し出すのに差しさわりがないと考えたのか? 赤ん坊なら、逃げ出す心配もないし、生まれてこなかったのだと、言い訳すれば諦めがつくと? あまりにも小さく、軽く扱われた命に対して覚えた微かな憤りを押し隠して、レイテは赤ん坊を優しく抱き上げた。レイテの気配に赤ん坊は小さな声で笑った。自分の身に与えられた運命など知るよしもなく。 (どうして……あの子を育てようなんて思ったのでしょうね) 子育てなんてできるはずもない。だから、そういった施設に預けるべきだった。 (本当に……あんなにお馬鹿な子に育って) レイテはクスリと笑みをこぼす。馬鹿な子ほど可愛いというのはあながち、間違いではない、という気がする。 (……結局、僕は全てを許して、ルーに振り回されっぱなしですよ) たった一人で暮らしていたときは、果てのない命が終わらないことに絶望していた。死ぬことだけを求めて、死の魔法をひたすら研究する日々だった。 (でも……ルーが僕の人生を変えた) 小さなルーは目を離して置けなくて、知らず知らずに実験室から遠ざかった。やがて、ルーが大きくなり、別れの時間が迫るにつれて、レイテは再び実験室に入り浸るようになった。 (一人取り残されてしまうのが、怖かった。ルーが僕を変えてしまったから……) 笑ったり、怒ったり……そういう感情すら忘れかけていたレイテの日常に、喜びや驚きを小さなルーは毎日毎日、与えてくれた。 だからこそ、死を前よりも切望するようになった。 (もう元のように、一人でいることが耐えられなくなることを知っていたから……) そして、セラの一件だ。ドラゴンの呪いを受けて、不死の身体は生き続けても、魂だけでも死ねればと願ったレイテをルーは止めた。 (僕は死なない……そう誓った) レイテは持ち上げた自分の手を見上げた。透き通るような白い肌を透かして、血液が流れているのがわかる。この命の脈動はこれから先、誓いがある限り止まらない。止まらせない。 「けれど……ルー……」 レイテは顔を両手でそっと覆った。 酔っ払ったルーが窓から飛び出したとき、この胸を締め付けた驚きを思い出すだけで、今も鼓動は早くなる。 (僕は君を亡くして……耐えられるでしょうか?) 絶対に訪れる死と言う別れに、覚悟はできているはずだった。きっと、また巡り合うと信じられたから。 だけど、今は……。 少しだけ、ほんの少しだが…………自分に自信がない。 この心は……精神は……。 (昔のままだ……) 守りたいもの、守りたい誓いがあるのに……。 |